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東京地方裁判所 平成7年(行ウ)105号 判決 2000年2月02日

原告

国民生活金融公庫

右代表者総裁

尾崎護

右訴訟代理人弁護士

冨田武夫

渡辺修

松崎正躬

被告

東京都地方労働委員会

右代表者会長

沖野威

右訴訟代理人弁護士

飯畑正男

右指定代理人

内藤邦胤

外一名

被告補助参加人

A

外一八名

右被告補助参加人ら一九名訴訟代理人弁護士

上条貞夫

松井繁明

永盛敦郎

宮原哲朗

主文

一  被告が都労委昭和六一年不第九〇号及び昭和六三年不第二四号事件について平成七年四月四日付けで発した命令中次の部分はこれを取り消す。

1  申立人A、同B、同C、同D、同E、同F、同H、同I、同K、同M、同N、同O、同P、同Q、同R及び同Sに関する部分

2  申立人G、同J及び同Lに関し、主文1項において、被申立人が、昭和五九年度の同年四月一日における職位及び給与につき、別表「賃金等是正一覧」のとおり是正し、既支給額との差額を支払わなければならないと命じた部分及び同2項において、被申立人が右三名に対する右差額の支払が完了するまでの間、年五分の割合による金員を支払わなければならないと命じた部分

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一九分し、その三を原告の負担とし、その余は被告の負担とし、補助参加によって生じた訴訟費用は、原告と被告補助参加人G、同J及び同Lとの間においては、被告補助参加人G、同J及び同Lに生じた費用の四分の三を原告の負担とし、その余は各自の負担とし、原告とその余の被告補助参加人らとの間においては、全部その余の被告補助参加人らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告が都労委昭和六一年不第九〇号及び昭和六三年不第二四号事件につき平成七年四月四日付けで発した命令(以下「本件命令」という。)を取り消す。

第二  事案の概要

本件は、原告の職員であり、その職員により組織されている労働組合の組合員である補助参加人ら一九名が、組合活動を理由に原告から役職位の任用及び昇給・昇格について労働組合法七条一号所定の不利益取扱い及びこれを前提とする同条三号所定の支配介入の不当労働行為があったとして、被告に対して救済申立てをし、被告がこれをほぼ全面的に認めて救済命令を発したため、原告が、右命令の取消しを求めて行政事件訴訟を提起した事案である。

一  争いのない事実等(証拠により認定した事実については、各項の末尾その他の箇所に証拠を挙示した。なお、争いのない事実でも、参照の便宜のために証拠を挙示したものもある。)

1  当事者等

(一) 原告は、国民金融公庫法に基づいて昭和二四年六月に設立された、主として中小企業経営者に対し事業資金等の融資を行う特殊法人であり、肩書地に本店を置くほか全国各地に一五一の支店を有し、職員数は平成元年四月現在で約四八〇〇名である。

原告は、この他大学などへの進学者に対する進学資金の貸付や、共済年金等の受給者に対する恩給担保貸付をもその業務とし、また、環境衛生金融公庫(以下「環衛公庫」という。)等からの委託を受けて、代理貸付けを行う受託業務も行っていた。

(乙八九三、一三九四(七丁表、一二丁裏))

(二) 補助参加人らは、いずれも原告各支店において顧客への融資審査や債権の管理事務などを担当業務とする原告の職員又は元職員であり、国民金融公庫労働組合(以下「国金労」という。)の組合員(補助参加人K(以下「補助参加人K」という。)は昭和四九年三月に昇格し非組合員となる。)である。

なお、補助参加人らは全員が「職場から不当差別をなくし国民公庫を発展させる会」(以下「発展会」という。)の会員でもある。

(三) 国金労は、昭和二九年に結成され、当初は原告の従業員のうち、課長以下を組合員の範囲としていたが、昭和四〇年一一月には課長が非組合員化され、現行の労働協約では、おおむね副調査役以下が組合員で調査役以上が非組合員とされており、その組合員数は、補助参加人らが被告に救済申立てをした昭和六一年九月現在で約三四〇〇名であった。

(乙八九五、一三九四(二六丁裏))

国金労には、本部の指示に従って、傘下の各支部を指導することを任務とする一三の地区協議会(以下「地協」という。)があり、地協の事務局長は本部役員とされている。

2  原告の人事給与制度

原告の職員は、その職務の内容によって、一般職の職員と技能・労務職の職員(電話交換手、運転手、守衛、庶務員)とに大別されるが、補助参加人らはすべて一般職の職員である。

(乙一三九四(一八丁表))

一般職の給与体系と人事給与制度の概要は以下のとおりである。なお、満五七歳以上の職員(先任職員)は、以下の給与体系等から除かれている。

(一) 給与の内訳

給与は大別して基本給、諸手当(特別都市手当、超過勤務手当、通勤手当等)、及び特別手当(期末手当、奨励手当)に区分され、そのうち基本給は主として次の各項目からなる。

(乙八九二、一三九四(一四丁表以下))

(1) 本俸

本俸は、職員の入庫時に学歴等により初任給が決定され、次年度以降は毎年の人事考課によって等級と号俸及びその月額が、別表「一般職本俸表」に基づき決定される。

(乙二二〇)

(2) 扶養手当

扶養親族を有する職員に対して支給されるものであり、その額は等級、本俸とは関係がない。

(3) 役職手当

役職位にある職員に対して支給するものであり、その対象となる役職は、部長、支店長、次長、課長、調査役及び副調査役である。

(二) 昭和六〇年三月三一日までの人事給与制度

(1) 職能給体系の導入

原告は、昭和四〇年七月に、従来からの通し号俸制を基本とする年功序列型の給与体系を改め、職務遂行能力と勤務成績に応じて給与を支給するとの趣旨のいわゆる職能給体系を導入し、この制度は後記のように昭和六〇年四月一日をもって改定されるまで適用された(この制度を以下「旧人事給与制度」という。)。

(乙一三九四(三二丁裏以下))

(2) 職員の等級分類

一般職の職員については、その職務の内容(複雑、困難)や責任の度合いに応じて、その遂行に必要な能力段階に基づき、別表「一般職等級基準表」のように、一等級から六等級までの六段階に分類され、同表の分類基準に照らし、その勤務成績、勤務能力を総合勘案して、いずれかの等級に格付けされることになる。

(乙八九九、九〇四、九〇五、一三九六(一八頁裏以下))

(3) 本俸の決定

原告の職員の本俸は、入庫時に初任給が決定され、その後毎年の人事考課に基づく等級・号俸の決定によって給与が改定される仕組みになっている。

本俸月額は、各等級の初号金額に号差金額(同一等級での号俸の固定差額をいう。)を加算して求めた額である。

また、高卒の初任給は六等級初号、大卒の初任給は五等級初号である。

(乙八九九、一三九四(三三丁裏))

(4) 定期昇給

原告は、毎年四月一日に定期昇給を実施して、当該年度の本俸を決定、支給しており、その仕組みは次のとおりである。

(乙八九九、一三九四(三六丁裏))

ア 定期昇給の方法は、人事考課によって決定した成績評語に基づき、別表「評語、昇給号数対応表」1のように、各等級における格付け号数を上昇させる形で行う。

(乙八九九、一三九四(三七丁表))

イ 標準昇給は各等級とも八号である。ただし、高卒者については、六等級五年間、大卒新規採用者及び六等級から標準で昇格した者は、五等級一年間は全員標準(B)昇給である。

(乙八九九、一三九四(三四丁表、三七丁表))

なお、大卒五等級については、この改正以前、四年間は標準昇給扱いをしていたので、その趣旨は尊重され、また、国金労本部役員のうち、専従者については、その専従期間中は標準昇給扱いがされていた。

(5) 昇格制度

ア 一般的な基準

本人の能力、適性、勤務成績を総合勘案して、別表「昇格基準表」1に従って直近上位等級の職務を遂行する能力に達している者を昇格させるものである。

イ 下位等級における昇格に係る基準

(ア) 六等級から五等級への昇格

六等級の最少在級年数は満五年、標準在級年数も満五年である。

六等級を満五年以上経験し、人事考課による最終回の評語がB以上の者及び六等級に満八年在級した者(いわゆる自動昇格)が五等級に昇格する。

(イ) 五等級から四等級への昇格(評点制)

五等級の最少在級年数は満五年、標準在級年数は満七年である。

五等級を満五年経験し、最近四年の成績につき評点合計が二〇点の者、五等級を満六年経験し、最近五年の成績につき評点合計が一八点以上であって、最終回の評語がA以上の者、五等級を満七年以上経験し、初年度を除く成績の評点合計が一八点以上であって、最終回の評語がB以上の者及び五等級に満一二年在級した者(自動昇格)が四等級に昇格する。

前記の成績評語の換算評点は別表「評語、昇給号数対応表」2のとおりである。

(乙八九九(三頁)、一三九六(三五丁裏))

(ウ) 昇格におけるC評価は、六等級満五年、五等級満七年(標準在級年数)以上の者に限り適用し、その際昇給はBと同じく八号となる。

(乙八九九、一三九六(三四丁表))

(6) その他の確認事項

国金労の専従者については、その専従期間中は、一切不利益な取扱いをしない旨の労働協約があり、昇給においても標準昇給(B)として措置されていた。

(7) 役職の職務権限などと任用

ア 原告の職員構成と主な役職の職務権限等

原告の一般職員を等級別に区分すると、後掲別表「評語付与内訳表」のとおり、昭和六二年度においては、部、支店長クラスの一等級から調査役クラスの役付職員は一四七五名であり、全職員四八五四名中のおよそ三割を占め、これに特四等級の副調査役五九五名を含めると、原告における役付職員(「役席」)は全体で四割強になっている。

支店における主な役職の職務、権限等の概要は、以下のとおりである。

(ア) 支店長

支店の統括責任者であり、後記のように人事考課の評価権限を有する。

(イ) 次長

支店各課を統括し、支店長の補佐、代理を行う者で、同じく人事考課の評価権限(仮評価)を有する。原則として支店に一名である。

(ウ) 課長

支店各課の業務を掌理、統括する者で、人事考課の評価権限(仮評価)を有する。各課に一名である。

(エ) 調査役(課付調査役)

支店課長の補佐、代理を行う者とされるが、人事考課権はない。その任用数は、業務量に基づき各支店毎に定めるものとされ、課の配置は支店長の権限である。

(オ) 副調査役

課長、課付調査役を補佐する者とされ、その数は業務量に基づき支店ごとの最低必要数は定めているが、固定的ではない。

イ 役職位の任用手続

役職位の任用は、当該職位に必要な等級にあることを資格基準として、この基準を満たす職員の中から任用発令されるが、その手続の概要は次のとおりである。

なお、原告の一般職の職員において、一等級のうち部・支店長を「所属長」、部・支店長を除くその余の一等級、二等級及び三等級(次・課長、調査役等)を「役付職員」、四等級以下の者(副調査役以下)を「一般職員」といい、役職位の任用基準は別表「役職位任用基準」1のとおりであり、役職位と等級との対応関係については別表「役職位と等級との対応表」1のとおりである。

(ア) 支店に係る役職位の配置については、前年度末に各支店の組織構成、業務量の見通し等をもとに、当年度の役職位の人員を決定し、前記有資格者の中から任用される。

(乙一三九六(二五頁表以下))

発令の時期は、副調査役については原則として四月一日であるが、調査役以上は三月と七月の発令が多い。

(乙一三九六(二六丁表))

(イ) 役職任用に至る手順

① 所属長(支店長)は、後記「勤務成績内申書」とともに、昇格者を選定する場合の基礎資料となる「勤務報告書」に、昇格の是非についての評定の結果及び将来性に関する意見等の必要事項を記載して、一月二〇日までに人事部長あて提出する。

② 人事部長は前記成績内申書と勤務報告書とを勘案して、昇格対象者をリストアップし、総裁が決定するとされているが、具体的には、人事部において勤務成績や必要在級年数などの一定の資格要件、「勤務報告書」にある支店長の意見等を総合的に勘案し、上位等級で期待され、要求される水準に達していると認められる職員を候補としてあげる手順になっている。

(8) 人事考課制度

前記のように、原告は、昭和四〇年一二月新たな人事考課制度を制定したが、その概略はつぎのとおりである。

ア 勤務成績内申書

(ア) 勤務成績内申書の使用目的は、昇給については基礎資料とされ、昇格及び役職位任用の可否判断については参考資料とされることなどである。

(イ) 評価者 別表「評価者」1のとおり。

(乙九一一)

(ウ) 評価の実施時期と対象期間

勤務成績の評価は、暦年の前期と後期の二回(七月と翌年一月)実施され、前期は当年の一月一日から六月三〇日までの半年間が、後期は一月から一二月までの一年間が、それぞれ評価対象期間である。

(乙九一一、一三九六(四六丁表))

(エ) 評価方法

① 項目別評価

勤務成績内申書による項目別評価は、勤務態度、勤務実績、勤務能力の三分野にわたり、その分野別に更に細分した評価要素ごとに評定するもので、等級に応じて要素の数、内容は異なる。

Ⅰ 四等級職員の評価項目(一八項目)

勤務態度―信頼性、積極性、協調性、応対、秩序、責任感

勤務実績―処理量、正確度、勤務状況

勤務能力―指導力、判断力、企画力、推進力、発表力、忍耐力、識見、渉外、研究心

(なお、三等級及び二等級の職員の評価項目は、右「勤務能力」の分野に「統率力」を加えた一九項目)

Ⅱ 五等級及び六等級職員の評価項目(一五項目)

勤務態度―勤勉性、信頼性、積極性、協調性、応対、秩序、責任感

勤務実績―処理量、正確度、勤務状況

勤務能力―処理速度、知識、理解力、発表力、忍耐力

(乙九一一)

② 総合評価

総合評価は、前記項目別評価の結果をもとにして、総合的に成績はどうかをみるものとされている。

③ 評価の基準

前記勤務態度・勤務実績・勤務能力の各項目(要素)別評価及び総合評価についての評語は、いずれも、別表「評語と評価基準対応表」のとおり、S、A、B、C、Dの五段階とし、各等級の職務を遂行するために要求される一般的水準を「普通」の成績として、次の基準に照らして評価を行うこととされている。

なお、「普通」とは、部・支店内における各等級の中でおおむね七〇パーセントないし八〇パーセント程度の者が該当する水準とされている。

(乙九一一(四丁))

また、労使間では、等級別評価は正規分布に基づいては行わないこと、S、A、B、Dの人員の割合は、従来の割合(Sが三パーセント、Aが一二パーセント、Bが八一パーセント、Dが一パーセント程度)を尊重すること、C及びDは各々総職員数の一パーセント、以内とし、Cの適用にあたっては、個々に慎重に検討し、機械的に運用しないこと等が確認事項とされた。

(乙四〇〇、八九九、一三九六(四二丁裏))

④ なお、「評価要素説明書」によって、一般職員の評価については、下記のように評語と評価基準の具体的なめやすが示されている。

Ⅰ 「勤務態度」中「勤勉性」について

S(Aのうちとくにすぐれている者)、A(勤勉)、B(普通)、C(不注意)、D(怠惰)

Ⅱ 「勤務実績」中「処理量」について

S(Aのうちとくにすぐれている者)、A(予期以上だった)、B(可不可なかった)、C(予期以下だった)、D(不満足だった)

Ⅲ 「勤務能力」中「処理速度」について

S(Aのうちとくにすぐれている者)、A(正確で速い)、B(普通)、C(遅い)、D(見込みない程遅い)

Ⅳ 「総合評価」

S(勤務成績が特に優秀である。)、A(勤務成績がすぐれている。)、B(勤務成績が普通である。)、C(勤務成績がやや不良である。)、D(勤務成績が不良である。)

(乙九一一(八丁)、一三九七)

⑤ 評価の手順(四、五、六等級)

Ⅰ まず、仮評価者(課長)が前記各評価を行い、さらに同一等級者ごとに課内での順位を付けて仮評価書を作成し、所属長に報告する。

所属長(支店長)は次長と協議の上、右仮評価を参考にして評語を記入するとともに、部・支店内の順位を付して勤務成績内申書を本店人事部長あて提出する。

(乙九一一(二頁))

Ⅱ 人事部長は各支店から提出された前記勤務成績内申書をチェックし、部・支店間の評価のばらつきなどを調整し、総裁に提出する。

Ⅲ 総裁は、人事部長が調整した勤務成績を理事会に付議した上で、最終評語を決定する。

イ 勤務報告書

(ア) 提出の時期及び対象者

① 毎年一月二〇日が提出の時期であり、前一年間の指導観察結果に基づき、部・支店長が作成する、昇格者の選定にあたっての基礎資料とされるものである。

(乙九一一(二丁)、一三九七(二三丁裏二四丁表、二六丁裏))

② 五等級で次期昇格期において在級五年以上の者及び四等級から二等級までの全員が対象である。

(イ) 作成要領

所属長(支店長)は、必要に応じて次長及び課長の意見を徴し、「性向」(活発か、もの静かかなどの性格の分析)や「適性」(審査、管理・監督などの職務への適性)等のほか、「将来性」については、上位等級へ昇格させた場合期待できるかについての「将来性」の欄では、①かなりの成績が期待できる、②普通の成績が期待できる、③なんとかやっていけると思う、④少し無理である、⑤とても無理である、の五段階の基準で評定することにより、意見を記載することとされている。

また、昇格の可否、時期等についても、「概評」の欄で、①将来性に関する意見と、②今後の指導監督を行う上において留意すべき点及び必要な措置を記載し、②欄には、所属長が本人に対して行った指導注意事項及び結果についても記入することとされている。

(乙九一一)

(ウ) 留意事項

以上のほか、「「将来に関する意見」欄には、上位等級への昇格の可否及び時期等について記入するが、この場合、現等級における在級年数及び過去の勤務成績をも考慮のうえ、総合的な判断の結果を記入すること」が留意事項とされている。

(乙九一一(三頁))

(三) 昭和六〇年四月一日以降の人事給与制度

(1) 職員の等級分類などの変更

昭和六〇年四月一日以降、一般職の職員については、別表「一般職等級基準表(改定後)」のとおり、等級区分を六本体系から八本体系に分類し直され、同一等級での定昇額も旧制度の「等差号俸制」から「号差金額の逓減制」へ変更されることになった。

(乙八九八、九〇一、九〇六、一三九四(三八丁表)一三九六(二八丁裏以下)、一三九七(二七丁裏))

なお、この改定された人事給与制度(以下「新人事給与制度」という。)については、原告から、その理由として、定年延長に伴う給与財源への影響を考慮したことや、調査役や副調査役の割合が当該等級の各々約五割を占めるに至り、しかも、副調査役と主任、課長と調査役とでは職務内容、それに伴う責任の度合いや職務遂行のため必要とされる能力も異なってきていることからみて、同一等級での処遇は困難になってきたため、などという説明が「人事部ニュース」等であった。

(乙九〇九)

新人事給与制度の概要は次のとおりである。

(2) 新制度による本俸の決定

各等級の本俸月額は、初号金額に号差金額を加算することに変わりはないが、号俸の低い方から三段階で号差金額は逓減(いわゆる「しだれ」)することになった。

(3) 定期昇給の改定

ア 定期昇給の方法が、人事考課によって決定した成績評語に基づくことに変更はなく、別表「評語、昇格号数対応表」3のように、各等級における号俸を上昇させる形で行う。

(乙八九八、一三九四(四三丁裏))

イ C及びDは各々総職員数の一パーセント以内とし、Cは六等級で在級満五年以上の者及び五等級で在級満七年以上の者に限り適用する。

ウ 標準昇給は各等級とも八号である。

(乙八九八、一三九四(四二丁裏))

エ 高卒採用者は六等級五年間、短大採用者は同級三年間、大卒採用者及び六等級から標準で昇格した者は五等級一年間について、全員標準昇給を行う。

(乙八九八、一三九四(四二丁表)、一三九六(三七丁表))

(4) 昇格制度の改定

ア 一般的な基準

昭和六〇年四月一日以降の人事給与制度の改定によっても、昇格とは、その能力段階に該当する上位の等級に格付けすることを意味する点では変更はないが、本人の能力、適性、勤務成績を総合勘案して、直近上位等級の職務を遂行する能力に達している者(別表「昇格基準表」2)から選考して昇格させるものとされ、下位等級では具体的な昇格基準に変更があった。

イ 下位等級の昇格の具体的な基準の改定

新制度においては、以下の五等級及び四等級昇格に関しては、旧制度下での「評点制」から、資格者を対象とした「選考」へと変更がなされ、四等級への「自動昇格」も廃止された。

(乙八九八、一三九六(三六丁裏))

(ア) 六等級から五等級への昇格

六等級の標準在級年数は満五年である。

六等級に満五年以上(ただし、短大卒採用者にあっては満三年以上)在級し、最終回の評語がB以上の者から選考により行うほか、六等級に満八年在級した者は、五等級に昇格する(五等級への「自動昇格」の存続)。

(イ) 五等級から四等級への昇格

五等級の標準在級年数は満七年である。

五等級に満五年以上在級し、最終回の評語がB以上の者から選考により行う。

(ウ) 四等級から特四等級への昇格

四等級のうち高度な判定的業務を行うとともに、必要に応じ、課長、調査役を補佐して下級者の指導に当たる職務を遂行する能力に達している者から選考により行う。

(乙八九八、九三〇、一三九六(三七丁表)、一三九七(二九丁裏))

(5) 役職位の任用の改定

ア 役職位の任用基準

昭和六〇年四月以降の役職位任用基準(主な役職のみ)は「役職位任用基準」2のとおりであり、主な役職位と等級との対応関係を図示すると、「役職位と等級の対応関係表」2のようになる。

イ 任用手続

(ア) 支店に係る役職位の配置については、前年度末に各支店の組織構成、業務量の見通し等をもとに、当年度の役職位の人員を決定し、前記有資格者の中から任用される。

(イ) 発令の時期は、副調査役については原則として四月一日であるが、調査役以上は三月と七月の発令が多い。

(ウ) 決定に至る具体的な手順に特段の変更は認められない。

(6) 人事考課制度の改定

昭和六〇年の新人事給与制度の発足に伴い、原告は、同年四月人事考課制度を改定したが、改定後においても、「勤務成績内申書」と「勤務報告書」を基本的な考課資料とすることに変わりはない。

以下はその概略である。

ア 勤務成績内申書

(ア) 評価者 別表「評価者」2のとおり。

(乙九一二(二頁))

(イ) 評価の実施時期と対象期間

「勤務成績内申書」に係る評価については、従前同様、前期は一月一日から六月三〇日まで(提出期限は七月二〇日)の半年間が、後期は一月一日から一二月三一日まで(提出期限は一月二〇日)の一年間が、それぞれ評価対象期間である。

(ウ) 評価方法

① 従前同様に、勤務態度、勤務実績、勤務能力の三分野に関し、各々項目別に五段階で評価を行い、その上で、改めて総合評価を行う。

② 新設の特四等級と四等級の職員については、従来の四等級の場合と同一の様式により、かつ、同一の評価要素(一八項目)によって評価記入することになっている。五等級及び六等級についても従前と同様(一五項目)である。

また、各要素におけるSからDの評語を付与する評価基準にも変更はない。

(エ) 評価の手順

一般職員(特四、四、五、六等級)の内申書については、課長の仮評価から支店長の評価を経て、人事部に提出される手続等に特段変更は認められない。

(乙九一二、一三九七(一丁裏))

イ 勤務報告書

(ア) 提出の時期及び報告を要する者の範囲

一月二〇日提出に変わりなく、二等級から五等級までの全職員が対象とされている。

(イ) 作成要領

支店長は、必要に応じて次長、課長の意見を聞き、説明を要するものについては、具体的に記入することとされるなど、特段変更は認められない。

(ウ) 留意事項

「将来に関する意見」欄には、上位等級又は職位への昇格の可否及び時期について記入するが、この場合、現等級における在級年数及び過去の勤務成績をも考慮の上、総合的な判断の結果を記入することが留意事項とされている。

また、「勤務報告書」の作成に当たっては、その報告内容が一般的に抽象的表現になりがちであるが、特に「上位等級または職位への昇格の可否および時期」の記述にあたり、その理由等をも詳細かつ具体的に記入することとの注意事項がある。

4  昇給・昇格の実態

昭和五五年度から昭和六三年度の間における昇給評語とその付与人員内訳及び昇格者の人員は別表「評語付与内訳表」のとおりである。

(乙九一九ないし九二七)

5  補助参加人らの処遇の内容及び経過並びに同人らの処遇とその同期者の処遇上との比較

昭和五〇年度から昭和六三年度にかけての補助参加人ら各人の処遇の内容及び経過(ただし、補助参加人L(以下「補助参加人L」という。)は、入庫が昭和五三年度であるから、昭和五三年度から昭和六三年度にかけてのそれ)は、別表「職位、給与推移表」のとおりである。

また、同じく昭和五〇年度から昭和六三年度にかけての補助参加人ら各人の処遇とその同期者の処遇との比較は、別表「同期同学歴者等級別分布表」のとおりである。

右別表中、

(一) ③記載のWとはaで、同人は発展会の会員である。

(二) ⑥記載のSとはb、Aとはcである。

(三) ⑨記載のOとはdであり、同人は、発展会発足時に同会が出した「不当差別是正申入書」に名を連ねている者である。また、昭和五五年度以降四等級に留め置かれている一名は、女性である。

(四) ⑪記載のⅠとはe、Yとはfであり、いずれも発展会の会員である。

(五) ⑬記載のKとはg、Hとはhであり、いずれも全国活会及び発展会の会員である。

(六) ⑮記載のAとはi、Oとはjであり、いずれも全国活会及び発展会の会員である。

(争いのない事実、乙一六二、九四五ないし九四七、九五一ないし九五三、一三一三ないし一三一五、弁論の全趣旨)

6  支店における主たる業務の概要

補助参加人らは、本件命令の救済対象時期である昭和五九年から昭和六三年にかけて、いずれもその勤務する支店において、以下のいずれかの業務に従事したが、その業務の一般的な内容は以下のとおりである。

(一) 融資審査事務

(1) 融資審査事務の過程

支店における融資業務は、担当職員が融資申込者との面接と事業内容等の調査を行い、経営や担保物件等の状況について基本調査票などの「信用調査票」を作成、提出して、その融資の可否を担当課長に具申し支店としての判断を求めるという過程を経る(支店によっては「連絡表」とか「投げ返し表」といったメモにより担当に指示がされる。)。

このほか、原告には、恩給等の受給権を担保とする貸付制度があり、これも、支店の担当係(おおむね担当者は一名)において、受付から審査、送金の業務を行っている。

(2) 融資審査事務における不備事例の実態

融資審査事務の不備事例としては、ア 資金収支・返済能力等の検討不十分、イ 取引条件チェック等の検討不十分、ウ 担保不動産の評価等の検討不十分、エ 割賦金・利率適用相違、オ 資金使途、考課等の検討不十分、カ 許認可、基本契約書等実証資料の確認不十分、キ 関連企業等の検討不十分、ク 保証意思確認不十分などがある。

また、重大な不備事例としては、ア 慎重な保証人調査を必要とするものについて、実地調査等を行っていないこと、イ 決裁に関し、経済調整対策等貸付けの利率を基準利率としたり、環衛公庫の振興事業施設貸付利率を誤ることや、貸付番号を誤り別人の残高を決済すること、ウ 信用調査票を紛失したり、所定の箇所に保管していないことなどが挙げられる。

(二) 延滞債権の管理事務

(1) 延滞債権の管理過程

原告では、融資後、その貸付金の債権に係る元金・利息の返還を管理する事務を債権管理といい、返済が滞ってから通常三月未満は未入金(口)債権(未入金係の担当)、それ以上のものを延滞(口)債権(延滞係の担当)と規定している。

延滞債権の管理担当職員は、債務者・保証人らに対する実態調査や返済交渉、管理方針の具申、差押え等の法的手続などを行い、このような管理状況を、債権別の管理カード基本票や処理状況票などからなる「管理カード」に記載し、課長に遅滞なく提出するものとされていた。

なお、延滞債権は昭和六二年以降次のように選別区分されている(かっこ内は実務上の目安である。)。

「新規口」 新たに延滞口に編入した債権で、実態調査が必要なもの(実態調査未了のもの)

「早期口」 早期に完済又は延滞口除外が見込まれるもの及び遅滞なく債権保全措置を講ずる必要があると見込まれるもの(一年以内の解消見込みあり)

「継続口」 早期での完済又は延滞口除外は見込めないが、債権の保全回収を図るため継続して管理を行う必要があるもの(五年以内解消見込み)

「長期口」 管理効果が乏しい債権であって、債務者等の状況の好転を見守る必要があるもの(回収資源はなく、状況の好転を見守る)

「特別口」 将来にわたって回収困難と認められるもの(償却を予定)

(2) 未入金及び延滞事務における不備事例

未入金事務の不備事例としては、ア 返済の督促の着手の遅れや間延び、イ 債務者の実態把握が不十分なまま貸付条件の変更を行うこと、ウ 貸付条件変更後一度も入金のないまま延滞口に編入すること、エ 決裁を受けないで条件変更に伴う入金停止手続を行うことなどが挙げられる。

一方、延滞事務の不備事例としては、ア 保証人との交渉不十分、イ 法的措置の未実行、ウ 債務者、保証人の実態調査不十分、エ 債権管理の長期中断などが主なものとして挙げられるが、ことに「実態調査」については、(ア) 現状把握の不的確、(イ) 行方不明の債務者等について住所照会を長期間行わないこと、(ウ) 債務者等の実態を長期間把握せず、小額の継続入金を認めること、(エ) 延滞口編入後、長期間経過しているにもかかわらず担保不動産の公簿調査を行っていないことが挙げられ、「管理交渉」については、(ア) 編入後の着手の遅延、(イ) 交渉の間延びなど管理交渉が甘いこと、(ウ) 約束の不履行についての追及不十分、(エ) 保証人や相続人に対する交渉不十分、(オ) 管理交渉の長期中断による解決機会の喪失、(カ) 管理依頼の手続遅延などが挙げられ、「法的手続」については、(ア) 仮差押え等の法的措置の遅れ、(イ) 仮差押えの必要な不動産等の見落とし、(ウ) 仮差押え実施後、債務名義の取得などの措置がとられていないこと、さらに「債権保全措置」については、(ア) 土地等担保物件の現況把握を怠ること、(イ) 担保余力ある場合の交渉不十分などが挙げられる。

さらに、重大な不備事例としては、ア 不動産に余力が見込めるのに、仮差押えなどが遅れて名義変更がなされるなど解決の時期を失すること、イ 時効の中断措置を講ぜず時効を完成させてしまうこと、ウ 債務名義の保管方法の誤りや管理カードの紛失させることなどが指摘されていた。

7  命令の存在

補助参加人らは、被告に対し、原告を被申立人として、昭和六一年九月一三日及び昭和六三年三月三一日、それぞれ不当労働行為の救済申立てをした(都労委昭和六一年不第九〇号及び同昭和六三年不二四号各事件)。いずれも、補助参加人らの職位、等級・号俸の是正等を求めるものであるが、前者は昭和五九年度ないし昭和六一年度に関するもの、後者は昭和六二年度に関するものである。

これに対し、被告は、右各事件を併せ、平成七年四月四日付けで本件命令を発した。その主文は以下のとおりである。

「1 被申立人国民金融公庫は、申立人A、同B、同C、同D、同E、同F、同G、同H、同I、同J、同K、同L、同M、同N、同O、同P、同Q、同R、同Sに対し、昭和五九年度から六二年度の各四月一日における職位及び給与につき、別表「賃金等是正一覧」のとおり是正し、既支給額との差額を支払わなければならない。

2 被申立人は、前記第一項の履行の伴う差額については、その支払が完了するまでの間について、年五分の割合による金員を支払わなければならない。

3 被申立人は、本命令書受領の日から一週間以内に、左記の内容を五五センチメートル×八〇センチメートル(新聞紙二頁大)の大きさの白紙に、楷書で明瞭に墨書して、被申立人公庫本店の正面玄関前の見やすい場所に一〇日間掲示しなければならない。

平成 年 月 日

殿

国民金融公庫

総裁 尾崎護

当公庫が貴殿らの職位及び給与を低位にとどめおいたことは不当労働行為にあたると東京都地方労働委員会において認定されました。

今後このような行為を繰り返さないよう留意します。

(注、あて名は申立人全員を、年月日は掲示の日を記載すること)

4 被申立人は、前記各項を履行したときは、速やかに当委員会に文書で報告しなければならない。」

二  争点

1  法律上の問題点等

(一) 本件救済命令申立ては、労組法二七条二項の除斥期間を徒過していないか。

(二) 原告が提出した書証の一部は、時機に後れた攻撃防御方法に当たるか。

2  原告の補助参加人らに対する不当労働行為(労働組合法七条一号の不利益取扱い及び同条三号の支配介入)が成立するか。

(一) 原告は、補助参加人らの組合活動等を嫌悪していたか。

(二) 原告における人事考課等においてはいわゆる職能給制度が貫かれているか、それとも、運用実態はその制度趣旨が貫かれておらず、年功管理的、あるいは恣意的な運用がされているということができるか。

(三) 補助参加人らの勤務状況等に照らせば、その人事考課上の処遇は不当に低いとはいえないか。

3  補助参加人らに対する不当労働行為の成立が認められるとして、被告の命じた救済措置(同期中位者の役職位及び給与と同一の位置付けに是正すること)は労働委員会の裁量権の範囲を逸脱していないか。

第三  当事者の主張

一  原告の主張

1  除斥期間について

被告は、昭和五九年度から昭和六二年度の毎年度の補助参加人らの役職位、等級、号俸等の格差の是正を命じている。

しかし、原告においては、役職位の任用はもとより、毎年の等級・号俸の決定も、当人の勤務成績、職務遂行能力等を総合勘案して発令するその都度一回限りの行為であるから、原告が補助参加人らに対して昇格、昇給等を発令した行為は、労組法二七条二項にいう「継続する行為」には当たらない。

本件の救済命令の申立ては昭和六一年九月一三日であるから、これより一年以上前の発令にかかる昭和五九年度及び昭和六〇年度の等級・号俸等の是正を命じた被告の命令部分は取り消されるべきである。

2  時機に後れた攻撃防御方法について

補助参加人らは、原告が第一六回口頭弁論期日において提出した甲第二三七号証ないし第四五四号証並びに第一八回口頭弁論期日において提出した甲第四五五号証ないし第五〇七号証につき、時機に後れた攻撃防御方法であるとしてすべて却下されるべきとする。

しかし、補助参加人らが根拠とする、第一六回口頭弁論期日において弁論終結とするとの予定や訴訟上の協定等はなく、また、原告には、右各書証の提出によって不当に訴訟を遅延させるものであると非難される理由はない。

3  補助参加人らの組合活動とそれに対する原告の見方についての本件命令の認定・判断の誤りについて

(一) 本件は、補助参加人らの職位、等級・号俸の是正等を求めるものであり、本件命令は、補助参加人らが国金労の主流派であった当時から、原告は補助参加人らを賃金差別等の対象としていた旨認定するが、仮にそうであれば、補助参加人らと同様に、あるいはそれ以上に国金労主流派として先鋭的に組合活動を行っていた者も賃金差別等の対象となっていたはずであるところ、実態は全く異なり、補助参加人ら以外の者が賃金差別等を主張したことはないし、実際にも差別された事実はない。したがって、補助参加人らの国金労主流派として活動が差別の対象となったというためには、単に補助参加人らが主流派の一員として活動したというだけでは足りず、補助参加人ら個々の独自の組合活動と、それと因果関係を有する原告による賃金差別等の事実を明らかにする必要があったところ、本件命令は、この点の事実認定を欠落させている。

また、本件命令は、補助参加人ら全体の国金労主流派としての活動ということを前提にしているが、その組合活動は補助参加人ら全員に共通のものではなく、補助参加人Kらごく一部の者に関する事項に過ぎない。

なお、本件命令は、補助参加人らが国金労主流派であったころの原告の職制らの発言等について、これが不当労働行為意思の表れであるかに認定するが、これらの発言等は、一般的な組合対策や国金労の動向についての分析に過ぎないから、右事実認定には誤認がある。

(二) 本件命令は、補助参加人らによる「全国活動者集会」なる組織(以下「全国活会」という。)につき、その組織の活動は組合活動であり、かつ、その活動に対して原告が嫌悪していたかに認定する。しかし、同組織は、国金労とは全く無関係な非公然なものである上、その活動状況も、集会が定期的に開催されていたわけでもなく、補助参加人らの一部の者のほか、それ以外の職員も多数これに参加していたというものであったというのであるから、その活動は到底組合活動とはいえないし、原告がそのような組織による活動に対して嫌悪することはあり得ない。

また、発展会については、そこでの活動は組合活動といえないことは前記同様である上、同会の構成員が原告の職員を中心に数百名に及んでいることは補助参加人らも認めているところであり、にもかかわらず補助参加人ら以外の構成員は不当差別を主張していない以上、原告が補助参加人らに対して差別的行為に及んでいないことは明らかである。

さらに、本件命令は、補助参加人らが国金労の反主流派となった以降における原告の職制らの発言等について、これが不当労働行為意思の表れであるかに認定するが、この事実認定には誤認があることは、前記同様である。

4  原告における人事給与制度に関する本件命令の認定・判断の誤りについて

(一) 被告は、原告の新旧人事給与制度では、最小在級年数や自動昇格による場合を除き、制度上では、昇格・任用に関し学歴や入庫年度をよりどころとするものとは認められないが、実際の運用は、調査役の任用までは学歴や入庫年度を尺度とする年功管理的なものであったと認められる旨主張し、その根拠として、(1) 昇給に関して、人事考課では男子職員については評語Aが標準化していたこと、(2) 副調査役や調査役の同期入庫者のトップや過半数が任用される時期が概ね一律となっていること、(3) 調査役は役付職員ではあるが、課長以上の職とは異なり、その設置場所や数、枠等に関して厳格な「ポスト管理」が行われていたとは認め難いことを挙げる。

(1) しかし、右(1)については、被告が女子職員と男子職員とを区別し、男子職員についてのみA、B評価の分布を論及することは、全く根拠がなく、このような判断はその方法において根本的な疑問が存する。しかも、被告の主張のとおり四割から五割の者が評語Aとなるとしても、残りの者はほとんど評語Bということになるのであって、そうすると、依然として職員の過半数はB評価を受けていることになり、それにもかかわらず評語Aが標準だと主張するのは、明らかに視点が偏っている。

この点、証人Qは、女子職員に加えて一定範囲の在級年数の職員を除外すると、A評語は更に高率になる旨証言する。しかし、成績評価は、同一等級者において、全体の七〇パーセント程度のレベルにある者をBとし、それを上回る水準にある者をA又はSとする制度であって、その中から、女子職員を除外したり、一定範囲の在級年数の職員を除外した上で、評語Aを受けた職員の割合を算出することは無意義であるし、それによって評語Aが標準的ということにもならない。

そもそも、人事考課において評語Aが標準化しているかどうかということと、昇格において年功管理的な運用がなされているか否かとは関係のないことである。年功管理的運用とは、職務遂行能力や勤務成績とは無関係に、年令や勤続年数といった属人的要素で決定することをいうのであって、人事考課制度は、正にこの点を否定するところに、その意義が存するのである。

(2) 次に、右(2)については、同期入庫者のトップや過半数の者が副調査役や調査役に任用される時期が、各入庫年次において概ね同一であるとしても、このことが年功的管理の証拠になり得るものではない。同期入庫者でも勤続年数が経過するにつれて、等級分布が上下に拡大しているという事実こそが、職能給制度の本質的部分である。職員の職務遂行能力の段階に応じて等級格付を行い、その能力の向上に応じて昇格させるという原告の職能給制度においては、勤続年数が経過すれば、職務遂行能力を伸展させて上位等級に昇格していく者もいれば、能力の向上がみられず下位等級にとどまる者も出てくる。したがって、職員間の等級格差が勤続年数の経過と共に次第に拡大することは当然の結果であって、着目すべきは、正にこの点にある。被告は本質的な部分には目を背け、無意義な点を強調しているに過ぎない。

(3) 右(3)については、「ポスト管理」を行っているか否かは、職能給制度と本質的に結びつく問題ではなく、かつ、被告の論法では、課長以上の任用については年功的運用は否定されることになる。

(4) 以上のとおりであって、被告の右主張は失当である。

(二) 本件命令は、原告において採用されているいわゆる職能給制度の下での人事考課上の評価において、原告は、補助参加人らに関して不当に低い評価をする恣意的な運用があった旨認定する。しかし、原告の人事給与制度は、公正性・客観性が担保されているものである上、その運用の実態においても適正に行われていたから、被告の右認定は誤りである。

すなわち、勤務成績評価を担当する者は、職員を日常的に指導・監督している管理責任者である課長、次長、支店長であり、勤務態度、勤務実績、勤務能力に関する項目別評価を行い、その上で総合評価を行う二段階の評価方式を採用して、評価の合理性を確保するように努めており、かつ、各評価要素については詳細な評価基準が明示されている。また、能力適性評価は、各部門の責任者である部長又は支店長が直接行うものであり、提出される勤務報告書は、人事考課の結果を記載した勤務成績内申書と併せて昇格対象者の決定資料とされている。以上のとおり、原告の人事考課制度は、極めて客観性の高いものとなっている。

さらに、その評価の公正さを担保するために、次の制度、方策等が施されている。

(1) 指導観察記録の作成

原告では、職員の日常の勤務状況及びこれに対する管理者の指導状況を確実に把握し、記録しておくため、支店管理者が「指導観察記録」を作成している。通常、仮評価者である課長が記録を担当しており、配下職員の勤務状況について、良好な点、不良な点及び指導の状況、職員の対応等を記録しておく。こうして作成した指導観察記録は、適宜、支店長、次長らに提出して、日常の指導に役立てるほか、人事考課に関しては重要な資料として活用する。

(2) 人事考課実施要綱、人事考課の手引の配布

原告は、人事考課の手続、評価の仕方について「人事考課実施要綱」にまとめ、各評価担当者に配布している。さらに、右「人事考課実施要綱」と留意事項等をまとめた「人事考課の手引」を作成し、各評価担当者に配布している。

その概要は以下のとおりである。

ア 評価要素説明書及び補足説明書

「人事考課の手引」中には、評価の手助けとするために、信頼性、積極性等の各評価要素について、その内容を具体的に説明し、かつ、どういう点に着眼して評価すれば良いかを詳しく記載した評価要素説明書及び補足説明書を記載してある。

イ 評価の心がまえ等

「人事考課の手引」中には、「成績評価の心がまえ」との項を定めてある。そこでは、被評価者の全人格的評価を行うよう心掛けること、評価にあたっては、厳正・公平な評価態度を堅持し、日常の指導観察結果を評価に反映させること、勤務に関係のない私人としての行動については区別し、勤務成績と職務遂行能力に関係のあることだけについて評価すること、縁故関係や個人的な好き嫌い、偏見・同情などの私情をはさまないよう評価の公正を期すること等が記載されている。

ウ 評価者訓練

原告は、評価者である支店長、仮評価者である課長らを対象に研修の場を設け、制度の趣旨、目的や仕組み、ルール等について十分理解させるとともに、評価担当者の陥りやすい誤りについて指導している。

エ 昇格・昇級に関する通知・説明

毎年の昇給、昇格の状況については、労働組合に通知している上、C及びD評語を受けた職員に対しては、本人の申し出があれば、その理由を具体的に説明している。

オ 苦情処理委員会

原告と組合員との間に発生した苦情については、本人からの申し出により、労使が苦情処理委員会の場で十分審議し、結論を見出していくこととしている。成績に関する組合員の苦情についても苦情処理委員会で審議している。

(三) なお、本件命令は、原告が被告審問の場に管理カード、信用調査票等の書類を提出しないことを理由に、原告が補助参加人らについて主張する勤務上の問題事例に関して、事実経過が不明であるなどとして原告の主張・立証を排斥して認定をしているが、このような認定方法は、人証、書証等の証拠方法に関し、当事者に認められる裁量権を否定するに等しいものであり、承服し難い。

5  補助参加人らの勤務成績について

本件命令は、補助参加人らの勤務成績が劣悪ではなかったにもかかわらず補助参加人らが同期中位者に比べて低位に格付けられていることには合理的な理由が乏しい旨認定する。しかし、原告の指摘する補助参加人ら個々の勤務上の問題事例を正しく検討すれば、いずれの補助参加人らもその勤務成績は劣悪であり、格差が生じた原因はこの点にあることは明らかである。

(一) 補助参加人Kの勤務状況等

補助参加人Kは、昭和六〇年から昭和六二年にかけては、浜松支店において、管理課の三等級調査役として、延滞事務を担当していたが、右期間における補助参加人Kの勤務状況等は次のとおりである。

(総論)

補助参加人Kの全般的な勤務状況についていうと、調査役としての自覚が低く、その役割を果たしていなかった上、担当していた延滞事務においては、無責任な事務処理、不注意による事務処理ミス、上司に対する反抗的な言動等の事例が度々あり、粗悪な勤務状況であった。

(各論)

(1) 調査役としての役割を果たしていなかったこと

補助参加人Kが右当時格付けられていた三等級は、職員の職務等分類規程で「直属の長を補佐して、部下を指揮監督し、とくに高度な判定的業務を行うとともに、必要に応じて直属の長を代理する職務にある者」と定められており、また、三等級の者から任用される調査役は、組織規程で部又は支店に置かれ、部長又は支店長の命ずるところにより、課に配属された調査役は、課長の命じた事務について直属の長を補佐する立場にあることが定められている。

課長は、課の責任者として所管事務の管理に当たり、課業務の遂行、管理統率、職員の指揮監督、管理育成、所管事務の改善、各課間の調整等の管理業務を担当しており、調査役の補助参加人Kは、こうした職務にあった課長を補佐して、所属の課員を指揮監督する立場にある。したがって、支店の業務運営方針を十分理解し、課長と一体となって、課の業務運営が円滑・効率的に推進されるよう努めるべきである。また、自分の担当している事務処理を的確に処理して課員の模範となるとともに、各課員の事務処理状況を把握し、十分指導してその育成にも努めなければならない。

実際にも、補助参加人Kは、回収係、未入金係、延滞係の九、一〇名の職員を配下に持っていたのであるから、調査役としての職責を十分果たすべきであった。

しかし、補助参加人Kはそのような自己の立場を十分認識しておらず、課長を補佐して、課業務の効率的推進を図ることもなければ、部下の指導・育成もせず、調査役としての役割は何も果たしていなかった。担当の仕事の処理も粗雑で低レベルのものであった。

(2) 事務処理に多々問題があったこと

補助参加人Kは、直接担当する事務として延滞口債権の管理事務に従事していたが、無責任な事務処理を度々行い、また事務処理ミスを犯した上、上司の注意・指導に対しては反抗的な言動に及ぶことが多かった。また、対外的に原告の信用失墜となるようなトラブルを発生させるなどしていた。

ア 裁判所の期日の失念

補助参加人Kは、延滞口債権の管理に関し、簡易裁判所での訴訟手続を、支店長の復代理人として担当していた。ところが、同人は、裁判所の期日を度々失念するという失態を繰り返していた。

支店で確認している事例を一、二示すと以下のとおりである。

(ア) 昭和五三年一二月二六日、二五〇万円を貸し付け、昭和五五年五月三一日に延滞口に編入した案件について、債務者は昭和六〇年三月二〇日に時効が完成することから、時効中断のため昭和六〇年三月一八日訴えの提起を行い、口頭弁論期日が昭和六〇年五月一五日午前一一時三〇分と指定されていた。ところが、担当の補助参加人Kはこの期日を忘れてしまい、当日になって裁判所から不出頭の連絡を受け、期日を失念していたことに気付いた。それから裁判所に赴いたのでは間に合わないところから、六月五日に期日延期を要請して何とかその場をしのぐことができた。

この訴訟は、債務者が行方不明のため公示送達の申請をした案件で、公示送達による訴訟は、債権債務の存在について原告である公庫が立証を要することから、原告の職員(貸付契約の担当者)を証人として申請していたものであるが、その口頭弁論期日を失念してしまったものである。甲野次長が注意・指導したところ、補助参加人Kは「うっかりして申し訳ありませんでした。」と謝罪した。

(イ) 補助参加人Kは、浜松簡易裁判所において、口頭弁論期日を昭和六一年九月三〇日に指定されている案件を担当していたが、この口頭弁論への出頭を怠った。当日の口頭弁論は午前一一時から開始となっていたが、補助参加人Kは静岡地方裁判所に朝から出向き、午前一〇時三〇分には支店に戻るとの届出を行い出張していた。同時刻になっても補助参加人Kは戻らず何の連絡もないことから、支店では当然浜松簡易裁判所に直接出向いたのだろうと考えていた。ところが、同日午前一一時一五分ころ、浜松簡易裁判所から復代理人の補助参加人Kが出頭していないがどうしたのかとの連絡があった。支店は、急きょ対応を検討し、別件で同裁判所に出張していた延滞係の丁川副調査役を復代理人として申請すべく書記官に依頼し、裁判所が許可してくれたことから丁川副調査役が出廷し、当該案件の口頭弁論はことなきを得た。

補助参加人Kは、午前一一時二五分ころ支店に戻ってきたが、前述の状況を乙山職員から知らされ、慌てて浜松簡易裁判所に向かった。

この件については、その後補助参加人Kから何の報告もないことから、一〇月三日丙田次長が補助参加人Kを呼び、「自分が担当する案件の口頭弁論になぜ出頭しなかったのか、丁川副調査役が代わりに出頭してことなきを得たが、調査役として無責任である。」と注意した。

これに対して補助参加人Kは、「乗るべき列車に間に合わないため、浜松簡易裁判所に電話したところ、担当書記官がいなかったので用件を連絡できなかった。当日は事件が立て込んでいるので当該口頭弁論は午後になると思った。」と自分の不始末を棚に上げ、しかも、勝手に口頭弁論は午後になるとの独断的な前提を立てた弁解をしてきた。しかし、仮に、簡易裁判所に電話して連絡がつかなかったのであれば、浜松支店に連絡して対処を依頼すべきであり、補助参加人Kの弁解は理由にならない。

イ 担当する案件について時効を完成させてしまったこと

補助参加人Kの担当する延滞事務は、延滞口となった債権について回収を図ることはもとより、その間、的確な保全手続を図ることをその職務としている。

ところが、補助参加人Kは担当する案件いくつかについて、何の措置も講じないまま債権の消滅時効を完成させてしまうという失態を繰り返した。後日、債務者から支払猶予願を徴求するという非常手段によってことなきを得たが、このような処理ははなはだ無責任な処理といわねばならない。

いくつか例示すると以下のとおりである。

(ア) 昭和五二年九月二六日、二〇〇万円を融資した案件で、債務者は呉服販売業を営んでいたが、昭和五四年一〇月店舗が火災にあい、これを機として長女が事業を引き継いだが、業況は不振で、昭和五五年四月に廃業した。

当該貸付けは、昭和五五年二月分まで入金があったが、その後支払がなく、昭和五五年五月末日に延滞口に編入された。以降、当該延滞口は補助参加人Kが担当し、断続的な管理を行ったが、解消のないまま時効完成時期(昭和六〇年三月二〇日)が近づいてきたので、甲野次長から昭和六〇年二月二七日に、「時効中断は訴訟又は承認で対処すること。」との指示を受けた。ところが、補助参加人Kは、この指示を実行しないまま放置し、消滅時効を完成させてしまった。

その後、補助参加人Kは時効が完成してしまったことに気付き、昭和六〇年三月二八日になって慌てて債務者から支払猶予願を徴求した。徴求した日付は、時効完成前の昭六〇年三月一〇日とした。また、その際、本件の債権者は国民金融公庫であるにもかかわらず、誤って債権者を環衛公庫とした支払猶予願を徴求している。

(イ) 昭和五三年六月二二日、一五〇万円を融資した案件で、債務者は紳士服の販売修理業を営んでいたが、昭和五四年五月に、知人に手形(一八〇万円)を詐取され、これが街金融に出回ったことから資金繰りが悪化し、業況が行き詰まってしまった。当該貸付けの返済状況は、昭和五四年月分まで入金はあったが、右経緯から支払が困難となり、債務者の申出により、昭和五四年五月二八日に、利息については昭和五四年七月から、元金は同年八月から支払額を少なくして支払う条件変更を行った。しかし、その後債務者は昭和五四年八月二七日に利息と遅延損害金の一部について支払っただけで、その後は支払を行わないまま昭和五四年九月二九日に延滞口に編入された。編入後補助参加人Kが担当し、以降断続的に管理をした。

しかし、補助参加人Kは時効完成期日(昭和五九年八月二七日)を看過してしまい、消滅時効を完成させてしまった。以降、補助参加人Kはこのことに気付かないまま管理していたが、昭和六一年一月二〇日になってようやく時効の完成に気付き、債務者からあわてて支払猶予願を徴求した。その日付については、時効完成前の昭和五九年六月二五日とした。

(ウ) 昭和五五年一二月二四日、一〇〇〇万円を貸し付けた案件について、この貸付けは、当初保証人の所有する土地を担保とし、その後当該土地の上に建築される建物を担保とするとの条件で融資した案件であるが、債務者は、昭和五六年八月一五日まで支払った後、同年九月二一日に死亡してしまった。その後、建物を担保に入れるとの条件については関係者の協力が得られず、担保の設定ができないため、当該建物に仮差押えをすることになった。その時点で、当該債権は未入金口であったが、仮差押え等の法的手続は延滞係が担当していたので、支店ではこの仮差押えを補助参加人Kに指示した。指示を受けた補助参加人Kは、昭和五六年一二月四日に仮差押えを申請し、以降の管理は補助参加人Kに担当させていた。昭和五九年四月一六日に保証人が来店し、条件変更を認めてほしい旨の申出があり、補助参加人Kは、これに応じる旨の意見具申を行い、決裁を得た。

しかし、この条件変更での支払期間は長期間であり、債務者が死亡していることから時効の問題が生じ、補助参加人Kは、昭和六一年五月二一日、時効中断のため訴訟を提起する旨の意見具申を行い、決裁を得た。しかし、補助参加人Kは速やかに訴訟提起の手続に着手せずに放置したため、結局昭和六一年九月一五日に時効が完成してしまった。補助参加人Kの弁解によれば、時効の起算点を間違えたということであった。

この案件も、相続人から支払猶予願を徴求して時効中断を図らざるを得なかった。この件の問題点は、単に時効の起算点を間違えたというだけではなく、時効中断のための訴訟提起の決裁を得ながら、すぐに実行せず、時効を完成させてしまった点にある。

ウ 公印(裁判所提出書類専用支店長印)を無断で支店外に持ち出し、かつ自宅に持ち帰ったこと

原告の公印については、公印取扱規程で、公印である裁判所提出書類専用支店長印を支店外に持出して使用する場合、裁判所専用印持出簿によりその都度公印管理者等の承認を受け、持出使用を完了したときは直ちに当該提出簿に必要事項を記入し、返戻すること、また、公印は保管設備に格納して厳重に保管する旨定められている。補助参加人Kは、このような定めに反し、昭和六一年四月二六日裁判所専用印を持出簿に記載せず、甲野次長の承認を得ないまま無断で裁判所に持ち出した上、同日当該印をそのまま自宅へ持ち帰ってしまった。

四月二八日に至り、支店の印箱に公印がないということで調べたところ、補助参加人Kが自宅に持ち帰ったまま忘れてきたことが判明した。公印をこのように取り扱ったことは、ついうっかりということでは許されるものではなく、補助参加人Kの無責任な事務処理を示しているもので、甲野次長が注意・指導した。

エ 単純な事務処理ミスを繰り返し犯していたこと

補助参加人Kは単純な事務処理ミスを度々犯しており、また、注意しても逆に反抗的な態度を見せて改善する姿勢がなかった。

(ア) 補助参加人Kの担当で、昭和六一年三月一五日に時効が完成する案件について、時効中断のため同月一二日に訴状を提出したところ、同月一三日浜松簡易裁判所から、「昨日訴状の提出があったが、債務者には甲、乙二つの債権があり、「請求の原因」の記載で甲、乙逆の内容になっている、また、同原因中訴外会社の記載がなされているが、「株式会社」が欠落している。」との連絡があった。事案の性質上早急に補正が必要なところ、補助参加人Kは、一三日、一四日、一五日と連続して年休を取得しており、そのため、戊山課長が直接担当書記官と交渉し、訴状の受理日は三月一二日のままとし、同月一七日に補助参加人Kを補正に行かせることで了解を得た。

(イ) さらに、同年三月一四日、浜松簡易裁判所からやはり補助参加人K担当の別案件について、「昭和五六年に支払命令を申し立てた案件について、保証人二名のうち一名については昭和五六年六月一四日に支払命令は送達されているが、債務者及び他の保証人には不送達のままとなっている。五年近くの経過があり、今後どうするのか。」との連絡があった。当該案件はすでに昭和五九年六月七日に完済となっていることから、補助参加人Kは本来この時点で支払命令の取下げを行うべきであったが、このことを看過し、放置していたものであった。

(ウ) 右二つの件について、甲野次長が同年三月一八日補助参加人Kに対して事務処理上の単純ミスを繰り返すことのないよう注意・指導した。ところが、補助参加人Kは三月一九日甲野次長に対して、次のようにクレームをつけてきた。

「三月一三日の件については、経費節減を考えて二口同時に訴訟手続をしたが、一部記載ミスにより裁判所から連絡のあったもので、全くの事務上のミスである。また、同月一四日の件については、これも全く事務的なことで日常発生しているもの。このようなものを一々支店長まで報告することは、おかしいではないか。」

これに対し、甲野次長は、「全く事務上のミスというが、ミスが度重なれば注意・指導することは当然であるし、事務上のミスといっても裁判所に対する信用上の問題もあり、注意指導したものである。また、これらについて上司に報告することも当然のことである。むしろ、こういった単純な事務ミスを調査役のあなたが繰り返していることが問題である。」と話して本人の反省を促したが、補助参加人Kは、反抗的な態度を示し、一向に反省の色を見せなかった。

オ 対外的な信用失墜となったトラブルを発生させたこと

補助参加人Kは、調査役という立場にあるにもかかわらず、軽率かつ無責任な発言を行い、管内の商工会議所から反感を買って重大なトラブルを起こし、原告の信用を失墜させた。

昭和六一年四月ころ、補助参加人Kは自分の担当する延滞口の保証人庚沼を実訪し交渉を行った。その際、補助参加人Kは、この保証人に対して、「V商工会議所は十分な調査もせず経営改善貸付けの貸付推薦を行ってくる。」などの根拠のない批判を繰り返し発言した。商工会議所は経営改善貸付けの推薦団体であり、原告の融資については密接な関係のある団体である。こうした関係のある商工会議所について右のような発言をすることは軽率かつ無責任といわねばならない。当該保証人はたまたまV商工会議所の経営改善貸付けの審査委員であり、同保証人からの報告で、補助参加人Kの右発言はV商工会議所の関係者の知るところとなり、会議所内において重大な発言として取り上げられ、激しい反発を買うことになった。

昭和六一年五月三〇日、V、W、Yの三商工会議所と浜松支店との経営改善貸付けに関する打合わせ会が開催された。同支店からは壬田支店長、甲野次長、戊山課長ら五名の職員が出席した。このとき、壬田支店長は静岡県商工会連合会総会に出席する予定があり、右打合わせ会には遅れて出席し、甲野次長以下の職員が最初から出席した。その席上、V商工会議所の乙川課長から、「浜松支店のK調査役は、当会議所の経営改善貸付けにかかる審査、推薦が十分な調査もしないで問題である旨当会議所の審査委員に発言したが、このことは極めて心外である。」、「このようなことでは当会議所は今後公庫の業務には協力できない。」との厳重な抗議があった。

この打合わせ会には、V商工会議所のほか、右のとおりW商工会議所、Y商工会議所の関係者も出席しており、その席上での抗議によって、補助参加人Kの不用意な発言が明るみに出たもので、原告の重大な信用問題となった。

同日遅れて右打合わせ会に出席した壬田支店長は、甲野次長の報告でこのことを知り、打合わせ会の席において、乙川課長から改めて事情を聞いた。これに対して、壬田支店長は、とにかく事情を確認させてもらいたい旨述べた。翌五月三一日、同支店長は甲野次長に指示して、事実関係を確認させることにした。そこで同次長は、補助参加人Kを呼び、管理課長同席の下事実関係をただした。これに対し補助参加人Kは、一週間以上前に、V商工会議所の癸山所長より「当商工会議所の経営改善貸付審査委員から話を聞いたが、あなたは、会議所は十分な調査もしないで経営改善貸付けの推薦をしたと言ったそうではないか。このことで会議所で問題になっている。」との抗議の電話があった旨答えた。保証人庚沼に対して発言した内容については、明確に覚えていない、自分の発言がそのように受け取られたのであれば申し訳ないと弁解し、商工会議所が主張する補助参加人Kの発言の内容について否定しなかった。

そこで、壬田支店長は戊山課長を伴い六月四日V商工会議所を訪問し、審査委員長でもある同商工会議所の戊田副会頭及び戊川専務と面談し、陳謝した。しかし、同商工会議所の不信、反発は相当なものであり、補助参加人Kの言動は経営改善貸付けに長年努力してきた同商工会議所を侮辱するものであり、断じて許されないと強硬な態度であり、怒りは容易には収まらなかった。そのため、壬田支店長は補助参加人Kの軽率な言動を深く謝罪し、審査に問題があるというのであれば、それは支店に問題があるということであり、支店長の責任であると考える旨説明してようやく了解してもらった。支店に帰った後、壬田支店長は、甲野次長に指示して、補助参加人Kに対して発言には慎重にするようにと厳重に注意した。また、掛川地区の担当を補助参加人Kから丁川副調査役に変更したが、これは、V商工会議所関係者の反発があまりにも強かったため、補助参加人Kに同地区を担当させるのは適当でないとの判断に基づくものである。

この件では、補助参加人Kの軽率で無責任な発言により商工会議所との信頼関係が著しく損なわれた。

カ 年休取得に際して業務上の支障を考えないこと

補助参加人Kは調査役の立場にありながら、業務の都合を考えない年休取得が度々あった。その一例を示す。

原告の関係先である商工会議所、商工会では毎年五月に総会が開かれ、その総会には必ず原告関係者が招かれており、支店長以下役席が出席している。浜松支店の管内には、三商工会議所、二七商工会があり、右のとおり総会は五月に集中することから、支店長以下役席は手分けをして出席しているが、商工会からの要請があり、昭和六〇年五月二七日の総会には支店長、次長、融資課長、管理課長が出席することになっていた。この総会への出席については、事前に職員には周知していた。ところが、補助参加人Kは当日昼になって午後からの年休を取得して退店してしまった。そのため管理課は役席不在となってしまった。

右に述べた状況において、支店の管理者の大半が不在のとき、調査役の補助参加人Kは、役席者の一人として支店や所属課の業務の円滑な運営に配慮すべき立場にある。そうした自己の役割を認識せず、年休を取得した補助参加人Kの協調性を欠いた態度は問題といわざるを得ない。

キ 支店業務への非協力姿勢

昭和六〇年八月二二日、浜松支店において本店検査部検査が行なわれることになった。これに先立ち、同年八月一九日、支店の業務懇談会の場で壬田支店長が、検査当日の二二日の朝は支店役席は早めに出勤するよう指示した。当時は夏期健康管理の一環として「業務に支障のない限り」半数交替で三〇分の遅出が認められていたが、検査当日は支店の役席は本来の始業時刻である午前八時五五分までには全員出勤することを念のため指示したものである。

ところが、ひとり補助参加人Kだけが壬田支店長の指示を無視して午前九時二三分に出勤してきた。当該週は補助参加人Kの遅出の週にはなっていたが、当日が検査の初日であることは一九日の指示で分かっていたにもかかわらず、壬田支店長の指示を無視して右のような遅出をしたものである。補助参加人Kの右態度は、役席としての意識を全く欠落したものといわねばならない。

ク 他支店への抗議行動に加担し業務を混乱させたこと

補助参加人Kは、昭和六一年九月二四日午前一〇時ころ、補助参加人Eの配転に関する抗議行動と称して外部の人員を含む約二〇名の人員を引き連れ、岡崎支店に押しかけた。補助参加人Kらは、「職員の岡崎支店転勤について抗議する。」、「支店長を出せ、支店長に会わせろ。」と口々に叫び、応対に出た岡崎支店の総務課長が、支店長は面会しないことを申し入れ退店を促したが、これに応じず、延々約四五分間店内に居座り、抗議文を大声で読み上げるなどして騒ぎ立てた。このとき岡崎支店は営業中であり、ロビーには来店客もおり同支店の業務に大きな支障を生じさせた。

壬田支店長は、岡崎支店からこの連絡を受けたので、翌日の九月二五日午後、補助参加人Kを呼び事実を確かめて注意した。これに対して、補助参加人Kは、「確かに岡崎支店へ行った。年休をとってやったことで問題ない。支店長が面会してくれればよいのに会わないからだ。」と反論して反省の態度を見せなかった。

ケ 担当案件の処理において指示の実行遅延が多かったこと

補助参加人Kは、個々の延滞口債権の事務処理について、指示の実行を遅らせることがしばしばあった。

いくつか例示すると以下のとおりである。

① 貸付日昭和五五年五月八日貸付金額二五〇万円で、保証人の所有する建物に原告が抵当権を設定している案件について、昭和五九年一〇月一二日に抵当権の実行申立てを行うよう指示を受けているにもかかわらず、補助参加人Kは放置した。そこで、昭和六〇年二月二七日、六月一四日、一〇月二一日と繰り返し指示したが、それでも応じなかった。結局昭和六一年二月二〇日に静岡地方裁判所V支部に抵当権の実行申立てを行うまで、約一年四か月にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五二年七月五日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和五九年一〇月一五日に債務者及び保証人に対して、訴えの提起を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年三月八日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約五か月にわたり実行しなかった。

③〜<省略>

コ 管理を長期間放置したこと

補助参加人Kは、担当する案件について管理を長期間放置することが多々あった。

その事例を示すと次のとおりである。

① 貸付日昭和五五年三月三日貸付金額五〇万円の案件で、昭和五九年一〇月一日から昭和六〇年七月二四日まで約九か月半の間、一切管理を行わなかつた。

② 貸付日昭和五四年八月三一日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和五九年一一月五日から昭和六〇年七月九日まで約八か月の間、一切管理を行わなかった。

③〜⑯<省略>

(二) 補助参加人Aについて<省略>

(三) 補助参加人Jについて

補助参加人J(以下「補助参加人J」という。)は、昭和六〇年四月から昭和六一年三月にかけては、川越支店において、延滞係として勤務し、昭和六一年三月に高崎支店に異動となった後、昭和六二年九月まで延滞係、それ以降は審査係として、それぞれ勤務していたが、右期間における補助参加人Jの勤務状況等は次のとおりである。

(川越支店における勤務状況等)

(1) 昭和六〇年三月八日の「管内経済金融動向」の作成について

補助参加人Jは、担当業務についての取組み姿勢が消極的で、自分の仕事の範囲を日常の業務に画してしまい、それ以外のことに手を出そうとせず、上司から支店業務を指示されても、口実を構えては拒否することが多かった。

例えば、昭和六〇年三月八日、甲山融資課長が甲川調査役を通じて補助参加人Jに対し、総括室に報告する「管内経済金融動向」の作成を指示したところ、補助参加人Jは、自分は他の仕事で手一杯であり、報告書は調査役が作成すべきであると反論して指示に従わないということがあった。

(2) 事務処理の実行遅延、管理放置及び延滞口解消実績について

補助参加人Jは、延滞係を担当中、指示された事項を速やかに実行せず、また、行うべき管理を放置していることが度々あり、管理課長である甲田その他の上司の注意・指導に対しても反抗的な姿勢を示して応じなかった。補助参加人Jがこのような姿勢で職務に当たるため、その延滞口解消実績等は以下のとおり低い水準にあった。

ア 指示の実行遅延

① 貸付日昭和五七年一二月二九日貸付金額八四〇万円の案件で、昭和六〇年四月一六日に債務者法人、債務者法人代表者及び保証人に対する訴えの提起を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年六月一八日まで約二か月にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五八年三月二九日貸付金額六〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月一八日に保証人所有の不動産仮差押えの申立てを行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年五月二七日まで約一か月半にわたり実行しなかった。

③〜⑪<省略>

イ 長期間にわたる管理放置

① 貸付日昭和五四年一二月一四日貸付金額一〇〇万円の案件につき、昭和六〇年四月二〇日から同年七月二三日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五四年一二月二一日貸付金額七〇〇万円の案件につき、昭和六〇年七月二五日から同年一二月九日まで約四か月半の間、一切管理を行わなかった。

③〜⑧<省略>

ウ 昭和六〇年度の補助参加人Jの解消件数・金額は、五〇件・六九六三万円で、延滞係三名中最低であった。解消金額でいうと、甲本調査役が一億一八六〇万円、補助参加人Jの二年後輩である乙田副調査役が一億二七九〇万円であったので、補助参加人Jはこの両名の半分程度の実績しか上げていなかった。さらに、法的手続を行った件数でみても、甲本調査役が八六件、乙田副調査役が八二件なのに対し、補助参加人Jは四七件と最も少なかった。

(3) 服務上問題のある言動

ア 補助参加人Jは、有給休暇を直前に申し出るなど、支店全体の業務の円滑な処理を考えないことが多く、また、自身の勤務管理にルーズで、以下のような出勤日の取違えもあった。すなわち、昭和六〇年当時、原告は毎月第二週の土曜日を休日としていたほか、その他の週の土曜日を一日指定して交替で休務させていたが、昭和六〇年七月二七日の土曜日、補助参加人Jは休務を指定されておらず、通常の出勤日になっていたにもかかわらず、休務日を間違えたとして年休として処理してほしいと申し入れてきた。

イ 補助参加人Jは、昭和六〇年三月一四日、駅プラットホームにおいて、理由もなく女性を蹴る暴行を加えて現行犯で逮捕された上、同年五月二〇日に新宿簡易裁判所から罰金三万円の処分を受けた。

丁山支店長は、この件について同年三月一八日に補助参加人Jから報告を受け、同月二九日、補助参加人Jに対し、事件の経過報告と始末書の提出を求めるとともに、同年四月八日に行われた支店の業務懇談会において、支店の職員に対し、補助参加人Jの名前を出さず一般的な形で、私生活上の不祥事でも原告の信用にかかわることがあるから、日常の行動については原告の職員としての基本的心得に反することのないようにと、注意を喚起した。ところが、補助参加人Jはその直後、同支店長に対し、業務懇談会の席上でああいう発言をされては困る、結局自分が不始末を起こしたということが支店のみんなにわかってしまうではないかと、自らの非を棚に上げて丁山支店長に抗議してきた。

(高崎支店における勤務状況等)

(4) 延滞係における勤務状況

補助参加人Jは、個々の延滞口債権の事務処理において、上司から指示された管理事務の実行を遅らせたり、債務者や保証人に対する管理事務を長期間放置したりすることが多々あった。

ア 指示の実行遅延

① 貸付日昭和五五年一一月一八日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年三月一六日に債務者の有体動産差押えの申立てを行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年六月三〇日まで約三か月半にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五八年二月二二日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六二年三月三一日に債務者を実訪し、担保評価を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年六月二二日まで約三か月にわたり実行しなかった。

③〜⑩<省略>

イ 長期間にわたる管理放置

① 貸付日昭和五五年一一月一八日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年三月一六日から同年六月二四日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五五年一〇月九日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六二年四月二〇日から同年七月二四日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

③〜⑥<省略>

(5) 審査係における勤務状況等

補助参加人Jは、昭和六二年九月一日に審査係に担当替えとなり、板橋支店へ転出する昭和六三年一月八日まで同係を担当したが、その四か月間にも、意欲的に業務に取り組む姿勢は全くなく、以下のとおり事務処理上の誤りを繰り返し、以下のとおり出張命令を拒否する態度を取るなど、その勤務状況には問題があった。

ア 事務処理上の誤りについて

補助参加人Jは、審査事務の処理過程において、規程の無理解、注意力の散漫等から事務処理上のミスを繰り返していた。上司は、発見の都度投げ返し等で注意・指導した。

(ア) プラスチック成型業を営む者(有限会社)から運転資金として一〇〇〇万円の申込みのあった案件で、八〇〇万円を超える法人企業からの申込みについては「企業評価モデル得点票」の作成が必要であるにもかかわらず、これを怠ったまま貸し付けるとの意見具申を行ってきた。

(イ) 美容院を新規に開業する者から店舗等の設備資金として環衛貸付け(四三〇万円)の申込みのあった案件で、設備の内容から消毒器、タオル蒸器、換気設備等については、特別利率(4.8パーセント、ただし三年経過後は5.3パーセント)を適用すべきにもかかわらず、利率の適用を誤り、5.65パーセントを適用するとの意見具申を行ってきた。

(ウ) 機械製造業を営む者(有限会社)から運転資金の申込みがあった案件で、保証人の保証意思確認をする必要があるにもかかわらず、これを怠ったまま融資する旨の意見具申を行ってきた。

イ 出張命令拒否の態度について

原告では、管内の遠隔地からの融資申込みについては、顧客の利便も考慮して一定の件数が揃った段階で、審査係がその地域に出張して商工会等で顧客との面談を行っている。また、申込みの件数が多いときは、効率よく審査処理を行うために一泊での出張も命じている。

高崎支店では、補助参加人Jに対し、審査処理のために、昭和六二年一〇月二六日から二七日にかけて一泊で出張するよう命じた。ところが、補助参加人Jは甲海課長に対して、一〇月二六日から二七日にかけて一泊で出張するよう命じられているが、二六、二七日ともに、日帰り出張することにすると申し出てきた。甲海課長は、他の審査係はみな宿泊で出張を行っており、補助参加人Jにだけ特別な取扱いはできないと説明して、出張命令に従うよう注意・指導した。それでも補助参加人Jは、素直に命令に従おうとはせず、自分を宿泊させるのが目的なのだろうなどと反抗した。

ウ 業務時間中に無断離席をしたこと

職員が業務時間中に外出する場合は、出張命令を受けるか、公用外出簿により上司の承認を受ける必要があるが、補助参加人Jは上司の承認を得ないまま無断で外出することがあった。

具体的には、補助参加人Jは、前記の出張から支店に帰った昭和六二年一〇月二七日、午後三時過ぎから無断で離席し、約一時間後に支店に戻ってきたため、甲海課長が補助参加人Jに対して事情を尋ねたところ、補助参加人Jは、取引先を実訪してきた、甲海課長が電話中であったため断らずに外出したとの弁解をした。しかし、業務で外出する場合には、公用外出簿があり、そこに目的、行先等を記載して承認を得る必要があるところ、補助参加人Jはその記載していなかったため、甲海課長は、今後は公用外出簿に記載し、上司の承認を受けてから外出することと補助参加人Jに対して注意・指導した。

(6) 年休取得に際して業務上の支障を考えないこと

補助参加人Jは、業務の都合を考えない直前の年休取得が度々あった。その都度融資課長や次長が補助参加人Jに対し、年休取得にあたっては業務上の都合も考えるよう注意・指導したが、補助参加人Jの姿勢は改まることはなかった。

例えば、昭和六二年四月二七日の午後二時ころ、補助参加人Jは、明日一日年休を取得すると申し出てきた。この時期は、月末近くで債権管理は多忙であり、特に未入金係は連日残業している状況にあった。そこで、甲海課長は、二八日は未入金係を応援するように求めた。しかし、補助参加人Jは、今月は自分が解消予定としている債権はすべて解決していると自分のことだけを取り上げて主張し、支店の業務運営に協力しようとする姿勢をみせず、結局四月二八日に年休を取得した。

(両支店共通の勤務状況等)

(7) 支店業務の推進に積極的な提言のなかったこと

補助参加人Jは、副調査役として支店業務の推進に関して積極的に提言し、率先して遂行すべき立場にあったが、実際にはそのような取組みはみられず、支店における会議等の場においても積極的な発言をすることはなかった。

(8) 上司の補佐、後輩の指導がなかったこと

補助参加人Jには、副調査役として役席と一般職員の接点の立場にあることを自覚し、上司である課長を補佐し、支店業務を推進するとともに、後輩の指導をすることが求められていた。

しかし、補助参加人Jには、そのような補佐、指導を行うという姿勢はみられなかった。

(四) 補助参加人Oについて

補助参加人O(以下「補助参加人O」という。)は、昭和六〇年から昭和六二年にかけては、佐世保支店において、昭和六〇年三月までは未入金係、同年四月以降は延滞係として、それぞれ勤務したが、補助参加人Oの勤務状況等は次のとおりである。

(総論)

未入金係を担当していた当時の補助参加人Oは、処理能力が低く、効率的な管理事務を計画的に進めていくことができない上、返済交渉も状況判断の悪さが目立ち、問題のある事務処理を繰り返していた。

延滞係当時の勤務状況についても同様で、延滞係としての基本的な業務知識が劣り、事務処理能力も低く、また責任感、積極性、計画性等にも欠け、管理事務の懈怠、不正確及び無責任な事務処理、ずさんな管理などといった問題のある事務処理を繰り返していた。

また、特四等級・副調査役としての役割を発揮して、上司の補佐や後輩の指導を行ったり、支店全体の業務運営の推進に取り組んだりすることもなかった。

このように、補助参加人Oの勤務状況は総じて低調なものであり、低い水準の勤務実績しか上げていない。

(各論)

(1) 未入金係当時の勤務状況

ア 管理交渉に計画性がなく拙劣であったこと

補助参加人Oは、管理交渉に計画性がなく、かつ拙劣で、問題のある勤務状況であった。

具体的には、補助参加人Oは、乙谷管理課長に対し、昭和六〇年二月二六日には、延滞口編入の可能性がある未入金口債権を報告したにもかかわらず、同月二八日になって、予定外に延滞口編入となる未入金口債権が一四件、一五〇〇万円もあるとの報告をしてきた。このような事態は、補助参加人Oが管理交渉を遅滞なく効率的に進めなかったため、債務者や保証人から月末間際の返済の申出しか受けられなかった上、実際にその返済が実行されなかったこと、しかも、返済の履行を確実になさしめる詰めの管理を怠っていたり、返済の申出の信ぴょう性についての判断が悪く、債務者等の申出のとおり返済をただ漫然と待つだけで、必要な次善策を講じていなかったりしたことにある。

また、月末に返済するとの約束が履行されず、結果的に延滞口編入となることはあり得ることだが、この件のように一度に大量の予定外の延滞口編入を出すことは他に例のないことである。

イ 業務処理に対する責任感に欠け判断力も劣ること

補助参加人Oは、自分の担当業務を自己の責任で処理をするという姿勢に欠けており、判断を回避して上司にこれを押し付けていた。

具体的には、昭和六〇年二月二二日、根抵当権を設定して貸付けを行っている顧客から根抵当権の全部抹消の申出があり、これを補助参加人Oが対応したが、補助参加人Oは、その顧客への貸付残高、返済状況、営業内容、担保物件の内容、担保による回収依存度、債権保全の見通し等を調査した上で、顧客の申出についての可否を判断し、管理課長へ意見具申を行うという通常の手続をふまず、顧客への貸付残高と返済状況を照会する以外必要な調査、判断を自ら行うことなく、乙谷課長に対して「どうしましょうか。」と聞いてきたのである。

ウ 送金確認登録事務がずさんであったこと

原告では、月末時点で返済金が送金途中である場合、コンピューターに送金確認の登録を行うことにより、その未入金口債権の延滞口編入を停止することになっているが、補助参加人Oは、この事務処理において、顧客が返済金を送金したという事実を正確に確認しないまま送金確認登録を行うことが多々あり、その結果、この送金確認登録の入金率が低く、未入金係全体の入金率平均を引き下げている状況であった。

具体的には、昭和五九年一一月末の送金確認登録案件の入金率は、他の未入金係が八五パーセントから一〇〇パーセントであったのに比べ、補助参加人Oは六一パーセントであり、また、昭和六〇年一月末の送金確認登録案件の入金率は補助参加人Oの場合六九パーセントであり、未入金係の中で最低であった。

(2) 延滞係当時の勤務状況

ア 管理方針案の具申が極めて少なかったこと

延滞係が管理を進めていくためには、個々の延滞口債権の保全・回収を図るために管理方針案を策定、具申することが、その職務の基本的かつ重要な点であるところ、補助参加人Oは、管理方針案を策定して管理課長に具申することが極めて少なく、効率的な管理を進めていく上での大きな支障となっていた。そのため、やむを得ず、補助参加人Oからの意見具申がないまま、上司の乙谷課長や丁本課長らが自ら管理方針を決定して補助参加人Oに指示することも多々あった。

注意指導した具体的な事例は次のとおりである。

① 債務者は電気工事業者で、昭和五六年一月三一日に八〇〇万円を貸し付け昭和五六年九月三〇日に延滞口に編入された案件について、昭和六〇年六月以降乙谷課長が転出する昭和六一年七月までの一年二カ月にわたり、補助参加人Oは一度も管理方針案を策定、具申しなかった。そのため、やむを得ず乙谷課長が昭和六〇年九月一九日、一二月七日、六一年三月一三日、六月二四日の四回にわたり、保証人の実態調査と代位弁済交渉の継続を管理方針として決定し、補助参加人Oに指示せざるを得なかった。

② 債務者は建築工事業者で、昭和五四年一〇月三一日に二〇〇万円を貸し付け昭和五五年二月二九日に延滞口に編入された案件について、昭和六〇年四月以降補助参加人Oが管理方針を全く策定、具申しないため、やむなく乙谷課長が昭和六〇年六月一九日、九月二六日、一二月一〇日の三回にわたり、保証人への代位弁済交渉、顧問弁護士名の催告書の発送及び保証人の給与債権差押えの検討等の管理方針を決定し、補助参加人Oに指示した。

また、補助参加人Oは昭和六〇年一二月二〇日に来店した保証人と代位弁済交渉を行ったが、その後管理方針案を策定、具申することを怠っていたため、昭和六一年三月二六日乙谷課長が保証人の給与債権差押えの管理方針を決定し、支店長の決裁を得て補助参加人Oに指示した。

③〜⑬<省略>

イ 延滞事務月間処理計画・実績表の提出の遅延

佐世保支店では、延滞係の進行管理を徹底させるために、所定の延滞事務月間処理計画・実績表(担当者用)を延滞係が個々に作成し、毎月五日までに管理課長に提出することにしていたところ、補助参加人Oは同表の提出を遅延させることが度々あった。

具体的には、昭和六〇年五月一〇日には、当月分の延滞事務月間処理計画・実績表(担当者用)を、延滞係中補助参加人O一人が作成、提出していなかったため、乙谷課長は、補助参加人Oに対して同表の作成、提出の遅延を注意し、早急に提出するよう指示したことがあった。

ウ ずさんな管理処理が多かったこと

補助参加人Oは、延滞口債権の管理処理を懈怠し、回収の機会を失ってしまったりするような、ずさんな管理処理を行うことが多々あった。その具体例は以下のとおりである。

昭和五四年五月三一日に三五〇万円を貸し付け、昭和五六年一〇月三一日に延滞口に編入された案件について、建築業を営んでいた債務者は行方不明、保証人二名のうち古物商を営んでいた一名は居所不明であり、結局佐世保市内の自動車販売会社に勤務している保証人一名だけが管理交渉の対象という状況であった。この保証人は、毎月二万円の代位弁済を行う旨の約束をしていたものの、その履行は断続的にしかなされず、約束不履行が多い状態であったので、乙谷課長は昭和六〇年六月二一日補助参加人Oに対し、保証人の給与債権の差押えを検討するよう指示した。ところが、補助参加人Oは同課長の指示を無視し、二か月近く一切管理を行わず、保証人に対して昭和六〇年八月一二日と同年九月二六日に電話をし、それぞれ月一回分二万円の代位弁済を求める交渉しか行わなかった。しかも実際に保証人から弁済があったのは九月二六日付けの二万円のみという状況であった。

その後、保証人からの代位弁済の履行もないままに補助参加人Oは三か月近く管理を放置した。この間、同課長は補助参加人Oの怠慢を厳しく注意し、早急に保証人の給与債権の差押えを検討して意見具申するよう指示していたが、補助参加人Oは何らの理由もなく同課長の指示を実行しなかった。

補助参加人Oは、昭和六〇年一二月一六日に至り、保証人へ呼出状を郵送し、その中で法的手続へ移行する旨示唆したが、時既に遅く、保証人は同年一二月一五日に勤務先を定年退職していたことが判明した。結局補助参加人Oのずさんな管理処理により、給与債権差押えの機会を逃してしまったことになった。

エ 指示の実行遅延

① 貸付日昭和五四年三月二六日貸付金額一〇〇万円、昭和五五年二月二九日延滞口に編入された案件について、昭和六一年三月二六日に保証人の町議会議員報酬の差押えを指示を受けているにもかかわらず、同年一二月一六日まで八か月余にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五一年八月二日貸付金額二六〇万円の案件で、昭和六〇年四月一〇日に債務者及び保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、債務者については昭和六一年一月二三日まで、保証人については昭和六一年一月二二日まで、いずれも九か月半にわたり実行しなかった。

③〜<省略>

オ 長期間にわたる管理放置

① 貸付日昭和五三年九月二九日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月一日から昭和六一年二月五日まで一〇か月の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五九年七月一七日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月四日から昭和六二年四月三日まで二年の間、一切管理を行わなかった。

③〜<省略>

カ 選別区分の見直しの作業を遅延させたこと

原告においては、昭和六二年、それまでの延滞口債権の選別区分を見直して新しい基準で延滞口債権の選別区分を行うことにし、佐世保支店においても、延滞係のミーティング等により、昭和六二年九月末までに作業を完了させるとの前提で処理計画を決定した。

補助参加人Oは、この当時延滞係であり、同係のもう一名の後輩職員(甲谷)を引っ張って選別区分の見直し作業を率先して遂行すべき立場にあったところが、自己の担当する延滞口債権に関し処理を遅滞させていることに加え、事務処理を計画的に進めて的確に進行管理を行う姿勢に欠けているため、選別区分の作業を大きく遅延させ、延滞係全体としての作業計画達成の足を引っ張った。

具体的には、昭和六二年五月末では、甲谷は、その担当件数二一七件のうち一一三件完了、進ちょく率52.1パーセントに達していたのに対して、補助参加人Oは、担当件数二二七件のうち七九件しか完了しておらず、進ちょく率は34.8パーセントに過ぎなかった。同様に、同年六月末においては、甲谷の進ちょく率55.3パーセントに対し、補助参加人Oのそれは37.7パーセント、同年七月末においても、甲谷の進ちょく率59.0パーセントに対し、補助参加人Oのそれは46.1パーセントというものであった。

この間、丁本課長が補助参加人Oに対し、積極的かつ計画的な取組みが乏しいことを指摘し、処理を促進して作業の遅れを取り戻すよう注意・指導するなどした結果、何とか計画どおり九月末に選別区分の見直し作業を完了させることができたが、この件に関する補助参加人Oの職務に対する姿勢は甚だ問題のあるものといわざるを得ない。

キ 出張命令簿のずさんな作成

補助参加人Oは、延滞口の債務者及び保証人を実訪するため昭和六〇年五月一六日から翌一七日までの一泊二日で長崎県松浦市北松浦郡へ出張する予定になっていた。このような場合、原告では、出張命令を受けるため事前に職員が旅行命令簿を作成して課長を通して支店長に提出することになっており、その作成要領は、実訪先の名称、所在地、貸付番号等を列挙することとされている。このことは、出張命令を受けるための基本的かつ初歩的なことであり、職員が当然のこととして行っていることである。しかし、出張前日の昭和六〇年五月一五日、補助参加人Oは、旅行命令簿に単に「松浦市、北松浦郡」と記入したのみで乙谷課長に提出してきた。

このように、補助参加人Oは、職員として基本的な事務手続すら処理できない状態にあった。

ク 支店内の勉強会に対して意欲的に取り組む姿勢に欠けていたこと

原告事務処理規程や手続等に習熟して自己啓発に努めるため、佐世保支店管理課では、未入金係及び延滞係の職員で輪番制により講師を担当して、課の勉強会を月一回行っていた。

昭和六一年四月二四日は、補助参加人Oを講師とする貸金債権の消滅時効をテーマに勉強会を行うことになっており、乙谷課長は、補助参加人Oに対して、貸金債権の消滅時効とその中断方法についてわかり易くまとめたペーパーを作成して説明するよう指示していた。ところが、補助参加人Oは勉強会の席上、原告が職員に配布しているマニュアルである「管理事務の基礎知識」から時効に関する部分を単純にコピーしたものを配り、それを読み上げるだけの説明に終始し、工夫した形跡はみられなかった。

ケ 事務ミスを繰り返したこと

補助参加人Oは、不注意から単純な事務ミスを犯すことが度々あった。

例えば、昭和六一年七月二八日には、補助参加人Oは、原告が提起した貸金請求訴訟の費用を仮払金として出金したが、その仮払金の出金の記録を管理カードの仮払金明細欄に記載することを失念していた。丁本課長が検印しようとしたが、補助参加人Oが記録を漏らしていることを発見したため、その場で補助参加人Oに注意し、直ちに記録させた。

コ 支店業務の運営に非協力、消極的であったこと

① 佐世保支店では、支店全体で月一回実施する業務懇談会、各課のミーティングなどの各種会議を開催しており、そういう機会には、既にベテランの域に達し、かつ副調査役である補助参加人Oには、自分の担当事務の処理ばかりではなく、支店全体あるいは課における業務の推進について、積極的に提言や発言を行うことが期待されるところ、補助参加人Oにはそうした積極的な取組み姿勢はみられず、建設的な提言や発言はなかった。

② また、補助参加人Oは、マーケティング活動への取組みについても消極的であった。

具体的には、マーケティング活動の充実に関し、補助参加人Oのそれまでの姿勢ははなはだ消極的なものであり、他の職員と比べて取り組みの遅れが目立っていたことから、乙谷課長は、昭和六〇年八月一九日、補助参加人Oに対し、同課長の出張中である八月二〇日から同月二三日までの間に、マーケティング活動の一環として顧客への実訪を一〇件ほど行うことを指示した。ところが、補助参加人Oは二件しか行っておらず、乙谷課長が補助参加人Oに対してそのような低い結果に終わった理由をただしても、補助参加人Oは曖昧な返事をするだけで反省の態度を示さなかった。

サ 上司に対する補佐、後輩への指導がなかったこと

副調査役である補助参加人Oには、上司である課長を補佐して支店業務の推進を図るとともに、後輩職員に対して業務面で種々指導する役割を果たすことが求められていたところ、補助参加人Oは上司を補佐する姿勢は全くなく、また、後輩職員を指導することは皆無であった。

(五) 補助参加人Rについて<省略>

(六) 補助参加人Gについて

補助参加人G(以下「補助参加人G」という。)は、昭和六〇年から昭和六二年にかけては、水戸支店において勤務して、延滞係を担当していたが、右期間における補助参加人Gの勤務状況等は次のとおりである。

(総論)

補助参加人Gは、延滞口債権の管理事務に関して、指示された事務処理を速やかに実行しないで遅延させ、また、管理を放置することを繰り返し、支店全体の業務においても率先垂範して業務に取り組む姿勢をみせず、服務規律面でも問題のある言動を繰り返していた。

(各論)

(1) 事務処理における指示の実行遅延及び管理の放置が多々あったこと

補助参加人Gは、個々の延滞口債権の事務処理について、上司の指示の実行を遅らせたり、長期間管理を放置したりすることが多々あった。上司から、補助参加人Gに対して、指示については速やかに実行すること、また、管理を放置することのないよう、注意をしていたが、指示の実行遅延や管理放置が改まることはなかった。以下に具体例を示す。

ア 指示の実行遅延

① 貸付日昭和五四年三月一五日ほか貸付金額計八〇〇万円の案件で、昭和五九年一一月一日、保証人所有の不動産調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年五月一六日まで約六か月半にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五三年六月二九日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和五九年一二月一九日、債務者法人代表者について、管理依頼を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年二月二一日まで約二か月にわたり実行しなかった。

③〜⑱<省略>

イ 長期間にわたる管理放置

① 貸付日昭和五六年一二月二四日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六〇年二月二五日から同年六月一三日まで約三か月半の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五七年四月一二日貸付金額五〇万円の案件で、昭和六〇年三月一二日から同年六月二一日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

③〜⑲<省略>

(2) 業務に必要な知識・能力が不足していたこと

補助参加人Gは、日ごろの自己啓発の努力を怠っていたため、業務を遂行する上での必要な知識・能力不足が目立っていた。以下に具体例を示す。

ア 時効の期日管理を的確に行っていなかったこと

連帯保証人に対する確定判決がある場合、当事者である連帯保証人との関係では時効期間は一〇年であるが、このことは主債務の時効期間には影響を及ぼさないとする判例があることから、原告の実務においては、連帯保証人に対する確定判決を得ていても、主債務の時効期間は判決確定後五年として取扱うこととしている。

しかしながら、補助参加人Gはこのような原告における基本的な取扱いを理解しておらず、時効の中断手続を看過してしまったことがあった。

当該案件は、債務者(株式会社)はプラント関係製造業で、昭和五三年五月一七日に四〇〇万円を貸し付け、昭和五五年八月三〇日に延滞口に編入した案件で、債務者法人代表者は行方不明であるため、保証人に対し提訴し、昭和五六年一〇月二六日勝訴判決を得た。その後昭和六〇年から補助参加人Gが担当し、管理を続けていたが、関係者からは弁済がなかった。

ところが、昭和六二年九月七日に、戊本課長が当該管理カードの検照を行ったところ、保証人に対する勝訴判決の後五年を経過しているにもかかわらず、補助参加人Gが主債務について時効の中断措置を取っていないことが判明した。

戊本課長は補助参加人Gに対し、「連帯保証人に対する確定判決があっても、主債務の時効期間は五年として取り扱うことになっている。」と注意すると、補助参加人Gは「その場合は一〇年ではないのか。」と返事し、時効についての原告の取扱いを理解していなかった。

イ 配当要求にかかる無理解

債務者や保証人の不動産について、他の債権者から競売申立てがなされている場合は、一般債権者は配当要求を申し立てることができる。この配当要求は、執行裁判所が定めた配当要求の終期までに行うことになるが、配当要求の終期から三か月以内に売却許可決定がされないときは、期間が更新される。しかしながら、補助参加人Gは、こうした配当要求に関する手続を理解していなかった。具体例を挙げると以下のとおりである。

債務者(株式会社)はサービス業で昭和五七年一二月二七日に八〇〇万円を貸し付け、昭和五九年八月三一日に延滞口に編入となった案件で、補助参加人Gが担当していたが、代表者の不動産が信用保証協会から競売申立てがされていた。代表者については既に債務名義を取得していたので配当要求の是非について検討すべきところ、補助参加人Gは昭和六二年一二月一〇日に、「配当要求の終期が経過したため配当要求はできない。」と意見具申してきた。戊本課長は、「配当要求の終期から三か月以内に売却許可決定がされないときは、期間は更新される。」と指摘したところ、補助参加人Gは納得がいかないような顔をしていた。そこで裁判所に確かめるよう指示したところ、補助参加人Gは、水戸地方裁判所に照会し、「配当要求の終期は三か月ごとに更新されるのが正しいので、配当要求します。」と言ってきた。

(3) 職場の内外で規律上問題のある言動を繰り返したこと

補助参加人Gは、職場の内外で秩序を乱す行為を度々繰り返し、注意を受けても改めなかった。以下にその例を示す。

ア 記章(公庫バッジ)の着用を長期にわたり度々怠っていたこと

原告において職員は、就業時間中には公庫バッジを着用することを義務づけられており、このことは記章取扱規程に定めている。しかしながら、補助参加人Gは、公庫バッジを特定の上着に着けたままにしているらしく、他の背広に着替えても公庫バッジを付け替えないために不着用となることが度々あった。しかも、右バッジの不着用は一時期に限られたことではなく、継続的に不着用の事態を繰り返していたことから、意図的に着用していないことが明らかであった。その都度、上司である甲中課長、その後任の戊本課長とも、補助参加人Gに対して、常時着用を心掛けるよう注意・指導した。しかし、補助参加人Gはこれを無視して着用しなかった。

また、昭和六二年七月一日には、関支店長が公庫バッジを着用していない補助参加人Gに対して、「バッジを着用することは規程にも定められていることであり、就業時間中は常に着用するようにしなさい。副調査役として後輩職員に範を示すべき立場にあるあなたが、このようなことでは困る。」と注意したが補助参加人Gは従わなかった。そこで同支店長は、同年九月二四日にも、補助参加人Gに同様の注意指示をしたが、補助参加人Gはこうした支店管理者の指示に一切従わず、その態度を改めることはなかった。

イ 組織を無視した言動をとったこと

昭和六〇年一月一八日に、補助参加人Gは甲中課長や乙海次長、庚川支店長に何の相談もなく突然本店人事部に電話をかけて、「顧客の返済相談等を行う応接コーナーが寒い。私が風邪をひいたら労働災害であり、きちんと水戸支店を指導するように。」と申し出た。

人事部から報告を受け、乙海次長が補助参加人Gに確認したところ、補助参加人Gは「昨日から丙谷調査役と総務課長に対し、応接コーナーが寒いので改善するよう申し入れたが、何らの対策も取らないので本店に連絡した。」と答えた。しかし、支店管理者に施設の改善を前日申し入れたとしてもすぐに対応できる問題ではなく、また、支店における職場環境の問題はまず組織上の上司である課長なり次長・支店長に申し出て支店内で解決を図るのが組織としてのルールである。補助参加人Gの右言動は、組織人として必要な常識の欠如を示すものである。乙海次長は「今後このような非常識な行動は取らないように。」との旨注意・指導した。

ウ 業務時間中に無断離席したこと

補助参加人Gは、業務外の用件で無断離席することが度々あった。一例を述べると、昭和六二年一〇月一五日に、茨城県高等学校教職員組合執行委員長甲藤一郎と名乗る人物ほか二名が来店し、「茨城争議支援共闘会議を結成したので挨拶に来店した。」との申出があった。そこで戊本課長と丁野次長とが応接コーナーで面会していたところ、補助参加人Gが自分の席を離れ、右来店者と同席したので、戊本課長は「業務時間中であり、Gさんは自分の席に戻り仕事をしなさい。」と指示した。ところが補助参加人Gはその指示を無視し、自分の席に戻る様子がないため、丁野次長と戊本課長は再三にわたり、席に戻り仕事をするよう厳重に注意したところ、補助参加人Gは、「飲み屋の女将が来たときに職員も同席しているのと変わらず、席に戻る必要はない。」と趣旨不明の発言をし、指示に従わなかった。

争議支援共闘会議のメンバーが退店後、報告を受けた乙藤支店長が補助参加人Gに「業務時間中に自分の職務を放棄した上勝手に離席し、しかも上司の指示を無視するとは何事か。」と厳重に注意・指導したが、補助参加人Gは全く反省の色を示さなかった。

(4) 業務遂行に消極的な姿勢が目立ったこと

ア 業務推進策についての消極的な姿勢

原告の融資制度の周知等を行うマーケティング活動を積極的に推進することは、昭和六〇年度、六一年度の支店の重点目標の一つでもあり、当時水戸支店では広報委員会が中心となり年間スケジュールを策定し、全店的に取り組むことになっていた。したがって、延滞係の補助参加人Gも自分の担当する業務の処理だけでなく、これらの業務推進活動にも副調査役として積極的かつ臨機応変に取り組む必要があった。

しかしながら、補助参加人Gはこうした状況を承知していながら、常に消極的な態度に終始し、時には拒否する有様であった。具体的に述べると以下のとおりである。

(ア) 昭和六〇年六月一四日、支店では、業務推進活動の一環として顧客へのダイレクトメールの発送作業を行うこととし、甲中課長が管理課職員全員に対し作業を割り当て指示したところ、補助参加人Gを除く他の管理課職員は積極的に発送作業に取り組んだ。しかし、補助参加人Gは丙谷調査役に対し、「急に言われてもできない。」と作業を拒否する姿勢を示した。職員は担当業務だけでなく、支店全体の業務についても指示されたものについては、誠実に遂行する義務を負うことはいうまでもない。たとえ、一時的に担当業務が忙しい場合でも、手空きの時間帯を活用して指示された支店業務を遂行すべきである。補助参加人Gの場合、他の職員と条件は同じであり、同人一人に過大な仕事を割り当てたという状況にはないのであるから、同人に意欲と責任感があれば、指示に素直に従うことができるはずである。しかるに、同人は日ごろから支店全体の業務推進策に積極的に取り組む姿勢がなく、そのため、右のような反抗的な言動となったものである。

甲中課長は、丙谷調査役から報告を受け、補助参加人Gに対し、「ダイレクトメールの発送作業については、支店全体で取り組んでいるものである。あなたも本日中に自分に割り当てられた分を完了するように。」と注意・指導した。

(イ) 昭和六〇年九月一三日、業務推進活動の一環として顧客へのダイレクトメールの発送作業を実施することにして、当日、甲中課長が不在であったため、丙谷調査役に作業実施を指示させた。そこで、丙谷調査役が補助参加人Gへの割り当て分を配布して発送を指示したところ、補助参加人Gは「こんな話は聞いていない。課長からも指示されていない。」と反抗的な態度で作業を拒否した。やむを得ず、補助参加人Gへの割り当て分は、丙谷調査役と後輩職員である丁海職員が代わって行った。

しかし、右ダイレクトメールの発送作業については、支店広報委員会で実施を決定していたものであり、他の管理課の職員が取り組んでいるにもかかわらず、補助参加人Gだけが課長の指示がないからやらないというのは単なる口実であり、同人の消極的かつ反抗的な姿勢を示すものである。後日、甲中課長は、「こうした注意はこれで二回目である。」と補助参加人Gの態度について厳しく注意・指導した。

イ 判断力において問題があったこと

補助参加人Gは、業務を遂行するに当たり管理方針の重要なポイントになると、自分で判断することができず、上司の判断を仰ぐということがよくあった。訴訟案件で和解案を検討すべきときにも、自分で考えず、上司や弁護士任せということがあった。一例を述べると以下のとおりである。

債務者(株式会社)はサービス業で、昭和五七年一二月二七日に八〇〇万円を貸し付け、昭和五九年八月三一日延滞口に編入した案件について、昭和五九年九月から補助参加人Gが担当したが、その後も債務者及び保証人が支払をしないので、同年一二月に代表者と保証人に対し訴えを提起した。その後、昭和六〇年九月一〇日に、当該案件の和解案について打合せを行うことになり、甲中課長は同日、担当者の補助参加人Gとともに顧問弁護士事務所を訪問した。

このような場合、担当の補助参加人Gが自らの判断でもって事前に作成した和解案を席上に出して顧問弁護士や上司である甲中課長の見解を聞き、最終的な和解案を確定する手順になる。しかしながら、補助参加人Gは事前に何の和解案も作成していなかったため、結局その場で顧問弁護士と甲中課長が協議しながら、一から和解案を作成することになった。

甲中課長は、補助参加人Gに、「担当者として、事前に自らの意見として和解案を作成し、これを上司や弁護士に意見具申すべきである」と注意・指導した。

(5) 年休取得に際して業務上の支障を考えないこと

補助参加人Gは、業務の都合を考えず、しかも、突発的に年休を申し出てくることが多くあった。以下、その例を述べる。

ア 昭和六二年五月一日、始業時刻後の午前九時三〇分ころ、補助参加人Gから戊本課長に「本日のメーデーに参加するために、午前一〇時から一二時まで二時間の年休を取得したい。」と、突然の申出があった。

戊本課長は、「予め予定が分かっている年休の取得について、なぜ当日突然に申し出るのか、支店の業務も考えるべきである。」と注意した。

ところが、補助参加人Gは反省するどころか、「それは課長の判断ですか。完全な年休制限と受け取ります。」などと反抗してきた。戊本課長は、「年休の取得を制限するつもりは毛頭ない。業務に支障が出ないよう早めに申し出よと注意しているのである。」と改めて注意・指導した。

イ 昭和六二年一〇月三〇日の終業時刻後残業中の午後六時に、補助参加人Gから戊本課長に、明日一〇月三一日に午後一時間年休を取得するとの申出があった。一〇月三一日は土曜日で、当時は午後一時一〇分までの勤務であり、これの最後の一時間について年休を取るというのが補助参加人Gの申出の内容であった。

しかし、管理課にとって月末は、債務者、保証人からの入金の締め日であり、債権管理交渉の詰め、入金の有無の確認、入金処理等、月内で最も忙しい日となり、一時間でも非常に貴重な時間である。かつ、直前に年休を申し出ることは、仕事の分担等について混乱をもたらすものである。戊本課長は、「月末のましてや土曜日は管理課にとって最も忙しい日であり、突然の年休取得の申出は常識外である。一生懸命やっている他の職員にも悪影響を与えることになる。」と注意した。ところが補助参加人Gは、「常識外とはひどい。これでも遠慮して午後の時間帯とした。」と反抗的な発言を繰り返し、結局翌日一時間の年休を取得した。

(6) 延滞口の解消実績について

補助参加人Gの昭和六二年度の延滞口の解消実績は可もなく不可もないといった程度であった。ただし、補助参加人Gの解消実績は当時次第に低下しており、昭和六三年度についていえば最下位の実績しかあげていなかった。昭和六二年度及び六三年度の水戸支店延滞係の延滞口債権解消実績は、以下のとおりである。

(昭和六二年度)

G 解消金額・  七八七五万円

解消件数・四一件

k 解消金額・一億〇九五一万円

解消件数・四七件

l 解消金額・  五八一八万円

解消件数・三〇件

m 解消金額・  五二二五万円

解消件数・四六件

(昭和六三年度)

G 解消金額・  五二二〇万円

解消件数・二四件

k 解消金額・  七八五八万円

解消金額・四一件

n 解消金額・  六五一一万円

解消金額・三一件

(7) 支店業務の推進に積極的な提言のなかったこと

補助参加人Gは支店全体の業務の推進に関して積極的に取り組む姿勢はなく、また、管理課の打合わせや支店の会議等で積極的に発言したり、業務を推進させるような提言をすることはなかった。

(8) 上司の補佐や後輩の指導がなかったこと

補助参加人Gは副調査役として、上司である課長や調査役を補佐して支店の業務の推進を図るとともに、支店の後輩を指導することが求められていた。

しかし、補助参加人Gは、副調査役は支店の役席と一般職員の接点の立場にあることを自覚しながら、課長を補佐する役割を発揮する姿勢を示すことはなく、また、後輩職員に対して業務面で指導するという役割を果たしたこともなかった。

(七) 補助参加人Nについて<省略>

(八) 補助参加人Lについて

補助参加人Lは、昭和六〇年から昭和六二年にかけては、東大阪支店において、延滞係として勤務していたが、右期間における補助参加人Lの勤務状況等は次のとおりである。

(総論)

補助参加人Lは、延滞係の一員として自分に割り当てられた案件に関する限り、おおよそ平均的に処理していたが、しかし、原告職員としての勤務態度全般において極めて消極的であって、自分で仕事の範囲を画してしまい、管理課全体についてはもとより、延滞係内においてもその全体の成果に貢献するとか、全体の士気にプラスの影響を及ぼすというところは全く認められなかった。また、四等級職員に要求される後輩や下位者に対する助言、指導ということも全く欠如していた。

補助参加人Lの勤務に対する姿勢は、アラーム付腕時計着用に端的に示されている。すなわち、同人は当時終業時刻五分前にアラームの鳴る腕時計を着用しており、アラームが鳴るや業務を終了し、終業時刻になると同時に退店した。終業時刻まで仕事に専念している他の職員に比べれば、その勤務姿勢の特異性は際立っていた。

(各論)

(1) 消極的な勤務態度

支店の業務全体は、各職員が厳密に自分に割り当てられた案件ばかりに閉じこもって、その範囲だけを行うということでは、決して良好な進ちょくを得られるものではない。そして、そのことは、支店内の各課、各係の段階でも全く同じことであり、また原告全体にわたっても同様である。その意味で、支店では、業務懇談会やミーティングを積極的に行っていた。

しかし、補助参加人Lは、このような場において、全くただ出席するというだけで、質問されない限りおよそ積極的に発言しようともしないという存在であり、極めて消極的な態度に終始した。

以下、具体的場合について述べる。

ア 支店の年間重点目標、課・係の具体的施策の策定における参画状況

原告では、毎年度本店で当年度業務運営方針を定めて全店に示し、これを受けて各支店で当年度重点目標を、さらにこれに基づき各課、各係がそれぞれ具体的施策を策定し、これらを指針としてそれぞれの立場で業務を遂行していくことになる。

支店の重点目標は最終的にはもちろん支店長が決定するが、それまでには全職員からアンケートを取り、係のミーティングで意見をかわし、課のミーティングで討議するなど次第に全店の意向把握につとめた上で、最後にこれを踏まえて支店長が決定し、年度当初の業務懇談会で発表して支店長からその意図するところを説明、訓示することになる。

このように、支店の重点目標が示されると、つぎはこれを各課、各係で仕事の上でいかに実現していくかの具体的施策を策定するのであるが、これもすべて課のミーティング、係のミーティングで討議し、その総意を徴して決定する。つまり、支店重点目標、課・係の具体的施策の策定に当たっては、課・係のミーティングは二度にわたってこの事項を取り扱うのであり、特に二度目の具体的施策策定の段階では、十分活発な発言が欲しいところである。実際にも、延滞係では副調査役の甲水や丙山、五等級の丙藤、丁中、戊藤などの職員からその時々の問題提起がなされている。

ところが、補助参加人Lはいかなる段階においても、およそ発言はないに等しいという消極的な状態で終始していた。

イ 延滞口年度処理計画の策定における参画状況

管理課では、新年度が近づいてくると、その年の年間の処理計画を立てて本店に報告する。各支店の処理計画は各総括ブロック内の会議等で議論された上、本店に報告され最終的に原告の処理計画となる。

東大阪支店での処理計画策定手順は、まず、延滞口の発生見込みについては未入金係が、解消計画については延滞係が、それぞれ各担当者が自分の担当する案件を洗い直し、この一年間どれだけ延滞口が発生したり、あるいは解消させることができるかを積み上げるという作業を行い、これをもとにして最終的には課長が課長として考える処理計画を立案する。その結果、各担当者から上がってきた計画と、課長の考える計画との間には当然ある程度の乖離があるから、そこで課のミーティングで意見を出し合い、討議していくことになる。

課のミーティングでは、課長の策定した課としての計画案に対し、未入金係、延滞係の各担当者が様々の観点から意見を発表し、討議して何とか少しでもよりよい処理計画に到達しようと努める。

しかしながら、補助参加人Lは、このような年間計画の策定のときもほとんど意見具申はなく、何か発言を求められても特段の意見を述べることもないという状態で、活発な論議を盛り上げるのは、いつも、先に述べたような甲水・丙山副調査役、五等級の丙藤、丁中、あるいは入庫後最も新しい戊藤などの職員であった。

ウ 管理課及び延滞係のミーティングでの取組み姿勢

管理課のミーティングは、月一回、課全体としての計画が達成できたかどうかということを中心に、前月の実績とその反省、評価等について議論し、また、延滞係のミーティングでは毎週一回、前週までの計画に対する進ちょく状況、今週、来週の計画の徹底等について論議をかわしていた。

管理課の未入金係なり延滞係の担当者たるものとしては、各々が自ら担当する案件の処理、解消については当然のことながら、そればかりでなく、係全体、課全体として、計画に対して実績がどのような状況かを常に問題意識を持って仕事に取り組んでもらうことが求められる。

しかし、このミーティングでも、補助参加人Lは、課の打合せ会ではほとんど発言がなく、係別のミーティングでも、管理課のミーティングの状況ほどではないにしても、例えば難件口検討会の場合のように特に自分の担当案件が問題になるときはともかくとして、係全体の成果ということについては全く我関せずの態度で、何ら意見を述べようともしない姿勢を貫いていた。

エ 融資課と管理課合同のミーティングにおける取組み姿勢

東大阪支店では、支店の重点目標として融資と管理との密接な連携を強調していたが、この具体的な取組みとして、融資課と管理課合同のミーティングを開催していた。このミーティングは大体四半期に一回程度を目途として行われていた。

このミーティングは、仕事の状況を見計らいながらなるべく段取りをつけて、各担当者に出席してもらうということを決めて取り組んでおり、実際には融資課からはほぼ全員、管理課からは大体課長、調査役のほか担当者二、三名が出席するという形で行っていた。しかし、このような場合にも補助参加人Lは積極的に意見を述べることはなく、ひいては、同人を指名し発言を求めるということはできなかった。

オ 職場内における勉強会での取組み

管理課では、昭和六一年度も六二年度も課の具体的施策に研修の強化を掲げており、その実践として各係で頻繁に勉強会を開催していた。

具体的には、延滞係では、昭和六〇年度は、「仮差押、強制執行と進行管理(講師・甲水)」「時効について(同甲松)」、昭和六一年度は、「有体動産の差押(同丙島)」「延滞から見た不動産評価の方法について(同L)」「特殊整理(同丙藤)」「相続をめぐる諸問題(同戊松)」「根抵当について(同丙山)」等、昭和六二年度は、「不動産担保融資をめぐる諸問題(同丙藤)」「管理事務研修報告(同戊藤)」「詐害行為取消権(同丙島)」「仮登記、仮処分(同丙山)」等であった。

係でのこのような勉強会では、講師は輪番制をとっていたので、補助参加人Lも輪番制の一員として講師を務めたことがあるが、自ら講師の当番が当った時には当然その役割は一応果たすものの、そうでない時には発言も質問もせずただ出席するだけという状況であった。

また、課としての勉強会には、年間に一回ないし二回弁護士を招いての勉強会も行われている。その時の補助参加人Lの態度も全く同様で、積極的に発言したりすることは皆無であった。

そもそもこの種の勉強会は、講師の報告で知識を得るということのほかに、その報告について質問したり、関連する問題について論議を拡げたりして、お互いにそのテーマを基に話し合うことによって血となり肉ともなるものであるが、補助参加人Lが、係内の四等級者として、むしろこのような論議を引き出すべき立場にあることにかんがみると、まことに物足りないものといわなければならない。

カ 管理課内、延滞係内でのコミュニケーションに対する取組み

延滞係、未入金係の仕事は、単に自分の持分を処理、解消していくに止まらず、課全体、係全体としての具体的施策や、年間、四半期、月間の課としての処理計画を実行していくことが求められる。

前者については、自分の分担のことであり、自分の中だけで取り組めるが、後者の場合は、特別なミーティングの場だけでなく、むしろ日常的に同僚職員との協調性を保ち職場内に良好なコミュニケーションが成立っていることが大変大事なことである。

しかし、そのためにはやはり皆がその気持を持ち、常日ごろなにがしかの努力をし合うということが必要であるが、補助参加人Lの場合は、黙々と自分の分担だけを守るばかりで、このような望ましい姿勢は期待し得ないところであった。

(2) 自己啓発に対する消極的な姿勢

東大阪支店では、従前から四、五等級の職員が自主的に行っている勉強会があり、就業時間外に一四、五名で大体一回に二時間程度で行われており、支店もこれに会議室を貸与していた。テーマは、「借用証書の特約条項」、「時効」、「利息計算」、「抵当権と根抵当権」、「仮登記担保」といった法律問題のほか、「金融自由化の進展」というような時事問題も取り上げていた。しかし、この勉強会のリーダーをつとめたのは五等級の丁岡、甲沼といった若手の職員が中心であって、補助参加人Lはこのような勉強会に参加したことは一度もなかった。

また、原告では、本店調査部が主催し、毎年各支店から論文を募り表彰していくという施策があり、テーマは広く原告業務、中小企業、地域経済、経済全般にかかわるもの等広範で、原告職員ならだれでも応募できるものである。

東大阪支店では、昭和六一年度については、「東大阪支店窓口から見た円高影響調査〜「国調」貸付を通して〜」=乙崎二郎、壬村太郎、丁岡三郎、丁中四郎、「条件変更から顧客のニーズを探る一試論」=戊村五郎、甲沼六郎、丙藤七郎、昭和六二年度についても、「地域経済特性と公庫申込との関連性について」=戊海八郎、丙藤七郎、丙中九郎、「東大阪支店における『銀行紹介口』申込の実態」=丁水十郎、乙松英郎、甲岡九郎、丁井米郎と、それぞれ二点ずつ応募があり、それぞれに表彰を受けている。

これら勉強会、懸賞論文への取組みは、元来は各人の自主的な取組みとして業務時間外で行っているものではあるが、支店としても大いに奨励しているものであった。しかし、補助参加人Lにはおよそ無縁のものであった。

(3) 規律上問題のある言動があったこと

原告では、職員は就業時間中記章(公庫バッジ)及びネームプレートを着用することになっている。このバッジは記章取扱規程にもその着用が定められているが、この規程や指示を待つまでもなく職員は上着に公庫バッジ及びネームプレートを着用している。

しかしながら、補助参加人Lの場合、このバッジについては、「バッジを着けなければならないとは就業規則のどこにも書いてない。」と言ってどうしても着けようとしなかった。また、ネームプレートも着用を拒否した。上司から何度も着用するよう指示されたが、補助参加人Lは、頑としてはねつけ、着用しなかった。

(4) 下級者に対する指導・助言等がなかったこと

補助参加人Lは、昭和六〇年四月に四等級に昇格した。原告においては、この四等級になると、後輩に対して助言・指導を行うことが求められる。

昭和六一年度から六二年度にかけて、延滞係は調査役一名、管理役一名、副調査役一名ないし二名のほか、四等級二名ないし三名、五等級二名という構成であったが、補助参加人Lがこの五等級者に業務上助言を与えるとか、指導をするということは全くなかった。むしろ、この五等級二名のうちでも、入庫の新しい職員を指導していたのは、同じ五等級で先輩に当たる丙藤職員の方であった。

(九) 補助参加人Bについて<省略>

(一〇) 補助参加人Iについて<省略>

(一一) 補助参加人Qについて<省略>

(一二) 補助参加人Sについて<省略>

(一三) 補助参加人Cについて<省略>

(一四) 補助参加人Eについて

補助参加人Eは、昭和六〇年から昭和六二年にかけては、昭和六一年三月まで浜松支店、以後昭和六二年末までは岡崎支店に勤務していた。同人の右期間中の担当事務は、浜松支店では審査係、岡崎支店では、昭和六二年九月まで未入金係、それ以降は延滞係であったが、右期間における補助参加人Eの勤務状況等は次のとおりである。

(総論)

浜松支店当時の勤務状況については、補助参加人Eは既に勤続約二〇年のベテラン職員であったが、その仕事振りは、与えられた審査案件を漫然と処理するだけに終始し、自分が納得できるまで調べてみようという前向きな姿勢がみられず、うわべだけの事務処理を繰り返していた。また、初歩的なミスを繰り返すなど、満足な実績を上げることができなかった。さらに、自己啓発の意欲もなく、基本的な制度の内容や関連規定に関する知識の習得を怠り、積極的に業務に取り組む姿勢を欠いており、下級者に対する指導・助言を行うことは全くなかった。

岡崎支店の未入金係当時の勤務状況については、指示された督促を怠ったり、債権管理の実績が上がらないなどの問題があった。

さらに、同支店の延滞係当時の勤務状況についても、担当期間は三か月半程度と短いが、延滞口債権の解消のため意欲を持って仕事に取り組む姿勢は全くなく、担当案件につき指示された事項の事項遅延や管理放置が多くあり、問題のある勤務状況であった。

(各論)

(浜松支店当時の勤務状況等)

(1) 浜松支店当時、投げ返しが多かったこと

補助参加人Eは、審査係を担当し、調査事項の調査を行わなかったり、信用調査票への記載内容も不十分、不適切であるというケースが多々あった。その結果、乙原課長は、補助参加人Eが行った審査処理に基づく意見具申についてそのまま了とすることができず、補助参加人Eに対して「投げ返し」という形で再調査や信用調査票への補正等を指示せざるを得ないことが多くあった。

もちろん、審査内容に不十分な点などがあれば補助参加人Eに限らず審査係の職員全員に対してこの投げ返しを行っていたが、補助参加人Eの審査処理の内容は極めて不十分なものであったことから、投げ返し件数は他の審査係の職員に比べ必然的に多くなってしまうという状況にあった。

例えば、浜松支店において、昭和六〇年四月から昭和六一年三月までの一年間で乙原課長が各審査担当者に投げ返しを行った申込案件数を集計すると、次のとおりになっている。

o・ 三件

p・一四件

q・三七件

E・六七件

r・一六件

s・七二件

右のうち、最も「投げ返し」件数の多いのはs職員であるが、同職員は、昭和五八年に入庫して三年目の昭和六〇年に初めて審査を担当したものであり、審査事務に習熟しておらず、不備が多いことによるものである。補助参加人Eは一年間で六七件であり、これはs職員とほぼ同様の件数である。三番目のq職員になると、一年間で三七件となり、大幅に少なくなる。

また、この投げ返し案件数を同期間で処理した審査案件数に対する割合でみてみると、補助参加人Eが10.6パーセントであるのに対し、p職員が1.9パーセント、q職員が6.2パーセント、r職員が1.9パーセントとなっている。

昭和六〇年一月ないし一二月までの一年間についてみても、補助参加人Eは右一年間で八二件の投げ返しを受けている。

以上のとおり、補助参加人Eが、極めて投げ返しの多い問題職員であったことは明らかである。

(2) 審査事務の問題事例

補助参加人Eが処理をした審査で投げ返しを受けて補正を指示された事例の一部を示すと、以下のとおりである。

① 一般区域貨物自動車運送業者から貨物自動車購入のための設備資金として一〇〇〇万円の申込みのあった案件で、前年度の昭和五八年度損益が五八六〇万円の大幅な損失を計上しており、また、負債の項に四四五二万円の多額の雑勘定が計上されていた。したがって、財務内容の慎重な検討や保証人予定者の不動産の有無等の資産状況の把握等を行って保全面の確保を図るなど融資の可否を慎重に判断する必要がある。それにもかかわらず、これを怠ったまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年三月二六日に注意・指導を受けた。

② スナックを新規に開業する業者から既存店舗の買取り資金として二五〇万円の環衛貸付けの申込みのあった案件で、環衛貸付けにおいて新規開業のために既存の店舗等を買い取る資金については、近代化または衛生面で一定水準以上のものに改装する場合における当該店舗等の改装及び買取り等に要する資金が対象になるにもかかわらず、これを看過し改装の有無を確認しないまま意見具申を行い、昭和六〇年三月二九日に注意・指導を受けた。

③〜⑳<省略>

(3) 無責任な事務処理事例

補助参加人Eは担当した審査案件の処理において、極めて無責任な対処をした。以下はその一事例である。

建設業を営む法人からコンクリート破砕設備の購入資金として、すでに設定済の根抵当権のほかに土地四筆に普通抵当権を設定することを希望しての借入申込みがあった案件について、補助参加人Eは昭和六〇年三月二二日に申込み法人の代表者と面接し、担保に徴求する不動産について調査及び評価を行った上で、八〇〇万円を貸し付ける旨の意見具申をした。

乙原課長は、補助参加人Eから意見具申を受けた際、債権保全を強化する趣旨から保証人を一名追加する条件を付した上で、補助参加人Eの意見どおり八〇〇万円を貸し付けることを決定した。

ところで、原告では、通常、担保設定の登記が完了した後に融資金を交付しているが、年度末においては資金需要に対処するための特例として、担保設定登記について法務局がこれを受け付けたことを証明する書類(受理証明)を確認した時点で融資金を交付することとして差支えないという取扱いをしていた。

本件の申込案件についても、当該法人から申込みがあったのは昭和五九年度の年度末であり、そのためこの受理証明の確認をもって昭和六〇年三月三〇日に八〇〇万円の融資を実行した。ところが、昭和六〇年四月に入り、登記完了後の不動産登記簿謄本から、普通抵当権を設定した土地四筆のうち一筆について、原告の担保設定前に第三者による所有権移転の仮登記が設定されていることが判明した。このような所有権移転の仮登記が設定されていると、仮に本登記されれば原告が設定した根抵当権が覆えされてしまうことから、原告では、こうした物件を担保に徴求することは避けるか、あるいは、担保に徴求するにしても、原則として所有者を通じて仮登記の抹消を交渉し、抹消が不可能な場合は担保評価をゼロとして担保に徴求することとしている。

ところが、審査段階において補助参加人Eが作成した信用調査票には、当該仮登記の設定については全く触れられていなかった。

乙原課長は、昭和六〇年四月一七日補助参加人Eに顛末を報告させ、また、法人の代表者に電話して事情をただした。その結果、以下の事情が判明した。

本件審査の面接時において法人代表者は審査担当者である補助参加人Eに、提出した登記簿謄本には載っていないが所有権移転の仮登記が設定されているかもしれない旨話をした。そこで、補助参加人Eは、仮登記が設定されている場合には抹消することを融資の条件とすると説明したところ、法人代表者は、万一仮登記があっても抹消することは可能であると答えた。しかし、その後補助参加人Eから何の話もなかったし、原告から届いた融資決定の通知には仮登記を抹消することが融資の条件に付されていなかったので、法人代表者は、この仮登記抹消の問題はなくなったものと理解していた。一方、補助参加人Eは、この仮登記は契約時までに抹消可能との説明を受けたのみで、信用調査票には記載せず、その際、改めて仮登記の件を法人代表者に確認したり、登記簿謄本で確認することもしなかった。

所有権移転の仮登記の有無は、担保評価及び債権保全上極めて重要なことであり、仮登記の設定の有無を必ず確認すべきである。それをしないで、仮登記が設定されていないことを前提に不動産の評価をして信用調査票等の調書を作成したことは、審査担当者として全く無責任な事務処理といわねばならない。

(4) 自己啓発を怠っていたこと

補助参加人Eが提出する信用調査票には、既に示したとおり不備事項が多く、乙原課長は補助参加人Eに対してその都度指摘しなければならなかった。そのような事態を招いた理由としては、補助参加人Eが日ごろの自己啓発を怠り、そのため、基本的な知識を欠いていたことによるものである。その一例を示すと以下のとおりである。

浜松支店融資課では、審査事務を円滑かつ適正に処理するとの観点から「審査処理の取決め事項」を定めていた。審査担当者にはこの取決め事項を冊子にして配付し、その内容について周知徹底していた。したがって、審査担当者はこの取決め事項に沿って審査事務の処理を進めていかなくてはならない。

昭和六〇年五月二四日、補助参加人Eから製造業者からの申込みについて、設備資金として一三〇〇万円を融資する旨の意見具申があった(本件は(2)の⑥の事例である。)が、「審査処理の取決め事項」では八〇〇万円以上の設備資金の申込みについては、原則として補助票(使途分析票(設備用))を使用して資金使途を分析することになっているにもかかわらず、補助参加人Eは単に通常の信用調査票の資金使途欄を使って資金使途の内容を記載していることから、乙原課長は「再調査等連絡票」に「高額設備の場合、補助票を使用して(設)効果検討のこと」と指摘して投げ返すとともに、併せてその旨を口頭で補助参加人Eに指示した。

ところが、補助参加人Eは乙原課長に「設備資金の金額がいくらから補助票を使用するのか。」と質問してきた。乙原課長が「あなたは取決め事項に定めていることを知らないのか。」と問い返すと、補助参加人Eは平然と「知りません。」と答えた。乙原課長は補助参加人Eに対し、「あなたのようなベテラン職員が審査処理の取決め事項を理解していないようでは困る。あなたはこれまで審査事務を行うに当たって、どのような問題意識をもって取り組んでいたのか。」と注意するとともに、取決め事項における該当箇所を示し、適正に審査事務をすすめるように注意指導した。

(5) 顧客との応対が不適切なこと

補助参加人Eは審査事務において、融資が否決となった申込人からの抗議に対し的確な対応をすることができなかったり、審査を行っている段階で申込人や届出保証人に対して配慮に欠ける対応をとったことが原因で届出保証人から抗議を受けるなど、顧客との対応において適切さを欠くことが多くあった。これについて具体例をあげると以下のとおりである。

ア 浴場業を営む業者から店舗建築資金として借入申込みがあった案件について、補助参加人Eは昭和六〇年五月一五日に申込人と面接し、同年五月一八日に申込人の営業所所在地を実訪し、その後、最初の面接から八日経過した同年五月二三日に再度申込人と面接を行い、同年五月二七日に借入依存の設備投資であり先行の不安が大きいなどとして融資を否決する旨の意見具申を行った。そして、翌日の五月二八日に正式に本案件について融資を否決することが決定され、申込人へその旨の通知がなされた。

融資を否決する旨の通知を受けた申込人は、同年五月二九日浜松支店に来店し、審査担当者である補助参加人Eに対して「融資できない問題点は何か。」、「あなたの話ぶりでは融資に希望が持てるものと思っていた。なぜ、そのような期待を抱かせるいい加減な話をしたのか。」などと苦情を申し立ててきた。

融資を期待していた申込人が、融資を否決された場合にその理由をただしたり、説明を求めたりすることは、ときにあることであるが、その場合、否決の理由を的確に説明するのも審査係の職務である。しかし、補助参加人Eは、このような申入れに対し的確な説明ができず、ほとんど無言といった状態で対応していた。そのため、やむなく乙原課長が補助参加人Eに代わって申込人に説明を行い、納得してもらった。申込人が帰った後、乙原課長は補助参加人Eに対し、「申込人からの苦情に対しては、あなたのようなベテラン職員であれば申込人を納得させるような的確な説明を行うべきである。」と注意した。

イ 建設業を営む法人から車両購入及び外注費の支払等の資金として一〇〇〇万円の借入申込みがあった案件について、補助参加人Eは昭和六〇年九月三〇日に申込法人の代表者と面接した。この法人が申込みに当たって届出してきた保証人予定者は、申込法人の外注先で、代表者の父親とともにタイル工事業を営む法人の経営に当たっていた。ところで、この保証人予定者が経営に関与していた法人は原告と取引があり、その内容は返済が常時遅延しており、昭和六〇年九月時点においても、同法人への融資債権は遅延し未入金口として取り扱われているという状況にあった。

こうしたことから、補助参加人Eは、申込法人が届け出てきた保証人予定者は保証人としては不適当であると判断し、融資するに当たって保証人となる人物を変更することを条件とする旨の意見具申を行ってきた。その後、この申込案件は補助参加人Eの意見具申どおりの内容で融資することが決定した。

ところが、昭和六〇年一〇月七日、右保証人予定者から電話があり、乙原課長が応対したところ、(ア) 昭和六〇年九月三〇日、補助参加人Eは申込法人の代表者と面接した際に、保証人予定者の会社の原告取引に関して、その返済状況がよくないことを申込法人の代表者に漏らした。そのため、今後受注がストップするおそれがある、(イ) 同日、補助参加人Eは申込法人の代表者に右の話をしておきながら保証人予定者のところにも電話をかけて、同人に対して保証意思の確認を行ってきた、といった点を指摘し、なぜ保証人予定者の会社と原告との取引状況を申込法人に漏らしたのか、そのために申込法人との取引に支障が出たら、原告はどのように責任を取るのか、また、保証人予定者が保証人として不適当であることを申込法人の代表者に話しておきながら、なぜ保証意思の確認を行ってきたのかと苦情を申し立ててきた。

乙原課長は右電話の後、直ちに補助参加人Eを自席に呼び、事実関係を確認したところ、右(ア)及び(イ)の事実を認めた。そこで、乙原課長は苦情の相手方に改めて電話をかけ、補助参加人Eの取った行動について謝罪した。

補助参加人Eの言動は原告職員としては初歩的なミスであり、乙原課長は補助参加人Eに対して「今回のような保証人予定者のみならず、申込関係者と原告との取引状況を他の関係者には絶対に話さないこと。」、「保証人としては不適当であると判断していたのであれば、その保証人予定者に対して保証意思の確認をするのは適切でない。」と注意・指導した。

(6) 審査処理実績が低調であったこと

補助参加人Eは、自分から進んで積極的に審査案件を処理しようといった姿勢はほとんどなく、ただ割り当てられた案件のみを処理するだけであった。したがって、補助参加人Eが処理した審査案件の件数は、他の職員に比べても少なく、実績は挙がっていなかった。

具体的に数字をあげると、担当した審査案件のうち申込人または保証人予定者について不動産の有無及び所有不動産の内訳、権利関係の内容等を調査(不動産調査)した件数は、昭和六〇年四月から昭和六一年二月までの一一か月間で、補助参加人Eが七六件であるのに対し、副調査役のP職員が二二三件、副調査役のq職員が一二五件、五等級のr職員が四四一件という状況であった。

次に、実訪を行った件数をみると、昭和六〇年四月から昭和六一年二月までの一一か月間で補助参加人Eが一六四件であるのに対し、P職員が一六二件、q職員が一八二件、r職員が二三一件という状況であった。

補助参加人Eの不動産調査や実訪が少ないことについて、乙原課長は、「審査事務において手抜きをせずに、必要に応じ、不動産調査や実訪を行っていくようにすべきである。」旨、再三にわたり補助参加人Eに対して注意指導を行ったが、補助参加人Eはこれについて姿勢を改めることはなく、昭和六一年三月に岡崎支店へ転出するまで、積極的に不動産調査や実訪を行おうといった姿勢は認められなかった。

(7) 支店全体の業務推進に対する積極的な取組みがなかったこと

浜松支店では、職員がそれぞれの立場で、支店の業務推進に積極的に取り組むことが求められており、その機会は日常の事務処理の中での提言もあれば、ミーティング等での提言等いろいろとある。

しかしながら、補助参加人Eの場合、支店の業務推進に対する積極的な取組み姿勢はほとんどなく、提言や発言を行うこともなかった。

(8) 下級者に対する指導・助言等がなかったこと

補助参加人Eは乙原課長が浜松支店に着任したとき、勤続年数約二〇年のベテラン職員であり、また、四等級になって五年以上経過していた時期でもあった。原告においては四等級職員には後輩に対して助言・指導を行うことが求められる。

しかしながら、補助参加人Eが、下位等級者に業務上の助言を与えるとか、指導をするということはなかった。

(岡崎支店未入金係当時の勤務状況等)

(9) 業務意欲を欠き、指示された督促を怠っていたこと

補助参加人Eは、岡崎支店未入金係当時、未入金口の「非対象口」の債権の管理を担当していたが、この担当職務は、未入金口債権の中でも遅延に陥ったばかりの債権のいわば初動管理であり、遅延原因がそれほど深刻ではない債権であることも多く、その主な事務処理は返済を求めて、督促文書を送付したり、電話をかけるという比較的定型的な事務である。このような「非対象口」の債権管理は迅速かつ効率的に事務を行っていくことが求められている。

支店では、遅延直後の督促に始まり、一定の日数をおいて二回目の督促(二督)、三回目の督促(三督)を繰り返し、このパターンをきちんと実行することによって、弁済をさせようという方針であった。しかし、補助参加人Eは、業務意欲に欠け、このパターンどおりに督促することを怠ることがしばしばあった。

そのため、丙井課長はその都度注意・指導を繰り返していたが、最後まで改善されなかった。

(10) 債権管理の実績が一向に上がらなかったこと

補助参加人Eは、業務意欲に欠け、低調な督促振りであったので、この「非対象口」の債権管理において実績を挙げることのできない状況が続いていた。

補助参加人Eが担当する直前の昭和六〇年度における「進度1」(返済期日を一〇日経過した未入金口債権)の入金率の状況をみると、昭和六〇年度通期では岡崎支店の入金率は、ほぼブロック及び全支店の平均値に近い、70.05パーセントであった。

ところが、補助参加人Eが担当していた昭和六一年四月から昭和六二年九月までの間における岡崎支店の「進度1」の入金率は72.65パーセントであり、ブロック平均に比べ4.01パーセント、全支店平均に比べ5.16パーセントも下回っている。

なお、補助参加人Eが担当替えとなった昭和六二年九月二一日以降については、その直後の昭和六二年一〇月から同年一二月(昭和六二年度第三・四半期)こそ、対ブロック比較でマイナス5.22パーセント、対全支店比較でマイナス4.90パーセントであったが、その後の昭和六三年一月から同年三月(昭和六二年度第四・四半期)には対ブロック比較でマイナス1.71パーセント、対全支店比較でマイナス0.76パーセントとマイナス幅が急速に縮小した。

このように、補助参加人Eが未入金口債権の管理をきちんとしていないこと、その結果「進度1」の入金率が芳しくないことについて、丙井課長は補助参加人Eの担当期間中何度も繰り返し注意・指導したが、補助参加人Eはこれを改善させようとする姿勢をみせずじまいであった。

(11) 端末機のオペレーターキーを返却するのを忘れ持ち帰ってしまったこと

顧客との取引内容の記録等は、支店に設置されている端末機を使用して入出力しているが、この端末機の使用に際してはオペレーターキーという鍵を端末機にセットしなければ入出力させることはできない。オペレーターキーは顧客との取引内容等を端末機を使用して入出力するために重要な物であり、適正に使用されることが求められており、「端末機の役席キー及びオペレーターキー管理規則」において、保管等についても厳格に取り扱うべき旨明記されている。

補助参加人Eは、昭和六一年三月から昭和六二年九月までの期間においてオペレーターキーの指定担当者となっていたが、この間に二度(昭和六一年三月二九日及び同年一〇月一三日)オペレーターキーを総務課長に返還することを怠り、持ち帰ってしまった。二度目の際には、翌日、補助参加人Eがオペレーターキーを返還してきたときに、乙岡次長が補助参加人Eを呼び、オペレーターキーを返還せず店外に持ち出したのはこれで二度目であり、職員として無責任であると厳重に注意し、補助参加人Eに反省を促す意味で今回の件について顛末を文書にまとめ提出させた。

(12) 入金処理を誤ってしまったことが原因で最終的に延滞口に編入となってしまったこと

昭和五九年五月二二日に飲食店を営む業者に対して環衛貸付けの設備資金として一四〇万円(以下「A債権」という。)と二一〇万円(以下「B債権」という。)の計三五〇万円を融資した案件(割賦元金の返済期日はいずれも毎月二五日、割賦元金はA債権が二万円、B債権が三万円)について、A債権は昭和六一年七月二五日返済期日分の入金がなく、未入金口債権となった。B債権については返済に遅滞がない上に一万七六一円の剰余金があることから、補助参加人Eは債務者に対して、A債権の昭和六一年七月分の返済については、B債権に計上されている剰余金一万七六一円を合わせて充当するから、それを差し引いた金額を入金するよう昭和六一年八月六日連絡した。そして、債務者からは同年八月一九日付けで一万五九三六円の送金があった。

ところが、補助参加人Eは回収係に対して、債務者の入金分とB債権に計上されている剰余金一万七六一円を合わせてA債権に充当するとの指示を一切行っていなかった。そのため、同年八月二一日回収係は債務者から送金があった一万五九三六円のみを、A債権に充当する入金処理を行っただけで、B債権に計上されている剰余金をA債権に充当する処理は行われなかった。その結果、債務者から送金のあった一万五九三六円はA債権の割賦元金二万円に満たないことから、昭和六一年七月分の入金とはならず、剰余金として計上されてしまった。そして、この一万五九三六円の未入金処理の記録(ジャーナル)は回収係から未入金係へ回付されたが、入金処理を行った昭和六一年八月二一日は本来の担当者である補助参加人Eがたまたま年次有給休暇を取得し休んでいたため、同じ未入金係の甲寺職員が回収係からジャーナルを受け取った。そして、甲寺職員は受領したジャーナルに基づき、未入金口債権を列挙した帳表である未入金口債権一覧表のA債権の欄に、昭和六一年七月分の入金がされた旨の記載をした。ところが、担当の補助参加人Eがその後この入金処理について全くチェックを行わなかった結果、A債権は昭和六一年七月分の入金がされていないにもかかわらず、未入金口債権一覧表上は昭和六一年七月分が入金済みであるということになってしまった。そして、A債権は次の返済期日である昭和六一年八月二五日において返済がされず、昭和六一年九月末をもって延滞口編入となる、いわゆる対象口の未入金口債権となった。しかし、対象口債権を担当する丙崎職員は、昭和六一年七月分の入金記録があるので昭和六一年九月末には延滞口編入とはならない、すなわち対象口ではないと判断し、債務者に対しては連絡をしなかった。その結果、A債権については未入金係が気付かないまま昭和六一年九月末に延滞口編入となってしまい、このことに未入金係が気付いたのが、延滞口残高一覧表が事務部から送付されてきた同年一〇月四日のことであった。

その結果、A債権についてはその後延滞係の担当者が債務者を訪問し延滞口に編入となった経緯を説明し、了解を得た上で、支払条件の変更を行い、延滞口債権から除外し正常な債権に復するという手順を踏むことを余儀なくされた。

このような事態を招いたのは、補助参加人Eが、A債権の昭和六一年七月分の返済について、回収係に対してB債権計上の剰余金をA債権に振り替えて充当するよう指示をしていなかったこと、かつ、A債権の入金処理結果をチェックすることを怠ったことが主要な原因である。この一連の問題ある事務処理については、昭和六一年一〇月七日、補助参加人E及び関係職員に対して丙井課長から注意するとともに適正な事務処理をするよう指導した。

(13) 管理カードの保管がずさんであったこと

補助参加人Eは、自分が担当する案件の管理カードについて日ごろから極めてずさんな管理をしていた。

昭和六一年八月一三日から一八日まで岡崎支店に対し、本店検査部による検査が行われ、そのうち未入金係に対する検査は一三日から一五日に行われた。なお、これらの日程についてはすべて、前月の七月下旬に検査部から支店あてに通知があり、この検査スケジュールについては職員にも周知していた。また、検査が始まってからでも、補助参加人Eは未入金係検査初日の一三日は平常通り出勤していたので、初日の検査の状況や、一四日以降、未入金口の管理カードを必要に応じて検査官に提示する必要があることは十分承知していた。

一四日の検査当日、補助参加人Eは、始業直前になって電話をかけてきて、微熱が出たとして夏期休暇を申し出て休んでしまった。そのため、補助参加人E担当の案件で、検査官から説明を求められたり、管理カードの提示を求められたときは、他の未入金係が抽出することになったが、補助参加人Eが担当している管理カードの整理は乱雑で、どこにどのような管理カードを保管しているか見当がつかない状況であった。そのため、管理カードを一通り見なければ抽出できないといった事態になり、大変な手間を要した。

丙井課長は翌日に補助参加人Eに対し、いかにみんなが迷惑を被ったかを説明し、日ごろの健康管理に注意すること及び管理カードの保管については、自分が不在の時でもある程度並べ方が分かるようにきちんと管理しておくよう注意・指導した。

(14) 条件変更の報告懈怠

条件変更を実施する際には、貸付金元帳の変更のために、「貸付条件・充当順序の変更等依頼・修正票」に、変更後の返済条件、条件変更の原因、貸付期間の延長の有無、保証人追加の有無などの必要事項を記入する必要がある。しかし、昭和六一年九月二二日、丙井課長が同票を検印していたところ、補助参加人E担当の案件で、貸付期間が延長となるにもかかわらずその記入がなされておらず、また、条件変更原因についての記入が漏れているものがあった。丙井課長は補助参加人Eに即座に注意し、正しい内容を端末機から再入力させた上で、事務処理を的確に行うよう指導した。

(15) 的確な事務処理を行わなかったこと

補助参加人Eは、担当の事務処理について、適正・確実に処理する自覚に欠け、ずさんな処理で済ますことが度々あった。

補助参加人Eは、債務者からの申し出に応じて条件変更を行った案件について、昭和六一年九月二二日、当該管理カードの提出をした。丙井課長がその記事を見たところ、保証人が「六一年一一月から債務者に期日入金させる。」と答えたとの記載になっていたが、利息については六一年九月から開始となっていたので、補助参加人Eに対し、利息の返済開始月について保証人にきちんと説明したか確認した。ところが、元金の返済開始月である一一月のことしか説明していないとのことであり、これでは、保証人に対して返済条件を正確に説明したことにはならないため、丙井課長は補助参加人Eに対し、「元金と利息の返済開始期日が異なることを再度保証人に連絡し、新返済条件についてきちんと説明しておくこと」と、注意・指導した。

(岡崎支店延滞係当時の勤務状況等)

(16) 指示の実行遅延

補助参加人Eは個々の延滞口債権の事務処理において、指示の実行を遅らせることが多くあった。

ア 貸付日昭和五九年七月一九日ほか貸付金額計一〇八〇万円の案件で、昭和六二年八月三一日に債務者、債務者法人代表者及び保証人に対して訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、同年一二月三日まで約二か月半にわたり実行しなかった。

イ 貸付日昭和五六年一二月二二日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年九月四日に債務者及び保証人に対して訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、管理を放置し、実行しなかった(昭和六二年九月二一日から担当)。

ウ〜ス<省略>

(17) 管理の長期放置

補助参加人Eは三か月半という短い期間しか延滞係を担当していなかったにもかかわらず、自分が担当している案件の管理を長期にわたり放置することがあった。

ア 貸付日昭和五九年一〇月三〇日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一八日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

イ 貸付日昭和五二年七月二九日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一七日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

ウ 貸付日昭和五三年一〇月九日ほか貸付金額計五〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一七日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

エ 貸付日昭和五三年三月一〇日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一八日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

(18) 時効のことを考えない事務処理を行ったこと

原告の融資で営業資金の場合の債権については、消滅時効は五年で完成するため、保証人が代位弁済する約束で返済条件の変更を行う場合などには、債務者に対する時効についても、十分注意する必要がある。そのため、こうした場合には、債務者について時効が成立することのないよう、返済期間を五年以内にすることとしていた。補助参加人Eのようなベテラン職員であれば、このようなことは当然理解していなければならないが、補助参加人Eは、昭和六二年一〇月二一日、保証人が代位弁済することを条件に条件変更する案件について、今後の返済期間が五年を超える条件変更を具申してきた。

丙井課長は、補助参加人Eに対し、この案件については時効が完成するおそれがあることを指摘し、返済条件について再検討するよう注意・指導した。

(19) 消極的なマーケティング活動

岡崎支店では、昭和六一年の支店の重点目標に「継続的かつ計画的なマーケティング活動による実効ある融資の展開」と掲げており、全支店的にマーケティング活動に取り組んでいた。補助参加人Eは、このような業務推進活動に対して極めて消極的で、支店全体の足を引っ張っていた。

例えば、昭和六一年九月、原告と取引のある顧客のうち、借入残高が少なくなった顧客に対し、電話による業務推進活動を実施することになり、未入金・延滞係においても、一六日から一九日にかけて電話をすることとし、補助参加人Eを始め未入金・延滞係の職員に対し、各々案件を割り当て、実施結果を報告するよう指示した。ところが、九月一八日になって報告を求めたところ、補助参加人Eだけが全く実施していないことが判明した。そこで、丙井課長は補助参加人Eに対し、直ちに電話をかけ、結果を記録して報告するよう注意・指導した。

(20) 土休変更の件

補助参加人Eは、休日の取得について、支店全体のことを考慮せず、勝手な主張をすることが多くあった。

当時、土曜日については、毎月第二土曜日が固定の休日となっていたほかに、交替制で月に一度休務できることとしていた。この休務に当たっては、職員の要望も聞くが、原則として、原告が業務上の必要性に基づき、前月の二五日に翌月分について指定をしていた。

昭和六二年二月については、補助参加人Eが昭和六二年一月二二日から一月二八日まで病気休暇を取得していたので、補助参加人Eの健康面も考慮し、第一土曜日である二月七日を休日に指定した。ところが、補助参加人Eは二月二日になって突然、七日に指定されている休日を二一日に変更して欲しいと申し出てきた。理由は私用ということで、もし変更してもらえなければ二一日当日は年休を取得するということであった。

もちろん土曜日の年休の取得を認めないということではないが、補助参加人Eが七日に休務するということで既に課内の調整も済ませていたので、仮に補助参加人Eの休務日を変更しないまま、補助参加人Eが二一日に年休を取得すれば、当日、未入金係はだれも出勤しないことになる状況にあった。丙井課長は補助参加人Eにその旨説明し、協力を依頼したが、補助参加人Eは、休務日をどうしても二一日に変更して欲しいというばかりであった。このままでは、二一日の業務に支障が出るため、丙井課長はやむを得ず、補助参加人Eの申出を認め、補助参加人Eの休務日を二一日に変更するとともに、他の職員の休務日を七日に変更し、対応した。

(21) 支店の一人前の戦力になっていなかったこと

岡崎支店当時、補助参加人Eは気管支拡張症による欠務(病気休暇)を繰り返していた。そのため、同支店においては補助参加人Eが休む都度、同人担当の仕事を他の職員に応援させるなどの対応をして、最低限業務が回るよう配慮しなければならなかった。

こうした状況に加えて、補助参加人Eは業務の必要により残業を指示されても、「都合がつかない」とか「今日はちょっと…」とか「体調が良くない」などと言って、これに応じないことがしばしばあった。

先に述べた欠務状況に加え、指示された残業にも応じないという状況にあったところから、補助参加人Eは同支店において一人前の戦力になっておらず、業務上当てにできない存在であった。

(22) 上司に対する補佐や後輩の指導を全く行わなかったこと

補助参加人Eは、昭和六一年四月に副調査役となり、丙井課長としては、担当する事務処理だけではなく、課長や調査役の補佐及び後輩職員に対する指導を積極的に行ってもらうことを期待していたし、またそうした役割を果たすべき立場にあったが、これらの役割を発揮したことは全くなかった。

(23) 業務運営の推進に対して消極的な態度に終始したこと

支店の職員は、担当業務はもちろん、課全体あるいは支店全体における業務推進についても積極的に提言をすることが期待されていた。ましてや副調査役である補助参加人Eにおいては、より一層の積極性が求められていた。

しかし、補助参加人Eの場合、そのような積極的な取組み姿勢はみられず、消極的な姿勢で終始していた。

(一五) 補助参加人Mについて<省略>

(一六) 補助参加人Dについて<省略>

(一七) 補助参加人Hについて<省略>

(一八) 補助参加人Fについて

補助参加人Fは、昭和六〇年から昭和六二年にかけては、同年七月まで豊橋支店、以後は浜松支店に勤務し、右期間の担当事務は、昭和六〇年四月以降同課恩給・契約係を、同年七月以降融資課未入金係を、昭和六一年七月以降同課融資相談・委託業務係であり、さらに、浜松支店においては、総務課恩給係として勤務していたが、右期間における補助参加人Fの勤務状況等は次のとおりである。

(総論)

豊橋支店当時、補助参加人Fは既に経験二〇年を超える職員であった。しかし、その事務処理能力は低く、安心して仕事を任せることができなかった。したがって、比較的定型的で判断的要素の低いものしか担当させられなかった。また、同僚職員の負担となるため、比較的短期間に係替えをしていた。

また、浜松支店当時においても、その経験年数のほか、担当しているのが定型的な恩給担保貸付事務であるにもかかわらず、事務処理上のミスが非常に多い上に、接客態度も不良で顧客からの苦情が多々あり、安心して仕事を任せることができなかった。

(各論)

(豊橋支店当時の勤務状況等)

(1) 恩給・契約係当時の勤務状況

補助参加人Fには、昭和六〇年四月一日から、恩給係と契約係を兼務させることにし、t課長は補助参加人Fに対し、それまで担当していた委託業務と庶務の事務の引継ぎを四月一日までに終了しておくように指示した。しかし、補助参加人Fは、係替えの当日の四月一日になっても残務を完了させることができず、事務の引継ぎを終了することができなかった。そのため、t課長に対し、恩給係と兼務することになっている契約係の仕事は当面できないと申し出てきた。t課長は、補助参加人Fに対し、四月六日までには引継ぎを完了するよう厳しく注意・指導した。

また、その後の補助参加人Fの恩給、契約係における勤務振りについては、業務意欲が低く、かつ処理能力も低いため満足な仕事はできなかった。そのため、契約事務について他の職員の応援で対応せざるを得ないことが度々あり、支店全体の業務遂行に多大な支障を与え、同係職員の負担となっていた。

結局、補助参加人Fを短期間で未入金係に配転することになった。

(2) 未入金係当時の勤務状況

ア 効率的な債権管理ができなかったこと

豊橋支店当時の昭和六〇年七月から昭和六一年三月まで、補助参加人Fには主に「非対象口」の未入金口債権の管理を担当させていた。

「非対象口」の未入金口債権の管理というのは、未入金口債権の中でも遅延に陥ったばかりの債権を対象にするもので、遅延原因もそれほど重大なものではないことが多く、その事務処理は督促の電話をかけたり文書を送付するといった比較的定型的な事務が大半を占めている。したがって、迅速かつ効率的な事務処理を行っていくことが必要である。

しかし、補助参加人Fは、仕事に対する取組み姿勢がおざなりで、業務を迅速かつ効率的に進めていこうとする意欲がなく、度々督促を間延びさせたり、パターンどおり進めることができず、二回目、あるいは三回目の督促を遅らせることが多くあった。また、債務者の約束が不履行の場合でも、債務者へ違約の追及を行わず、放置することも多くあった。

そのため、u課長は、その都度補助参加人Fに対し注意・指導したが、最後まで改まらなかった。

イ 管理カードの作成と役席への回付が遅れたこと

当時、豊橋支店では、貸付けを実行してからまもなく返済遅延が発生し、かつ貸付残高が多いため債権保全について速やかに検討する必要があると判断される未入金口債権を「初期・高額口」として、特に重点的に管理していた。

このような初期・高額口の未入金口債権については、早期に履行遅延の原因を把握するとともに、債務者、保証人の実態や保全の状況を調査して今後の回収の見通しを把握し、速やかに管理カードを作成して、役席に提出の上今後の管理方針等について指示を仰ぐ必要がある。

ところが、補助参加人Fは、こうした早急に対応する必要がある「初期・高額口」の債権について、管理カードの作成を怠り役席への提出を遅らせることがしばしばあった。そのため、u課長は、その都度注意・指導を繰り返していたが、最後まで改善されなかった。

ウ 絶えず他の職員の応援を受けていたこと

未入金事務は、限られた期間の中で効果的な事務処理を行わなければならないので、計画的、効率的に処理を行う必要がある。

しかし、補助参加人Fは、返済交渉等を的確に行うことができず、また、計画的、効率的に処理を進めていこうとする意欲もなかったので、常に担当案件の事務処理が停滞する状況にあった。その上、補助参加人Fは、時間外勤務にほとんど応じないため、結局、補助参加人Fが積み残した仕事は他の係から時間外勤務により応援を受けて処理をせざるを得なかった。

こうしたことから、補助参加人Fが未入金係として従事した昭和六〇年七月から昭和六一年七月までの間に、他の係の担当者が時間外勤務によって応援した時間は、延べ五〇人で八五時間にも及んだ。

エ 無責任な勤務態度

補助参加人Fの責任感のない仕事振りについて具体例を挙げると、昭和六一年四月、u課長と調査役、未入金係の補助参加人Fとv副調査役の計四名で、「未入金口対象口検討会」を開催した。この検討会は、各担当者の事務処理の進行具合を確認し、また、個別の案件についての対応などを協議する目的で毎月開催していたものである。

補助参加人Fには昭和六一年四月から「対象口」の一部を担当させており、そこで、昭和六一年四月二五日の「未入金口対象口検討会」で補助参加人Fの担当案件について検討したところ、返済交渉の不十分なものが多く認められ、u課長は席上補助参加人Fに注意・指導した。

また、u課長は、その場でこれらの交渉の不十分な債権について二八日に交渉を詰めることを指示した。しかし、補助参加人Fは、二八日に都合があるといって超勤を拒否して帰ってしまった。やむを得ず、もう一名の未入金係であるv副調査役と他の係の職員一名が二時間の時間外勤務で債務者との交渉を詰める仕事をせざるを得なかった。

このように、補助参加人Fの仕事の不始末を支店全体でカバーするために、他の職員の時間や労力を割かれることで、他の職員の業務に支障が生じていた。また、補助参加人Fの責任感の欠落や協調性のない態度が他の職員の勤務意欲に水を差し、職場におけるモラール面からも問題のある勤務振りであった。

(3) 融資相談係当時の勤務状況

ア 顧客への対応に問題があったこと

融資相談係の主な職務は、顧客の融資に関する相談に応じ融資対象としての適格性等を検討し、顧客に対し適切な指導を行うことのほか、顧客からの借入申込みの受付事務を行うことである。

当時ベテラン職員であった補助参加人Fは、接客面において他の職員の模範となるよう努めるべきであるが、実態はその逆で、顧客との接遇に丁寧さを欠き、多くの顧客から不興を買っていた。

例えば、昭和六一年九月八日、豊橋支店管内のw商工会の関係者からu課長あてに電話で、「先程、当商工会が融資の申込みを取り次いだ案件について進行状況を電話で照会したが、電話に出た女性の応対が非常に無礼で、原告の職員とは思えないものであった。応対した職員はだれか。」と抗議があった。

u課長が、融資相談係の補助参加人Fに確かめたところ、w商工会からの照会を受けたことを認めたので、u課長は「あなたの電話での応対で商工会から苦情がきている。日ごろから商工会の職員やお客様には丁寧に応対すること」と注意・指導した。

イ 秘密保持の配慮が欠けていたこと

原告職員は、顧客の秘密保持に留意しなければならないことはいうまでもない。融資相談係もその職務の性質から、顧客から事業内容等の情報を得る機会が多く、秘密保持には一層留意する必要がある。

ところが、補助参加人Fにはこのような配慮が欠けており、その都度u課長が注意・指導したが、改まることはなかった。その一例を述べると、昭和六一年九月一八日、補助参加人Fは融資相談の窓口で顧客が目の前にいるにもかかわらず、代理店からの既往取引照会に対し、その場で電話による回答を行っていた。

右既往取引照会というのは、民間の金融機関が業務委託契約に基づき原告業務の一部を行うに当たって、顧客の取引状況等の情報を原告に照会してくるものである。原告が回答するに当たっては、顧客の取引状況等に関わる内容であるので、相手が代理店の者であることを確認するため一旦電話を切ってから折り返し架電するなど慎重を期し、さらには、窓口に来店した顧客に内容が聞こえないように後方に下がって電話をするなどの配慮が必要である。ところが、補助参加人Fは秘密保持への配慮が全くなかったため、そのとき顧客の目の前で電話をしていた。そのため、u課長が、電話のやり取りは顧客から離れた所で行うよう注意・指導した。

ウ 業務推進活動に対する取組みが消極的であったこと

豊橋支店では、本店の方針を受けて、昭和六一年度の支店重点目標の一つに「全店的取組の継続的かつ計画的なマーケティング活動の推進」を掲げ、原告の融資制度の周知等の業務を推進していた。

融資相談係は、こうした周知活動の中心的な役割を担っていたが、補助参加人Fは、率先して取り組む姿勢を示さず、そのためスケジュールどおりに業務を推進できず、支店全体としての取組みが遅延するなどの支障を来していた。

(ア) 貸付金残高が減少している顧客と、原告を未利用の企業に対してダイレクトメールを送付するため、昭和六一年九月二日、u課長は補助参加人Fに対してダイレクトメールの文書を立案するように指示した。ところが、補助参加人Fから九月八日になっても報告がなかったので、改めて、u課長は「ダイレクトメールの文書の立案を指示してから四日も経つ。急ぐように。」と指示した。しかし、補助参加人Fは速やかに実行せず、結局、補助参加人Fが報告をしてきたのは、同年九月一七日のことで、当初の指示から二週間も後のことであった。

(イ) 昭和六一年九月三〇日には、ダイレクトメールを発送することとし、全店的に時間外勤務で対応することとしていた。融資相談係の補助参加人Fは率先して取り組むべき作業であったが、同日の時間外勤務に応じず帰ってしまった。

(ウ) 原告が周知活動を行う業者団体等には、税理士事務所も含まれている。これは税理士が抱えている関与先の中で、資金需要のある企業に対しては、税理士を通じて原告の融資制度を周知してもらう目的によるものである。

昭和六一年一〇月四日に、税理士に対して年末資金の申込みの取次ぎを依頼するため、u課長が補助参加人Fに、この周知依頼文を立案するよう指示したところ、補助参加人Fは「来週一杯は委託業務も含めて手一杯なので再来週にしてほしい。」と発言してきた。結局、提出があったのは一〇月二〇日になってからであり、そのため周知文の発送は予定より大きく遅れることとなった。

(エ) 昭和六一年一〇月二七日に、u課長は補助参加人Fに対して、立案の遅れから予定よりも大分遅れることとなった税理士あて周知依頼文二〇〇通と、完済後取引が途絶えている顧客あてのダイレクトメール二七通を早急に発送するよう指示した。しかし、補助参加人Fは、今手が一杯で忙しいと口実を構えて実行しなかった。やむなく完済後の顧客あてのダイレクトメールは翌日u課長が自ら行い、税理士あてのダイレクトメールは一〇月二九日に補助参加人Fに再度指示をして、実行させた。

(オ) ダイレクトメールを発送した場合、資金需要の有無等について、後日、分担して顧客あて電話でフォローしていた。u課長は、昭和六一年一一月七日に、補助参加人Fに対して電話によるフォロー作業を分担するよう指示した。また、これと併せて、進学貸付けの周知ポスターを関係団体あて発送するよう指示した。ところが、補助参加人Fはu課長に対し「いろいろやることが多くて手が回らない。」と言い訳をするため、u課長が「周知活動の中心的役割を果たすべき融資相談係のあなたが、手が回らないとはどういうことか。」と注意した。

(4) 代理店協議会の報告書の提出遅延

原告では、民間の金融機関と業務委託契約を締結し、代理店として原告業務の一部を委託しているが、この委託業務の取次ぎ事務を行う取次店との間で代理店協議会を開催している。

この代理店協議会は、委託業務についての原告の方針を伝達すること、研修または意見の交換を行うこと、各代理店における業務取扱いの調整と相互の意思疎通を図ることを目的に、支店長が原則として年に一回開催するものである。双方の事務担当者も出席して、事務を適正かつ円滑に進める上での問題点等について意見交換を行うなど、原告の業務遂行上有意義な会議である。

豊橋支店では、昭和六一年一〇月二四日に、右代理店協議会を開催した。同協議会には委託業務係の補助参加人Fも出席しており、同協議会の終了後、議事内容や意見交換の概要等を支店長あてに文書で速やかに報告することになっていた。しかし、いつになっても補助参加人Fから報告書が提出されないため、一〇日以上経過した一一月六日、x課長は早急に提出するよう指示した。しかし、この指示に対して補助参加人Fは、「時間中はやることが多くて。」とぼやいて開き直り、結局その後大幅に遅れて提出してきた。

(5) 業務概況の作成の遅延

当時豊橋支店においては、定期的に支店の「業務概況」を作成し、管内の概況や業務の概況などを取りまとめていた。そこで、x課長は昭和六一年八月二八日補助参加人Fに対して、「業務概況」に掲載するため、「代理店の現状」についてまとめて、九月二日までに提出するよう指示した。しかし、期限になっても補助参加人Fは指示された「代理店の現状」を提出しなかった。補助参加人Fに作成を指示した「代理店の現状」は、管内の五代理店の委託業務貸付残高、業務区域などを決まった書式に記入するだけのことであり、作成に手間がかかるということはない。x課長が至急提出するよう注意したところ、補助参加人Fは、翌日の九月三日になって提出してきた。

(6) 支店の一人前の戦力になっていなかったこと

当時、補助参加人Fは頸肩腕症候群により長年にわたって通院治療を続けており、豊橋支店においても、病気休暇を原則として毎月一回は全一日、また毎週一回は午後三時以降二時間取得していた。そのため、日常の勤務は大幅に制限されており、時間外勤務も最低限の範囲でしか命じ得ない状況であった。

こうした勤務振りと相まって補助参加人Fの勤務意欲は低く、また、原告が業務上の必要に基づき、最低限の範囲の時間外勤務を命じた場合でも、補助参加人Fはなにかと口実を構えて、応じなかった。

こういう状況にあったので、補助参加人Fは支店において一人前の戦力になっておらず、業務面では当てにできない存在であった。

(7) 後輩に対する指導がなかったこと

補助参加人Fは四等級の職員であり、後輩の仕事の面倒をみたり、あるいは指導したりして、一定の役割を果たすべき立場にあったが、補助参加人Fは自分の担当業務でさえきちんと処理できない状況にあり、後輩職員の指導を行うようなことは全くなかった。

(8) 自己啓発についての努力が全くみられなかったこと

補助参加人Fは、担当職務の遂行に当たって、自己研さんに努め自己の能力を高めていこうとする意欲が見られず、自己啓発の努力を怠っていた。すなわち、同人は、日ごろから原告の規程や専門書を読んで職務に習熟し、専門知識を身に付けようとする姿勢がなく、そのため事務処理能力や専門知識は低いままであった。

(9) 支店全体の業務推進に対する積極的な取組みがなかったこと

豊橋支店では、職員がそれぞれの立場で、支店の業務推進に積極的に取り組むことが期待されていたが、補助参加人Fはそうした姿勢はほとんどなく、日常の事務処理過程で提言を行うことや、課のミーティングなどで提言を行うことはなかった。

(10) 岡崎支店での抗議行動の件

昭和六一年九月二四日、補助参加人Fは他支店の職員や外部支援者と共に岡崎支店へ押しかけ、補助参加人Eの転勤の件で同支店店頭でビラを配布した上支店内に立ち入って支店長への面会を強要し、面会を断られると約四五分にわたって騒ぎ立て、支店の業務運営に重大な支障を引き起こした。

このため、y支店長は、翌日出勤した補助参加人Fに対して、「あなたが昨日岡崎支店で取った行為は、原告の業務運営上、また職場秩序を維持する観点から問題であり、原告の職員としてあるまじき行為といわざるを得ない。今後繰り返さないよう注意する。」と注意した。ところが、補助参加人Fは、「二度と同じ行動をとらないという訳にはいかない。」などと発言して反省の態度を示さなかった。

(浜松支店当時の勤務状況等)

(11) 単純なミスを繰り返し、一向に改善されなかったこと

補助参加人Fは、前任の豊橋支店で恩給係の経験があるにもかかわらず、注意力が散漫な上自分の事務処理を慎重に再点検することを怠るため、以下のとおり事務処理上のミスを度々繰り返していた。

ア 前述のとおり、貸付報告書の作成にあたっては、正確なデータを事務センターあてに報告しないと事後に多大な支障が生じるため、誤記入等がないように十分注意する必要がある。しかし、補助参加人Fは、注意力が散漫で雑な事務処理を行っており、報告区分欄の未記入や既往取引分の貸付番号の誤記入といったミスを度々起こしていた。一例として、共済年金等の支給期である昭和六二年八月について誤記入の件数を述べると、八月四日に一件、同月二一日に一件、同月二四日に三件といった状況であった。

その都度、担当課長や次長から注意・指導したが、補助参加人Fは無反省にその後も同様の誤記入を繰り返した。

イ 保証人の保証能力を判断する際、原告との取引があればその取引状況が審査に当たっての有力な判断材料になるため、浜松支店では原告取引の有無をコンピューターの端末で照会するように取り決めていた。しかし、補助参加人Fはこれを度々怠っていた。昭和六二年八月五日にも、補助参加人Fはこれを怠り、貸し付けるとの意見具申をしてきた。そこで、z課長が保証人の原告取引の有無を照会するよう指示したところ、当該保証人については原告の既往取引が遅延していることが判明した。同課長は補助参加人Fに対し、保証人については必ず原告取引の有無を照会するよう注意・指導した。

ウ 恩給係は、申込みのあった案件について審査を実施し、貸し付ける旨の意見具申を行う場合、借入申込書にある処理欄に、貸付番号、貸付日、貸付利率等を記入し、担当者印を押してから課長に回付して決裁を受けることになる。しかし、補助参加人Fは、注意力が散漫で、処理欄の記入もれや誤記入といった不備のまま決裁に回付することがしばしばあった。一例として、国の恩給の支給期である昭和六二年一〇月の不備件数について述べると、同月八日に三件、同月一二日に二件、同月二六日に六件といった状況であった。

(12) 他の係との連携を怠っていたこと

恩給担保貸付けの借入れを申し込む顧客の中には、別途、事業資金として原告の普通貸付けを利用している場合もある。このような場合、債務者は窓口に来店するわけであり、未入金係とすれば債務者と交渉することができる良い機会である。したがって、恩給係は未入金係に申込みがあった旨の情報を提供するなど、連携して債権管理に取り組む必要がある。

しかし、補助参加人Fは、未入金係を経験したことがあるにもかかわらず、債権管理に対する認識が低く問題意識もないため、こうした未入金係との連携を怠ることが度々あった。そのため、z課長は、昭和六二年八月五日と同年一〇月八日に、補助参加人Fに対し、申込者の普通貸付けが未入金口となっている場合は必ず未入金係と連携し、債権管理に十分留意するようにと注意・指導した。しかし、その後も連携を怠ることが度々あった。

(13) 重要書類を放置したこと

恩給担保貸付けは、受給者が死亡するなど何らかの事由で受給権が失権した場合、担保とした恩給等の支給金を原告が顧客に代わって受け取ることができなくなるため、事故口債権として管理を行うことになる。事故口債権になると、管理カード基本票を作成し、貸付金元帳などの書類とともに保管することになる。

しかし、補助参加人Fは、昭和六二年八月七日、このような事故口関係の書類の保管を怠り、机上に放置したまま帰宅した。このため、z課長は、補助参加人Fに対して、責任を持って保管するよう注意・指導した。

(14) 事務処理が遅く度々応援を受けていたこと

国や共済組合などから支給される恩給や共済年金等については、それぞれ支給期が年に四回定められている。この支給期になると、借入れを希望する顧客が増え、処理件数が増加することになる。恩給係としては、意欲をもって、かつ効率的に事務処理を進め、円滑な事務処理を行って、顧客に迷惑をかけないように努める必要がある。それでも間に合わない場合には、他係の応援を依頼して処理することになる。

しかし、補助参加人Fは、事務処理に対する取組み姿勢が消極的で、かつ手が遅いため、事務処理に手間取るのが常であった。そのため、自然と窓口で待機させられる顧客が増え、他の係が応援を余儀なくされることが度々あった。例えば、昭和六二年一〇月(国の恩給の支給期)についてみてみると、月間の貸付件数が一〇二件のうち応援で処理した件数は三三件と三割を超えており、さらに、このうち一〇月六日から一〇月八日までの三日間については、三二件の貸付けのうち半分の一六件を応援で処理せざるを得なかった。

こうしたことが度々あったため、z課長は補助参加人Fに対して、仕事に対して積極的に取り組み、また、効率的な事務処理を心掛けるよう繰り返し注意・指導したが、補助参加人Fは一向に改善する姿勢を示さなかった。

(15) 窓口での応対が悪く顧客からの苦情があったこと

補助参加人Fは、窓口での顧客に対する対応に丁寧さを欠き、顧客の不興を買っていた。

ア 昭和六二年八月三日、恩給担保貸付けを受けている顧客から、憤慨した口調で電話があった。z課長が対応したところ、顧客は、「九時過ぎに来店し窓口で借入れ相談をした。Fという職員はベテランに見えたが対応が悪い。言葉使いもいんぎんで失礼である。十分注意・指導してもらいたい。」と申し入れた。

四日後の八月七日に当該顧客は書類を持参して来店し、応対した同課長に、補助参加人Fはぶっきらぼうで丁寧さがない、ベテランと見受けるがてきぱきと事務処理をしてくれず客を待たせる、親切さがなく、客の話を親身に聞いてくれないと指摘した。

壬田支店長は同課長から報告を受け、補助参加人Fに対して、顧客に対して丁寧な応対を心掛けるよう注意した。

イ 昭和六二年一〇月一二日、借入れの相談に来店した顧客から、補助参加人Fの対応が丁寧さに欠け不親切であるとの苦情があった。

z課長は補助参加人Fに対し、「八月にもお客様とのトラブルが発生し、課長の面談で解決したことがある。本日も同様で遺憾である。客の応対が悪い。」と注意した。

(16) 後輩に対する指導がなかったこと

補助参加人Fは、本来であればベテランの職員であり、後輩の指導に率先してあたるべきであるが、そうした姿勢は全くみせず、後輩職員に対して指導を行うということは一切なかった。

(17) 支店全体の業務推進に消極的な姿勢が目立ったこと

支店の職員は担当業務はもちろん、支店全体の業務推進に関しても積極的に取り組むことが期待されている。その機会は日常の事務処理過程での提言もあれば、各種会議などでの提言等いくらでもある。

しかし、補助参加人Fは、支店の業務推進に対する意欲的・積極的な取組みを行うことはなく、また、発言や提言等の機会があっても、積極的に発言したり、提言したりすることはなかった。

(一九) 補助参加人Pについて<省略>

二  被告の主張

1  除斥期間について

役職位の任用や毎年の等級号俸の決定は、その都度一回限りの行為であるとしても、ある年に、組合活動を理由に役職位や等級号俸について差別を受けたときは、その翌年にもその影響が及ぶことは多言を要しないところであり、不当に低位におかれた不利益は完全に是正されるまでその後も継続する。労組法二七条二項の「継続する行為」というべき本件差別にあっては、その差別意思が認められる限り、かつ救済申立ての限度において、原告の行為を不当労働行為と認定するに何の支障もない。

また、本件において、原告の行為を「継続する行為」と認定して救済を命ずるのでなければ、著しく権衡を失することになる。すなわち、補助参加人らのうちには苦情処理機関に苦情を申し立てた者もあり、原告がこれに回答せず、差別を是正することなく時日を経過すれば、原告の主張によるときは、画一的に除斥期間を徒過することとなり、苦情処理機関における審議が長引けばこれまた同様の結果となるのである。

2  補助参加人らに対する不当労働行為が成立することについて(本件命令の正当性)

(一) 補助参加人らの組合活動と原告の見方について

(1) 組合主流派としての活動と原告の見方

国金労は、昭和三七年五月に政労協に加盟し、昭和三九年五月の大会では「みんなが闘う組合へ」を標ぼうして、同年一二月にはストライキを実施した。その後も、昭和四〇年に提案された新給与制度に反発し、補助参加人Kを執行委員長とする執行部のもとに職務給反対闘争をし、続いて昭和四二年七月に成立した環衛公庫法に危機感を抱き、同法に基づく環衛公庫の新設に抵抗して「環衛公庫設置拒否闘争」に取り組み、昭和四四年一一月のスト中止問題等についても、昭和四五年二月には、被告に不当労働行為の申立てを行った。

このような組合の活発な行動に対し、労務担当理事は「国金労は『斗う組合』を宣言し、急速に先鋭化し、政労協の先頭に立って行動するようになった…」という危機感を抱き、昭和四八年二月に補助参加人武田を執行委員長とする執行部が成立した際にも、原告の人事部長や総括室が各支店あてに、「『本部指令に無批判に従う』という支部体質を放置することなく、これを改善していく必要がある…」とか「執行部盲従の支部体質は極めて危険…」であるとの認識を示した。そして、原告は、国金労を以上のように把握した上で、前記労務担当理事が「執拗に管理者教育を繰り返し…組合に対する強力な批判層が生まれ、…ついには組合執行部の指示に盲従することはなくなり…」と指摘し、人事部や総括室も、各支店に「良識ある職員」の育成・拡充と、支部役員などに「良識層」が進出するよう配慮を求めていた。

以上からすれば、この当時原告は、補助参加人KやAが本部執行委員長として国金労を率いていたころの組合の闘争や姿勢を嫌悪し、まず、支部の実情を把握した上で、本部に対する強力な批判層の育成に努めていたものと推認される。

(2) いわゆる「企業告発型」の闘争と原告の見方

補助参加人Qらが副委員長などの本部役員であった昭和四九年には、六年振りにストライキが実施され、また、業務のオンライン化に伴う勤務体制の変更についての労使のあつれきもあった。

そして、このころから原告では、頸肩腕症候群問題が表面化し、補助参加人Dが、同年一〇月にこの疾病を理由として労災申請を行ったのを皮切りに、昭和五〇年及び昭和五一年に札幌と津で同様の労災申請が行われ、国金労も、本部レベルでは、Dの事件について意見書を出したり、これらの闘争を支援する旨機関紙で訴えており、補助参加人Gや同Rらも各支部で、支援組織を作ったり、ビラ配布や署名活動などの支援闘争に積極的に参加した。しかし、この闘争は、札幌や津でみられるように支部の段階では組織的な支持をえるには至らなかった。

次いで、昭和五〇年から、国金労は、職員の増員を求める「人増闘争」を開始し、昭和五三年の国会では、これに関連して「持ち帰り労働」も議論となり、その是正を求める付帯決議も採択されるという成果もあったが、この闘争で取り組まれた「人増ビラ」まきには、支部によっては組織的な対応を行わないところも出ていた。

このころの労働組合の動向について、人事部給与課長は、昭和五二年の業務関係課長会議において、「国金労(は)、労災認定闘争…においてみられた社会党代議士による圧力、人増ビラに見られる特定政党との結びつき等企業外での運動を志向し企業告発型姿勢が強い。一方、組合内部からも健全な考え方が育っており、本部は弱体化した組織の建て直しに…力を入れている…(が)現在の経済環境における労組のあり方について反省の色がない。」と分析し、各支店での若手職員に対する組合活動に関する職制の指導の実態も報告した。また、鹿児島支店長は、昭和五三年一〇月の「労働組合カ―ド」により人事部あてに、昭和五二年度の支部執行部について、「…この間、副調査役は…良識者の拡大を組織的に進め…遂に…良識層による支部体制を固めた」と報告している。

このように、このころの国金労の支部レベルでは、原告が「企業告発型」と危険視していた「労災支援闘争」や「人増ビラ」まきにおける対応のように、必ずしもその闘争に追随しないところも出始めて、本部の指令に盲従しない体質になりつつあったのであって、原告側もこの事態に強い関心を持ち、その変化を歓迎していたことが明らかである。

(3) 組合反主流派となってからの活動と原告の見方

右のとおり、国金労の支部レベルでは、次第に本部の「企業告発型」闘争に批判的な「良識層(派)」が進出するようになり、昭和五五年一〇月に開催された国金労第五〇回定期大会では、補助参加人Aらから「(労使協調路線は、)『使用者追従路線』にほかならず…」との指摘もあったが、結局「現実的で柔軟な労使協調に基づく運動(労使協調路線)」が採択され、補助参加人らは、いわゆる「反主流派」的な立場に立たされることになった。

補助参加人Bや同Kらは、このように国金労が本部としても路線変更するような情勢を懸念し、昭和五三年九月には「全国活動者集会(全国活会)」を結成するに至り、補助参加人ら全員がその会員となった。

同会は、昭和五四年には前記の労災認定闘争の支援を論議し、その闘争を総括するなど、事実上この運動の母体であったと認められ、昭和五五年度の昇格に係る補助参加人Fや同PらのC評価問題についても、「Fらを支援する会」の事務局を作るなど、同会を組織的に支えるとともに、ビラ配布活動に取り組み、昭和五七年にも、津山支店で生じた頸肩腕症候群り病者の職場復帰問題についても、全国活会は「支援する会」を組織し、やはりビラ配布や小冊子を発刊する闘争を行った。

さらに、同会は、原告の抱える経営上、業務上の問題点や対策を訴えるパンフの刊行を決定し、それは昭和六〇年一月には「どこへゆく国民公庫」という冊子を発刊した。

このような、全国活会に結集してからの補助参加人らの「反主流派」としての活動について、原告は、昭和五六年五月の管理事務担当課長会議では、組合が「…労使協調路線を決定し、支部の体制も良が六〇パーセントを占めており」と歓迎しつつも、「支援する会のような一部偏向分子の活動もみられ(る)…」とか、昭和五八年六月ころの某支店の実地検査でも、支部の状況について、「良識ある職員がリードしているが、権利意識の強いグループが存在しており…」と分析して、労使協調路線に従わない動きを懸念していた。

なお、原告がここでその動向に注目していた「支援する会」とは、このころ、国金労本部との団交で、原告側が「Fらを支援する会」に言及し、その実態を原告自ら把握する旨組合に通告していたことをかんがみれば、上記のように補助参加人ら全国活会が支持していたこの「Fらを支援する会」のことであったとみて相違なく、この時点で原告は、対外的な連絡員がEであることもあり、補助参加人らの関与を知悉し、上記のようにその支援行動を嫌悪していたとみるのが相当である。

全国活会は、昭和五九年に至り、補助参加人Aらの連名で原告から提案のあった賃金体系の変更に反対するリーフレットを作成、配布したが、同人らは、この中で、同一等級での逓減制の採用による中高年層の賃金への悪影響を、当時組合が要求していた大卒三三歳で副調査役、三八歳で調査役としたモデルで比較計算するなどして訴えた。

同年七月には、「不当差別の一掃や中小企業の尊重」を目的に「発展会」を正式に発足させるとともに、原告総裁あてに「昇格や任用の是正」などの申入れやビラ配布などの行動を行い、翌昭和六〇年七月にも、課長職や調査役らへの超勤未支給問題の追及等と併せて、不当差別是正の回答を原告に求めた。

これに対し、原告は、ブロック管理課長会議を通じて、人事給与制度の改定提案ついては「旧体質派は説得に応じることはな(く)、…問題のある職員は塩漬けにして多数をとり、早期妥結の声を本部にあげるようにして欲しい」として、原告の施策に反対する補助参加人らを、処遇面においていわばみせしめ的な意味で「塩漬け」にし、新制度に関して労使合意がなるような職場(組合)環境を作るように各支店に指示したものと認められる。

(4) 各支部等における補助参加人らの組合活動等

ア 補助参加人Kは、昭和三〇年に入庫して以降国金労本部役員を歴任し、「職務給反対闘争」や「環衛公庫設置拒否闘争」を指導する一方で、昭和三九年には政労協の副議長となり、昭和四六年以降も仙台支部においても人権擁護闘争に積極的に関与し、後には、補助参加人らを糾合した全国活会や発展会の結成と、それを母体とした運動に深く関与した。

こうした補助参加人Kの組合活動について、仙台支店の支店長が、「私は、これから不当労働行為をやります。…」と言った上で、労働運動をやめなければ三等級昇格にかかる推薦ができないと言ったこと、昭和五一年に補助参加人Kが転勤を希望した際に、人事当局が「影響力が大きいので絶対に(東京には)帰さない」との意向を表明したこと、これらのことは、原告が、補助参加人Kの組合活動、組合員資格喪失後(調査役昇格後)のオンライン化問題に対する同人の言動、全国活会や発展会への関与等に照らし、補助参加人らの組合活動に対する影響力を嫌悪してなされたものと認められる。

そのことは、昭和五三年三月に、八幡支店長が補助参加人Qに「Kを三等級の調査役にしたのは、…間違いだった」と語ったり、昭和五九年ころにも、浜松支店長が補助参加人Hに対し、補助参加人Kに色々相談し過ぎることが昇格できない理由である旨言ったことに裏付けられ、さらに、平成三年一〇月には、元労務担当理事が、「Kをクビにしようとしたが、うまくいかなかった。」と述懐したことに表われているというべきである。

イ 補助参加人Aは、昭和四八年に国金労本部執行委員長に就任し、それまでの「職務給闘争」や「環衛公庫設置拒否闘争」などの運動を評価し、また、各支店長に国金労支部に対する不当な干渉を行わないよう申し入れるなどの行動を指導した。

昭和五一年同人が転勤する際に、福岡支店の審査課長は、補助参加人Aに対し、「労働組合を卒業して、一つ頑張ってみてはどうですか。」と言ったこと、同人の赴任先の松山支店の次長は、同じく補助参加人Aに対し、「組合、組合って、若い者と一緒にやるような時期じゃもうないだろう。」と同人を諭したこと、昭和五五年の定期大会最中に労務担当理事が支店を訪れ、労働組合についての補助参加人Aの考え方を本人を目の前にして公然と非難したこと、以上の事実は、この理事らが補助参加人Aの組合活動を嫌悪していたことの表明であったと認められる。

ウ 補助参加人Jは、入庫して間もなく国金労仙台支部において書記長などの役員として、昭和四一年のストライキを巡って支店側と厳しいやりとりを経験した後、昭和五二年からは国金労本部の副委員長の職に就き、「人増闘争」における「人増ビラ入れ」や国会請願行動に取り組み、その成果として「持ち帰り労働」の禁止が国会で決議され、これを受けて原告も対応策を講じるに至った。

補助参加人Jは、全国活会に参加した後も、原告の賃金体系の変更の提案を批判し、補助参加人Aらとともに、中高年層への悪影響を訴えるなどした。

昭和五三年ころ、戊崎支店長は、補助参加人Jに対して、「公庫の方を向いて仕事をしなさい。」と言ったこと、昭和五七年、Z支店長は、同じく補助参加人Jに対して、「お前は、反体制派だ…国会闘争なんかして、公庫に大変な迷惑を掛けた。」などと言ったこと、以上の発言は、同人の組合活動が原告の意に沿わないとの嫌悪感を表明したものと認められる。

エ 補助参加人Oは、昭和三九年に入庫した後、国金労福岡支部では委員長を始め各種役員を歴任し、原潜阻止闘争やストライキの先頭に立ち、昭和四九年からの中国地協事務局時においても、集会妨害問題や配転問題で国金労松江支部を指導し、昭和五一年以降は、国金労久留米支部に在籍し、役員にはならなかったが、メーデー参加問題ついては、補助参加人Pら青婦人部の立場を支持していた。

補助参加人Oは、昭和五七年に開催された国金労定期大会の代議員であったが、昭和五七年一〇月ころ、佐世保支店次長は、同大会出席前の補助参加人Oに対して、「支店長から君を調査役に推薦しようかとの話があったが、…様子を見てみましょうと言っておいた。」と言い、また、同大会後には、「これで昇格の道がなくなった。」と言ったのであって、同次長のこのような発言は、庚沼の組合活動を嫌い、この組合大会では、昇格をえさに原告の意をくむ態度をとるように迫る意図に基づいてなされたものと認められる。

オ 補助参加人Rは、昭和四五年ころから本部役員として頸肩腕症候群等の職場の健康問題に取り組み、国金労沼津支部においても、津支店での同症候群にかかる労災申請を支援する運動を活発に行い、全国活会参加後も、その議論を踏まえ、昭和五七年には、補助参加人Cらとともに上記労災申請の再審査にあたり代理人として意見書を提出した。

昭和五二年ころ、沼津支店長は津支店でのオルグを終えてきた補助参加人Rに対して、「そういうところで色々言うから有名人になりすぎる。」とか、転勤に当たり、「お前は、あまり有名人になりすぎている。考え方を少し変えたらどうだ。」と言ったが、これは、同人の労災支援活動に対してあからさまに嫌悪の情を示したものと認められる。

カ 補助参加人Gは、入庫直後から国金労札幌支部で支部委員として活動したり、職場新聞の編集に携わっていたが、昭和四七年からは北海道地協の事務局長として職業病問題などに積極的に取り組み、昭和四八年春には「ちから」紙上に「人増闘争」や「健康問題」等について、原告理事者に代わり労働組合が主体的に政策を出すよう訴え、これを知った支店長から「人事部からも注意があった。…今後のためにならない」と警告されることがあった。

また、昭和五〇年一月の同支部組合員らの頸肩腕症候群による労災認定闘争に関して「励ます会」を組織したり、同年に国金労本部役員になってからも再審査の代理人になるなど、一貫してこの闘争に取り組み、昭和五四年以降は、全国活会に参加して津支部での労災認定闘争の再審査代理人となったり、昭和五五年の国金労定期大会に向け、「労使協調路線」を批判し、昭和五九年には「新給与制度」についてもリーフレットを発刊して問題点を指摘するなど引き続き積極的な活動を行った。

補助参加人Gは昭和五二年一一月に本部役員を降りて北海道地協に復帰し、札幌支店での頸肩腕症候群闘争の継続のためもあって同支店での残留を希望していたが、これに関連して、翌昭和五三年の人事異動を前に、労務担当理事が補助参加人Gに対し、「飛ばしてやる。」と言い、人事部の特命調査役も補助参加人Gに対し、「今回の転勤は、組合中心の考え方から業務中心の考え方に改める良いチャンスだ。」と説得したことは、同理事らが、補助参加人Gの組合活動を嫌い、活動から同人を遠ざけることを意図し、かつ、転勤を機に組合活動からいわば「足を洗う」よう迫ったものと認められる。

キ 補助参加人Nは、昭和四一年に入庫した後、国金労京都支部及び同武生支部で役員を経験し、支店側の施設利用の制限を批判したり、女子職員の超過勤務問題で支店とわたり合うこともあったが、昭和五五年からは全国活会へ参加し、引続き発展会の会員となった。

昭和五二年には、武生支店長が補助参加人Nに対し、「人生色んな生き方がある…出世を求めない生き方もある」と、組合活動が出世の妨げになる旨言ったり、昭和五七年には、宇都宮支店の課長が補助参加人Nに対し、「労働組合、相当頑張っているようだけれども、若い者をあまり教育しないでもらいたい」旨求めたことは、同支店長らがNの組合活動等を嫌い、それが昇格に響くことがあることを示唆する意図でなされたものと認められる。

ク 補助参加人Lは、昭和五三年に入庫した後、国金労守口支部で支部委員などを務め、主として組合のレクリェーション活動に携わったが、その実施を巡って労使間でそごをきたし、補助参加人Lを含め組合側が抗議行動を取ったこともあった。

これに先立つ昭和五三年には、支部役員の引っ越しを手伝うに際し、守口支店の管理課長が補助参加人Lに対し、「あまり、あいつらと付き合うな」と迫ったり、昭和五四年には大阪総括室の調査役が補助参加人Lに対し、「あなたを公庫に入れたのは間違い…(自分の)胸に聞いてみろ。」などと言ったことは、同課長らが補助参加人Lの活動を嫌悪していたことの証左と認められる。

ケ 補助参加人Bは、昭和三一年に入庫して以来、国金労豊橋支部及び同堺支部ではその役員を歴任し、堺支店勤務当時の昭和四〇年以降、「職務給問題」や「環衛公庫闘争」に関与し、昭和四二年には地元代議士との懇談会を実施し、昭和四四年には補助参加人Iの昇格問題に取り組み、次いで、昭和四六年からの同田辺支部においても、委員長として団交人員、施設利用問題等について申入れを行うなど活発な活動を行い、その後昭和五三年には、「情勢をきりひらくための懇談会」を呼びかけ、全国活会の世話人ともなった。

補助参加人Bが田辺支店勤務当時の総務課長が補助参加人Bに対し、「(君は)役席になるのだから、組合(活動)を控えたらどうだ」と言い、昭和五一年にも長岡支店長が面接で補助参加人Bに対し、「組合活動を止めるならば…(ここで)やめてほしい」などと強いたことは、同支店長らが補助参加人Bの組合活動を嫌い、同人が昇格を望むなら、活動を控えたり止めるよう迫ったものと認められる。

コ 補助参加人Iは、昭和三二年に入庫した後、国金労豊橋支部で委員長として「環衛公庫闘争」に積極的に取り組むほか、年休手続問題に関し機関紙で取り上げ、次いで、同奈良支部においては、昭和四四年、自身の昇格問題について、支部の支援も得て苦情処理申立てや署名運動を行い、同大津支部では、書記長として「人増ビラ入れ闘争」や請願署名運動の先頭に立つなどの活動を行なった。

昭和四五年、奈良支店長が補助参加人Iに対し、「お前は、苦情申立てをしており、公庫の考え方に合わないからだめだ」と研修申請を拒否したり、同大津支部時にも、別府支店の次長が補助参加人Iに対し、「君も、先頭に立って組合活動をする年齢ではなく…考え直す時期に来ている…」と、いわゆる「転向」を促しており、、これらは、この支店長らが同人の組合活動を嫌悪し、考え直すよう求めていたものであると認められる。

サ 補助参加人Qは、昭和四五年には大阪で国金労支部委員長になった後、昭和四九年からは国金労本部副委員長を二期務める中で、六年振りのストを指導したり、オンライン化による労働条件の変更に反対する立場を取った。また、昭和五一年同人は同大阪支部に戻り、その後委員長に返り咲くこともあった。

その後の転勤先である八幡支店においては、同支店支店長が補助参加人Qに対し、昭和五三年「子分を作るな」と言い、翌年にも「…仕事をしなければくびにしてやるのだが…」と言ったことが認められ、同支店長がQの組合活動を嫌悪し、支部にいわゆる「シンパ」が増えることを危惧していたことがうかがわれる。

シ 補助参加人Sは、昭和三九年からほぼ一貫して南近畿地協事務局で活動し、この間、阿倍野支店での施設貸与拒否事件に抗議行動を取ったり、都労委闘争にも積極的に取り組んでいた。

昭和五七年、京都支店の審査課長が補助参加人Sに対し、「組合活動はほどほどにして、公庫サイドに立って…欲しい」と言ったり、同支店支店長が補助参加人Sに対し、「…組合さえしなければ、本当に良い男なんだが」と語ったのであり、同支店長らは、Sの組合活動に嫌悪の情を持ち、それを嘆いていわゆる「転向」を迫ったことは明らかである。

ス 補助参加人Cは、昭和四三年以降毎年国金労金沢支部で役員を経験し、昭和四七年からの北信越事務局時代には、頸肩腕症候群等の職業病問題や、「オンライン化」問題について対処し、昭和四九年のストに関しては、金沢支店長に介入行為を抗議した闘争にも参加した。その後も、昭和五〇年からは、三期副委員長等を務めるなどし、この間頸肩腕症候群に係る「労災申請闘争」や「人増闘争」などにも取り組み、昭和五五年には、補助参加人Aや同Qらとともに、国金労定期大会に向けて、反労使協調路線の立場でアピール文を発した。

昭和五九年、C田支店長が補助参加人Cに対し、「私は、Oさん(昭和四四年に国金労本部執行委員長を務めたが、昭和五一年に沼津支店で調査役となり、昭和五四年には東大阪支店で管理課長となった者)、K、A氏も知っている。…Oさんは沼津から東大阪で自分の生き方を見つめ直した…」旨発言したことは、暗に、かつては原告のいやがる「組合活動家」であっても、考え方さえ変えれば出世も可能であるとの趣旨を伝えたものと解され、このほか、同年、同支店長がCに対し、「お前がどのような組織に入っていようが、…裏切るとどのようなことになるか思い知らせてやる」などと言ったことと併せ考えれば、同支店長は、補助参加人K、同Aらと協調してきた同人の組合活動を嫌ってこのような言動をしたものというべきである。

セ 補助参加人Eは、昭和四四年に仙台支店に赴任してきた補助参加人Kの影響もあって、国金労支部役員を務めるなど組合活動に積極的にかかわるようになり、昭和四八年、同浜松支部において「人増闘争」などに参加し、次いで東海地協でも管内支部を指導する立場をこなした。

その後全国活会に参加する前後から、同津支部での頸肩腕症候群闘争を支援し、昭和五五年には同人の妻である補助参加人Fらの未昇格問題に関しては、「Fらを支援する会」の事務局長(連絡員)としてこの運動を支えた。

昭和五三年一月、中村支店の支店長は、当時補助参加人Eが赴任した豊橋支店の同僚(かつて全国活会会員)に対して、「あんたの支店、今度変なのが転勤してきたろう。…ほら、東京で色々やっている…」などと、補助参加人Eらの活動をやゆするような言動をとったことは、同人の上記活動等に対する嫌悪の情の発露とみるべきである。

ソ 補助参加人Mは、昭和四九年から、南近畿地協の事務局副局長となり、同人は、地協主催の組合学校の開催に当たり企画から実施にわたってこれに関与し、次いで、国金労東大阪支部では副委員長として、メーデー参加人員を巡って支店側と厳しく対峙することもあった。

昭和五七年五月には、明石支店の課長が、補助参加人Mが「土休指定」に関して具申した際、同人に対し、「…君は共産党員か?…酷い噂を聞いている」などと言ったことは、同人のその場での態度を非難しただけでなく、同人の組合活動を知り、それを嫌ってされた言動であると認められる。

タ 補助参加人Dは、入庫して間もない昭和三八年には国金労本部執行委員となって、主に青年、婦人層の組織化を担当し、昭和四〇年の「職務給闘争」では本店での討論集会の開催に努めた。昭和三九年ころには後輩に頸肩腕症候群の患者が出るようになり、本店側と交渉しその善処を求めていたが、自身も同様の症状となり、同大森支部当時の昭和四九年には労災認定闘争を開始した。

この間、昭和四八年に大森支店長が、未昇格の理由を尋ねる補助参加人Dに対し、本店時の活動を指摘して「公庫を困らせる有名人なので推薦できない」旨答えたことは、同人の組合活動を嫌悪してのことと認められる。

チ 補助参加人Hは、国金労浜松支部で青婦人部を中心に活動し、勉強会の講師を務めたり、「人増闘争」でもビラ配布等に取り組み、昭和五三年には東海地協の補助参加人Eを通じるなどして、自己を扶養者として認定するように運動することもあった。

昭和五五年には浜松支店の審査課長が補助参加人Hに対して、「公庫の方針に文句のある者は辞めろ。」などと言い、昭和五九年には、同支店支店長が、補助参加人Hが副調査役に昇格できない理由として、「Kに色々相談し過ぎることだ」と答えたのは、同課長らが補助参加人Hの組合活動を嫌悪してされたものと認められる。

ツ 補助参加人Fは、浜松支店在籍当時の昭和四五年に頸肩腕症候群であるとの診断を受け、昭和四九年及び昭和五〇年に行われた国金労本部主催の「職業病り病者集会」では国金労浜松支部を代表して発言したり、昭和五二年以降は同津支部での頸肩腕症候群労災申請にかかる「Aさんを支援する会」に参加し、その再審査の参考人になって証言に立った。

このり病者集会が開催された昭和五一年以降、補助参加人Fは四等級に昇格できないでいたが、同豊橋支部当時の昭和五五年には、補助参加人Pらとともに苦情処理申立てを行い、全国活会の後押しを受けた「Fらを支援する会」とともに運動し、そして、原告が、この会に対する補助参加人らの関与の事実を認識した上で、その支援行動を嫌っていたであろうことが認められる。

テ 補助参加人Pは、昭和四六年以降国金労久留米支部で青婦人部長として同支部の頸肩腕症候群等の職業病問題に取り組み、昭和五三年のメーデー参加問題では、青婦人部と支店との対立を機関紙で取り上げるなどの活動を行い、その後昭和五五年には、補助参加人Fらとともに、全国活会の支援を受けつつ、自ら四等級への昇格を求める闘争を行った。

右メーデー問題での同支店労使間のあつれきの中で、同支店支店長が補助参加人Pら青婦人部の委員に、「このことは一生忘れない…、支店のA昇給に影響するだろう」とか、後にも「…唇寒しになるな」などと発言したことは、補助参加人Pに関しては、同人が機関紙でこの問題を訴えるなどの活動を根に持ち、それらが昇給昇格に関して不利に働くことを明言したものと認められる。

(5) 補助参加人らの組合活動などについてのまとめ

以上のように、補助参加人らは、早い者は昭和四〇年前後から国金労の組合員ないし役員として、その国金労での主流派時代においては「職務給闘争」や「環衛公庫闘争」のように、補助参加人のKや同Aを委員長とする執行部が、指導し、支持した運動に加わり、その後も、原告が「企業告発型」であると嫌っていた「労災申請闘争」などの闘争に関与し、本部、支部などを問わず活発な組合活動を行っていた。

その後、補助参加人らが昭和五五年の組合大会を境に反主流派に転ずる前後においても、同人らは、国金労の「労使協調路線」への方向転換を憂え、昭和五三年以降は、全国活会やその理念を継いだ発展会に結集した上で、前記のような組合活動を継続していた。

そして、原告は、依然として国金労の中に残存する労使協調路線に抵抗する補助参加人ら(全国活会や発展会の会員などの同調者を含めて)を、かつては「反良識派」と、新しくは「旧体質派」などと位置付けて、昭和六〇年度の新人事給与制度の導入時には、人事や給与といった処遇の面で同人らを「塩漬け」するよう支店に指示したように、原告の内外で、一貫してその経営施策に異議を唱え続ける同人らの組合活動を嫌悪し、昇給・昇格などにおいて不利益を被らせようと企図していたものと判断することができる。

なお、補助参加人らの活動の中には、「どこへ行く国民公庫」の発刊など、一見組合員の労働条件と無縁ともいえるような原告の経営施策を批判する行動も含まれているが、少なくともこの刊行物では、中小企業の重視などの提言のほかに、原告職員の増員をも訴えているのであって、正当な組合活動の範ちゅうに入るとみてよい。

(二) 原告における人事考課の運用実態について

(1) 次の事実によれば、少なくとも原告における男性職員に関しては、その調査役の任用までは学歴や入庫年度を尺度とする年功管理的な運用がなされていたものと推認することができる。

ア 原告の新旧の人事給与制度では、五等級や四等級への昇格の場合(最小在級年数や自動昇格による場合など)を除き、制度上では、昇格、任用に関し入庫年度や学歴をよりどころにするものは認められない。

しかし、大卒者については、副調査役には、昭和四六年度以降各年度とも、勤続一一年ないし一〇年で同期でトップが、次いで一、二年後には過半数の者が任用され、調査役には昭和五一年度以降、勤続一六年前後でその過半数の者が任用されるに至っており、高卒男子についても、少なくとも補助参加人らの入庫年度組に関しては副調査役には、勤続一八年前後、調査役には、概ね勤続二四年あるいは二五年で過半数の者が任用されるという傾向が認められた。

なお、国金労は、昭和五九年当時、大卒者の平均的な昇進モデルとして、三三歳(二二歳での入庫として、勤続一一年に相当)で副調査役、三八歳(同一六年に相当)で調査役での任用との指摘をしていたが、これは右の事実と極めて近似する。

イ また、旧制度が成立した際、労使間で「四等級から三等級への昇格はポストに関係なく行うことができる。」との合意をしていること、その後調査役が増加し、三等級の中でその半数にも達し、昭和六〇年度には新人事給与制度において同等級を課長職とに二分せざるをえない事態を招いたことも勘案すれば、同じ役付職員といっても、調査役への任用については、課長以上の職と異なり、その設置職場や数・枠などに関して厳格ないわゆる「ポスト管理」が行われているとは認め難い。

(2) なお、被告は、原告が人事考課の適正を図る措置を執っていたこと自体否定するものではないが、いかに適正な人事考課制度があり、かつ公正で客観性のある評価を行うための指導をしていたとしても、これを運用するのは人であり、私情の入り込む余地が全くないわけではなく、差別意思を持って評価するときは不公正な格差を生ずることは明らかである。

(三) 補助参加人らの勤務状況について

原告は、補助参加人らは、適確な事務処理に欠け、債権管理事務においては、「管理カード」の処理や指示事項の実行を遅延したり、長期間にわたり管理を放置することが多く、融資審査事務においては、その処理を間違え、遅延もしていた等の問題のある事務処理が多かった旨主張する。

しかしながら、原告が指摘する問題事例の中にはその指摘が妥当なものか疑問視されるものも多い。以下検討する。

(被告の審査段階で申立人ら(補助参加人ら)及び被申立人(原告)双方から立証があった申立人ら(補助参加人ら)について)

(1) 補助参加人Kについて

ア 延滞事務担当の調査役としての役割

延滞事務担当の調査役としての役割に関する原告の主張(一5(一)の(1))は、具体的な事実を指摘したものでなく、かえって、次の事実が認められる。

A内支店長が、昭和五九年ころに、当時補助参加人Kと同じく管理課に所属していた補助参加人Hから、副調査役への不昇格理由を問われたのに対し、「Kに色々相談し過ぎることだけだ。」と答えた。また、原告の業務関係の通ちょう類には通知範囲を限定する場合があり、Kは静岡支店時の昭和五〇年ころまでは、「調査役限り」との文書を当然閲覧していたところ、その後、この限定付き書面は廃止になったと聞かされていた。しかし、補助参加人Kが、浜松支店当時の昭和六一年四月ころに、支店長と面談した際、「調査役限り」の文書の閲覧をあえて求めたところ、同支店長はその存在を認めながらも、結局、同人の在職中はこの通ちょう類を閲覧させることはなかった。

イ 無責任な事務処理

原告が指摘する「口頭弁論期日の失念」の件(一、5、(一)、(2)、ア)に関しては、そのようなことが認められないではないが、同様のケースで、補助参加人Kの同僚が欠席したため、急きょ期日延期を申請したり、同人が訴訟代理人となって切り抜けたことは二、三に止まらなかった。

また、「消滅時効を完成させてしまった」との件(同イ)のうちには、それぞれ債務者から次善の策として、時効の利益を放棄させ、支払猶予願いを徴求したものもある上、時効を完成させてしまう例は全国的にも少なくはなく、その後は、防止策も整備され、管理効果の乏しい債権については時効の中断措置を省略するようにもなった。

ウ 単純な事務ミス

原告が指摘する件(一、5、(一)、(2)、エ)については、次の事実が認められる。

訴状の記載ミス(同(ア))については、具体的な案件が不明であり、支払命令の送達もれのケース(同(イ))は、裁判所が送達不在の連絡を失念していたものと認められる。

右(イ)に関し裁判所からの問い合わせがあった昭和六一年三月一四日過ぎに、補助参加人Kは次長の机に同人の仕事上のミスと思われるものを記載し支店長まで閲覧したメモ三通を認め、そのメモを作成した管理課長や次長に対して、「なぜ、私に隠れてこんな書類を作って支店長にまで回覧するのか。」などと、作成の動機等を問い詰め、抗議したところ、同次長は、そのメモを補助参加人Kに手渡し、後日の同人の同様の抗議に際しても次長は照れ笑いするだけであった。

エ 商工会議所とのトラブルによる信用失墜

原告が指摘する商工会議所とのトラブルの件(一、5、(一)、(2)、オ)については、補助参加人Kの同会議所の貸付推せんがずさんとの言動が端緒との主張は認められず、事実は以下とおりと認められる。

発端となったのは、経営改善貸付等の融資を行った案件に関するものであり、保証人はたまたま、同商工会議所の融資推薦の審査委員で、自身が推薦したものが回収不能に陥ったものである。

この種の融資は、事故率が高いと、推薦枠を減ずるペナルティが課せられることになっており、当時、同会議所推せん分については事故率が比較的高く、会議などで防止策が検討されるような状況下にあった。

そして、同会議所の抗議電話も、中小企業相談所長から「Kが、言ったというのではなく、…推せんの審査会をちゃんとやっていないと疑われたので…あんた(補助参加人K)が、一番古いので言っているんだ。」というものであり、その後も、補助参加人Kが同会議所に出向いた際、同所長から「Kさん悪かったな。」といわれ、補助参加人Kも「どういたしまして。」とこれに応じてこの件は落着したものと認められる。

よって、この件について補助参加人Kの責に帰すことには問題がある。

オ 指示に対する実行の遅延

原告が「指示に対する実行の遅延」として指摘した案件(一、5、(一)、(2)、ケ)に関しては、「管理カード」等の原資料が開示されず、指摘された事実の有無は定かでない。

また、同③の案件に関しては、当該債権は回収困難なものであったと推定でき、同④及び同⑦の案件に関しては、当該指示はいずれも延滞口に編入されてから長期間経過した段階のものであると推定される。

カ 長期間にわたる管理放置

原告が長期間にわたる管理放置として指摘する案件(一、5、(一)、(2)、コ)に関しても、指摘された事実の有無は不明である。

キ 以上のとおりであるから、補助参加人Kの事務処理には問題が多く、信頼できなかったとの原告の主張を信ずることは困難である。

(2) 補助参加人Aについて<省略>

(3) 補助参加人Oについて

ア 未入金係当時の送金確認登録事務

原告が一、5、(四)、(1)、ウで指摘するこのころの送金登録確認事務については、次の事実が認められる。

当時は、延滞口への編入阻止が至上命題であり、債務者や保証人からの申出を逐一銀行等に照会して確認することは、多忙を理由に断わられることもあって、ほとんど行われておらず、債務者等からの申し出を根拠にして登録していたのが実態である。また、Oはこの事務については、事前に課長に報告し、相談しながら処理していたものであった。

イ 延滞係当時の管理方針案の意見具申の不足

補助参加人Oの管理方針案の意見具申の不足(一、5、(四)、(2)、ア)については、次の事実も認められる。

一、5、(四)、(2)、ア、②の案件については、延滞口への編入が昭和五五年二月であり、補助O担当になった時にはすでにまる五年も経過しており、それも、昭和五六年九月に判決があったにもかかわらず、前任者は三年六か月にわたり意見具申を怠り、事実上管理効果のない「長期交渉口(長期口と同様)」の扱いとなっていた。そして、課長が給与差押えを指示した保証人らは、いずれも多額の負債を抱え、支払能力を欠いていた実態がある。

同③の案件は、補助Oが本件の担当になった時、やはり、編入後六年八か月も経過しており、その間、何回か実態調査も行われたが、後に債務者は生活保護を受けることになるなど、回収の見込みのほとんどない案件であった。なお、この案件の従前の担当者の調査役も昭和五八年四月から昭和五九年一二月までの一年八か月交渉を中断していた経過があった。

同④の案件での課長の管理方針は、保証人への代払いを交渉せよとのことであったが、そもそもこの保証人は管轄外に居住し、昭和五九年九月五日に別支店に管理依頼していたものであり、支払には応じ難い態度を取っていた。そして、債務者の妻には昭和六一年二月二一日に(返済を追求する方針のもとに)完済するよう申し渡しており、当時この記事を課長は見ているにもかかわらず、その時点では何らの指示をなさず、同年六月になって指示のあったものである。

同⑤の案件は、そもそも、前任者が昭和六〇年三月一日に実態調査を行ったところ、債務会社の実態はなく、保証人のいずれもが支払能力に欠けていることが判明し、継続交渉しても効果がないとして、「長期交渉口」にしていたもので、課長は何らの根拠も示さず管理方針案を策定せよと指示したもので、実際にも、後日の実態調査では債務者らの状況に変化はなかった。

同⑥の案件は、指示のあった昭和六一年一二月一七日は、競売不動産の配当日であり、その前、同年三月一四日には債務者および保証人全員の実訪を行い、弁済困難を確認しており、それは管理カード上の記事上明白であった。

同⑦の案件については、もともと、昭和六〇年三月一日に返済が当面望めず「長期交渉口」としていたもので、当時は、債務者の不動産について銀行が競売申立て中であり、その推移をみるほかはなく、その後の配当も原告への割当はなかったという事実がある。

同⑧の案件は、昭和五一年八月に延滞口に編入となったもので、補助参加人O担当するまでに一〇年が経過しており、実態調査はし尽くされており、それによれば、債務者は昭和五一年に傷害事件を起こし、補助参加人Oが昭和六〇年に行った不動産調査でも処分価値はなく、債務者、保証人とも支払能力はなかった。したがって、昭和六〇年九月二七日に「当分の間回収が見込みなし」との補助参加人Oの管理方針案により、これも「長期交渉口」となっていた。その後も債務者らの状況に何ら変化がないにもかかわらず、昭和六一年六月二五日以降管理課長は明確な理由を示さずに返済交渉を管理方針として指示してきたものである。

同⑨の案件も、債務者が行方不明で、保証人も死亡していたので、昭和五九年五月一六日、しばらく管理交渉を行わず静観する「長期交渉口」に区分していたものであったところ、やはり、課長が何らの根拠も示さず「継続交渉口」とする管理方針を指示してきたものである。

同⑩の案件は、債務会社は倒産し、延滞口に編入になったもので、補助参加人Oの担当時には五年も経過していた案件であり、その後保証人は行方不明ないし死亡しており、回収の見込みはなかった。そして、相続放棄をしなかった相続人への追求もままならず、昭和五八年四月以降一〇年間全く入金もないため、管理効果が乏しく状況の好転を見守る「長期口」とされている。

同⑪の案件では、債務者が昭和六一年七月に一部弁済をしたことは確かであり、これは、Oが間断なく債務者や金融機関などと交渉した結果であり、この日で元金残高はゼロになった。しかし、課長は同じ日に遅延損害金についての弁済交渉を詰めよとの指示をしてきたが、債務者および保証人とも、それ以上の支払能力はなく、その旨課長に報告していた経過がある。

同⑬の案件は、昭和六三年七月まで一年間ほど、管理方針を具申しなかったというが、同年六月二三日に二の実訪を踏まえ、債務者との交渉を進める方針を出していたもので、その後もその前提で転居後の債務者の行方を調査していた経過がある。

ウ 延滞係当時のずさんな管理処理や指示の実行遅延など

一、5、(四)、(2)、ウの案件については、給与債権の差押えを指示された保証人は、勤務年数も短く、低収入であり、かつ、高利の債務も負っていたことが判明しており、差押えなどを執行すればすぐにでも退職してしまうことが予想される状況であったことが認められる。

また、指示に対する実行の遅延としてあげられたもの(一、5、(四)、(2)、エ)のうち、同①の案件については、保証人の報酬債権の差押えを指示されたのは確かであるが、別保証人から不動産を担保に取っており、債務者からの定額入金も続いていたもので、結局、差押えしても、裁判所から限度額の減額決定があるなどで僅少額しか充当できなかったケースである。

そして、長期にわたる管理の放置として指摘された一、5、(四)、(2)、オ、③の案件では、補助参加人Oの前任者であった調査役が、昭和五八年四月から昭和五九年一二月までの間、一年八か月間交渉を中断し、管理を放置していたことが認められる。

なお、この「実行の遅延」や「管理の放置」について、原告は、それぞれ上記以外にも多数の案件を指摘したが、ほとんどが、昭和五〇年代初めに延滞債権となったもので、以降の前任者の管理状況などこの間の経過は不明である。

エ したがって、原告が補助参加人Oの延滞債権管理には問題のある事務処理が多々あったとの主張には疑問があり、未入金係における指摘も具体的に案件を特定したものでないことなど、同様である。

(4) 補助参加人Rについて<省略>

(5) 補助参加人Nについて<省略>

(6) 補助参加人Lについて

ア  延滞債権解消実績

補助参加人Lの延滞債権にかかる処理実績については、原告の主張には具体性がなく、かえって、次の事実が認められる。

昭和六一年度の延滞係(担当調査役を含む)の実績については、延滞口債権の解消実績は、補助参加人Lが、当初計画三八件に対して実績は四二件と一一〇パーセントの達成率であり、同係所属のN副調査役は五一パーセント、同じく延滞口債権の担当であったM調査役は一〇〇パーセントの達成率であったことが認められる。

また、実訪の実績については、補助参加人Lが三二六件で、N副調査役の二七八件、M調査役の一五三件を大きく上回り、延滞債権の担当の中では最多の件数であった。

そして、昭和六一年一〇月ころには、担当課長がこのような経過を踏まえ、「実訪はL以外全員計画より低い、解消も四半期計画に対する達成率は各人のバラツキが大、遅れている者は相当の努力が必要」と激励し、翌昭和六二年三月ころにも、「全体に実訪が少ない」とか、「実訪案件の増加に伴う実態把握を推進すること」などを指摘していた。

イ  業務運営方針アンケートに対する回答

年度計画への参画についての原告の主張も具体性のあるものでなく、次の事実が認められる。

支店の昭和六一年度の業務運営方針アンケートについては、補助参加人Lは、他金融機関からの借入の困難な企業へ適正な融資活動を積極的に行い、国民の中での公庫の基盤を確立するため、零細企業に基盤を置いたマーケティング活動を展開し、健全なる企業体として自己資本の増額を政府に求めていくこと、及び債権管理ついては、融資業者の経営状況を踏まえた公庫側の姿勢が必要であること等を提言していた事実が認められ、支店もこのような考え方を評価し取り上げ、昭和六一年度の同支店の重点目標として「顧客増加策を指向した全店的なマーケティング活動の展開」などを掲げた。

なお、このころの東大阪支店の貸付状況を規模別にみると、九人以下で事業を営む企業への融資が九割強という状況にあった。

ウ  難件口検討会

ミーティングなどでの取組みなどに関する原告の主張も、同様に具体性に欠け、一方、次の事実が認められる。

延滞係の難件口検討会は、昭和六〇年五月以降一年間は月一回程度開かれていたが、このころは、具体的に提起された案件だけでも六、七件を数えることが多くて時間が足らず、また、昭和六一年に入ってからは、その開催も二、三か月に一度となり、時間も三〇分程度に過ぎなかった。

また、時間外の勉強会や懸賞論文への参加については任意であった。

エ  補助参加人Lの勤務状況に関する東大阪支店長らの言動等

(ア) 東大阪支店長の言動

東大阪支店の忘年会が昭和六一年一二月二二日に行われた際、補助参加人Lと来賓の元支店長が支店長室で話しているところへ、T支店長が現れ、「Lは人間的に筋が通っていて、(私は)好きで、ファンであり、仕事もできる。」と評価する一方で、裏切り行為をすれば許さない旨も言った。これに対してLは、「裏切るも何も、(そんな)約束ごとはなにもしてない。」と答えた。

また、昭和六三年一二月七日、同支店における支店長面接において、補助参加人Lが当時のK支店長に対して「B昇給を続ければ、同期で何故ベッタ(最下位の意味)になるのか。」と聞いたところ、同支店長は「私はあなたを普通昇給で出している。ベッタになっているとは思わない。」と答えた。

(イ) 同支店次長の言動

昭和六二年三月一〇日ころ、東大阪支店でのO次長の送別会において、同次長は、補助参加人Lに対して、「あなたの能力は誰もが認めている。いろんなしがらみがあると思うが、自分自身のことを考えてほしい。」と言った。

なお、Oは、泉佐野支店長であった平成元年一二月八日、組合活動による差別を受けていると抗議したFに対して、「Fさんの業務・仕事については信頼をおいているけれども、仕事もさることながら、あなたの考え方の問題がある。過去、組合に携わった連中で支店長になっている人もいる。あなたが三十代、四十代の節目で公庫と協調路線で考えてきたかが、問題だ。」と言った。

オ  以上の事実からすれば、原告の補助参加人Lの勤務状況は不満足であるとの主張は信用し難い。

(7) 補助参加人Bについて<省略>

(8) 補助参加人Qについて<省略>

(9) 補助参加人Sについて<省略>

(10) 補助参加人Pについて<省略>

(11) 補助参加人Jについて

補助参加人Jは、入庫後各支店において延滞係や審査係などの業務に従事してきたというもので、松本支店長らが補助参加人Jに対して「よく仕事をやっている…」などと評価していたことをも勘案すれば、特に同人の勤務状況に問題があったと認めることはできない。

(12) 補助参加人Gについて

補助参加人Gは、水戸支店では、管理課延滞係に所属し、延滞債権の管理事務に携わり、昭和五九年度以降、重点目標とされたマーケッティングや顧客の実態把握について具体的に提言を行ったというものであり、特に同人の勤務状況に問題があったとは認められない。

(13) 補助参加人Iについて<省略>

(14) 補助参加人Cについて<省略>

(15) 補助参加人Eについて

補助参加人Eは、浜松支店時には三〇〇〇件にも及ぶ融資審査を行う一方で、その他調査の分析などもこなし、その後、岡崎支店や豊橋支店において、未入金事務や契約・委託業務に携わり、原告融資のあり方についての問題提起を行ったり、勉強会での講師を務めることもあったというものである。

そして、各支店長が、補助参加人Eらの調査役への昇格問題につき、勤務実績に触れて説明することもないことを勘案すれば、特に補助参加人Eの勤務状況に問題があったと認められない。

(16) 補助参加人Mについて<省略>

(17) 補助参加人Dについて<省略>

(18) 補助参加人Hについて<省略>

(19) 補助参加人Fについて

補助参加人Fは、昭和五二年から在籍した豊橋支店では、人手不足もあって庶務関係と委託業務などを兼務、後には、未入金係をも担当し、また、昭和六二年七月から在籍の浜松支店では恩給貸付の業務等に携わった。この間、委託業務に関しては、代理店への指導業務に工夫を凝らし、豊橋の支店長からは未入金係への配属に際し、「(同人の)豊かな経験を生かして…もらいたい」と期待されていたというものであって、以上のことから、やはり同人の勤務状況に問題があったとは認め難い。

以上のとおり、原告の指摘するような不備事例には、事例として適当とはいい難いものまでが挙げられている。しかも、補助参加人らに認められる「不備」はその上司や同僚にも存在し、また、支店実地検査にみられるように、そのような「不備」は各支店においてまま認められ、一方「重大な不備」は補助参加人らには存在しなかったことがうかがわれるから、同人らの延滞債権管理や融資審査事務に関し、これを勤務不良とする原告の主張は根拠に欠けるものといえる。

このほか、原告側の立証には、補助参加人らと比較しうる従業員(例えば中位者)の勤務状況について何ら証明がないこと、不備事例についての実害の有無や程度及び申立人らの業務の繁閑について明らかにされていないことを勘案すれば、結局、補助参加人らの勤務成績を裏付ける客観的、具体的な資料に欠けるといわざるを得ず、補助参加人らの勤務状況は総じて不良で、問題のあることは明らかであるとの原告の主張は採用できない。

(四) 処遇上の格差の存在

昭和五〇年度から昭和六三年度にかけての補助参加人ら各人の処遇とその同期者の処遇との比較は、別表「同期同学歴者等級別分布表」のとおりであり、補助参加人らは総じて同期者中低位に位置付けられている。

その上、補助参加人ら各人の同期者の処遇をみると、補助参加人らの格付とほぼ同位か下位に位置付けられている者の中には、補助参加人らとともに全国活会や発展会で活動を行っている者、特別縁故者、女性等がいる。すなわち、右別表中、

(1) 同別表①につき、昭和六二年度まで特四等級に据え置かれたままの四名の中には、他の金融機関の理事長の息子であるなど、特別縁故で採用された者(同別表①のA、M)がいた。

(2) 同別表③につき、Wは発展会の会員である。

(3) 同別表④につき、昭和六二年度において補助参加人Rと同等かあるいは下位の四、五名の中には、かねて補助参加人らと同様の組合活動を行い、支部や政労協の役員経験のある者(同別表④のM、I)、病気欠勤者やこの当時評語Dを付与された者(同別表④のY、N)がいた。

(4) 同別表⑥につき、S、Aはいずれも発展会の会員であり、補助参加人らとともに組合活動を行ってきた者である。

(5) 同別表⑨につき、Oは、発展会発足時に同会が出した「不当差別是正申入書」に名を連ねている者である。また、昭和五五年度以降四等級に留め置かれている一名は、女性である。

(6) 同別表⑩につき、補助参加人Qの直近上位には発展会会員の者(同別表⑩のK)がおり、昭和六二年度において四等級に留め置かれている七名は全員が女性である。

(7) 同別表⑪につき、I、Yはいずれも発展会の会員である。

(8) 同別表⑫につき、昭和六二年度にも四等級に留め置かれている八名のうち少なくとも六名は女性(同別表⑫のM、I、F、Y、K、ほか一名)である。

(9) 同別表⑬につき、K、Hはいずれも全国活会及び発展会の会員である。

(10) 同別表⑮につき、A、Oはいずれも全国活会及び発展会の会員である。

(五) 女子職員を処遇比較の母集団から除外すること等について

(1) 格差の考察において、補助参加人Bら男子高卒者については、比較する母集団から女子職員を除外するのが相当であるが、その理由は以下のとおりである。

原告においては、昭和五〇年代半ばころまでは、人事給与上の男女格差が現に存在していた。原告は、その後その是正に向けて努力がされたことが認められるが、補助参加人らが救済を求める昭和五九年度の時点においてもこの格差が残存していたとみるのが相当であるから、本件の男子高卒者の比較考察において、女子職員については特殊な事情にある者として比較の対象から除く必要があるのである。

(2) なお、補助参加人D、同H、同F及び同Pの女子高卒者については、原告において同じような処遇環境にいた高卒女子だけと比較しなければ、不当労働行為事件の審査に際し、等質な格差の存在は把握できないから、逆に、比較考察における母集団は女子職員のみとするのが相当である。

(六) このように、補助参加人らは、それぞれその同期中位者との間に処遇上明白な格差があり、その処遇を決する地位にある原告が補助参加人らの組合活動を嫌悪していたことが認められ、補助参加人らの勤務状況が不良であったとの原告の主張はいずれも根拠に欠けるものということができる上、年功管理的運用が認められるのみならず、原告は人事考課における評価を恣意的に行っているのである。以上の事情にかんがみれば、右のような格差の原因は、原告が、同人らを人事考課制度上不当な取扱いを行うことによって職位及び給与においての格差を生ぜしめ、その組合活動を萎縮させようとしたものと企図し、これを実行したことにあるというべきである。

(七) 本件命令は、以上認定の事実を前提に、原告には補助参加人らに対する不利益取扱い(労組法七条一号)、さらには、国金労の組織運営に対する不当介入(同条三号)に当たる行為があった旨判断し、この認定・判断を踏まえ、命令書主文記載のとおりの救済を命じたのであって、正当である。

本件命令に対する原告の論難はいずれも根拠を欠き、または独自の見解に基づくものというべきであり、原告の本訴請求は棄却を免れない。

3 救済方法について

(一) 補助参加人らの職位及び給与に関する救済方法は、別表「賃金等是正一覧」のとおりとした。基本的には、同期中位者の職位及び給与に是正することとしたが、その是正を命ずる職位の上限は調査役とし、給与の上限もそれに対応した三等級とするのが適当であると判断した。その理由は以下のとおりである。

(1) 支店における調査役は、人事考課権や指揮命令をする部下を持つこともなく、超過勤務手当も支給され、その配置は支店長に委ねられ、業務内容及びその量も一般職員とそれほど相違はない。また、その任用においても年功的な運用がされており、既に調査役となっている補助参加人Kを除けば、職位是正開始時点よりも何年も前に同期者が調査役の地位にあり、かつ、その数はその過半数を大きく上回っている状況にある。

一方、調査役の上位に当たる課長等以上の職位については、支店各課の業務を掌理、統括する立場にあり、人事考課においては、副調査役以下の一般職員につき評語と順位を付すなどの仮評価を行い、重要な人事資料である勤務報告書に関しても意見を求められることがあるなどの職務権限等が認められる。

(2) 以上の事情等からすれば、補助参加人らを課長以上の職位にまで是正することを命ずることはできないが、救済方法として調査役への任用を命ずることは、労働委員会の裁量権を超えるものではない。

(二) ただし、以上の基本的な是正方法は、以下の点で修正を加えた。

(1) 補助参加人Kについては、右のとおり既に昭和四九年度に調査役となっているので、それ以上の職位に是正することは命じ得ず、また、給与に関しては、中位者の給与月額を額において上回る直近の三等級の号俸に是正した。

(2) 補助参加人A、同J、同O及び同Rについても、その給与に関し、同期中位者の給与月額を額において上回る直近の三等級の号俸に是正した。

(3) 補助参加人Q及び同Sについては、同期者中男子だけの比較により、昭和五九年度は中位者の等級・号俸に是正し、昭和六〇年度には三等級に昇進させた上で、同年度以後の号俸は男女全体での中位者の伸びを参考にして是正した。

(4) 高卒女子である補助参加人D及び同Hについては、昭和五九年度においては、同期女子の中位者と同じ四等級での号俸の是正を命じ、以降昭和六一年度までは、同期者全体の中位者の号俸の伸びを勘案して四等級の号俸の是正を命ずるが、昭和六二年度においては副調査役とし、昭和六一年度の是正号俸を基準とした特四等級の号俸とする。

三  補助参加人らの主張

1  時機に後れた攻撃防御方法による却下の申立て

原告は、第一六回口頭弁論期日において甲第二三七号証ないし第四五四号証を、また、第一八回口頭弁論期日において甲第四五五号証ないし第五〇七号証を、それぞれ提出した。しかし、これらは、本件において定められた訴訟上の協定等に反し、時機に後れた攻撃防御方法であるから、すべて却下されるべきである。

すなわち、第五回口頭弁論において、原告は、総論関係一名のほか、被告委員会で個別立証の行われなかった補助参加人全員(K、O、J、G、I、D、H、F、C、E、M、)につき各二時間の立証を要求した。当時の担当裁判官は、原告に対し、立証対象となる補助参加人を絞ってほしい旨申し入れたところ、第六回口頭弁論期日において、原告は、右申入れを受け入れ、立証対象となる補助参加人を、Kほか四名に絞ることを約した。そして、同裁判官は、平成九年一二月までにすべての立証が終了するように、その後の全期日を指定したが、その際に原告がその余の補助参加人らにつき書証の提出によって立証する旨述べた事実はない。

以上の経過に照らせば、本件では、原告がKほか四名以外の補助参加人らについての立証を放棄する旨の訴訟上の協定が成立したということができ、仮にそうでなくとも、本件では、平成九年一二月一六日までにすべての立証を終了して結審する旨の合意が成立したものというべきである。

右各書証は膨大な数に上り、補助参加人らがこれに反証しようとすれば、さらに多大な日時を要するのであることにも照らすと、原告による右各書証の提出には、訴訟遅延の目的があることは明白である。

2  被告本件命令の正当性について

(一) 被告本件命令の判断枠組みは、補助参加人らの組合活動と原告の見方、補助参加人らの勤務状況、昇給、昇格及び職位における格差の存在の三本の柱で構成されているところ、本件命令は、これらの事項に関する諸事実について詳細かつ厳密な認定を行い、これに基づいて論理的な必然として不当労働行為成立の結論を導き出しているのであって、その判断の合理性、正当性は明らかである。

これに対し、原告は本件命令の右判断を争っているが、以下のとおり原告の主張はいずれも理由がない。

(二) 原告は、本件命令の認めた不当労働行為性に関し、様々な理由を挙げて論難するが、その趣旨は要するに不当労働行為意思がなかったということにある。

しかし、本件においては、原告の職制機構を総動員した大規模で系統的な不当労働行為の実行経過が、数々の動かぬ証拠によって白日の下にさらされた。ことに、補助参加人らの個々の活発な組合活動が原告の知るところとなり、原告が補助参加人らに対して一段と執拗な差別待遇を重ねた事実は、それぞれ証拠に基づいて本件命令が詳細に認定したとおりである。

原告の本訴に至っての不当労働行為を隠ぺいしようとする主張は、もはや到底成り立つ余地がない。

(三) 原告は、その人事考課制度は客観性の高いものであり、その運用においても制度本来の趣旨に合致する運用がされているとする。

しかし、次の点からすれば、原告の右主張は成り立たない。

(1) 補助参加人らは、一様に評語Bを付与されている一方、四等級男子のうち評語Aを付与された者は、平成四年度から平成八年度までは六割を超えている。

(2) 原告の人事考課において重要な書類である勤務成績内申書において、制度としては関連すべき総合評価と項目別評価が、実際上は断絶している。このことは、原告において、人事考課の運用が恣意的に行われていることを裏付けるものである。

(3) 昭和六〇年から昭和六一年にかけて、池袋支店において、原告側がその組合活動に対して警戒心を抱いていた補助参加人Dにつき、その評価を下げたことがあったことが認められ、この時期が発展会が企業告発型の活動を強めていた時期に符合することに照らせば、原告が評価を恣意的に行っていたことは明らかである。

(4) 原告において、人事考課の評価者が作成する指導観察記録は、実際には原告の職員全員を対象とするものではない上、その記載内容は組合対策がその重要な要素となっており、このことも、原告における人事考課の恣意的な運用を裏付けるものということができる。

(四) なお、原告は、補助参加人らの勤務状況についての本件命令の判断には、証拠を無視した事実認定からもたらされた誤った判断があったなどと論難するが、この論難には何の根拠もなく、もしくは本件命令の内容を誤読した上での立論でしかなく、原告の主張は成り立たない。以下詳述する。

(1) 補助参加人Kについて

本件命令は、補助参加人Kの勤務状況につき詳細な事実認定を行い、それに基づく判断の結論として、「したがって、被申立人の主張するように、補助参加人Kの事務処理には問題が多く、信頼できなかったとの主張を信ずることは困難である」と認定している。

原告は当審において壬田証人(以下「壬田証人」という。)によって補助参加人Kの「不備」事例を立証しようとしたが、結局は、本件命令の右の認定を覆すに足りるものではなかった。

ア 裁判期日の失念・時効期間の徒過について

壬田証人は補助参加人Kにつき裁判の期日を失念したことが二件、時効期間を徒過した事案が二件あると証言する。

しかし裁判期日の失念のうち一件は、壬田証言も認めるとおり、他の職員が出廷してカバーされたものであり、他の一件も期日の延期によって実害の発生しないものであった。

時効期間徒過の件も、いずれも回収不能として償却すべき案件であった可能性が高く、その後原告においても、このような債権についての時効中断措置をやめるよう制度が改正されているのである。制度改正前にも、補助参加人Kを批判するにしては、原告の時効管理には真剣さが認められないのである。

壬田証人はまた、補助参加人Kが裁判所印を自宅に持ち帰ったことを「不備」事例にあげるが、これも原告の支店の実印で代用し、なんら実害の生じていないものである。

イ 訴状内容の「誤り」について

壬田証人は、補助参加人Kの提出した訴状の記載内容に誤りがあったと非難する。

しかしこれは、被告の社名に「株式会社」を付けるのを失念した単純ミスのほかは、いずれも訴訟要件に関わるようなものではなく、仮に訂正を必要としたとしてもすでに訴状は受理済みであったので、実害は生じ得ないのである。むしろ、訴状の記載に関する裁判所書記官からの実務的な電話の内容をわざわざ記録にとどめ、補助参加人Kに対する査定の資料とする原告の異常な体質こそが浮かびあがる事例である。

また、壬田証人は支払命令不送達の件を問題にするが、この責任が裁判所の側にあって補助参加人Kにはないこと、明瞭な件である。

ウ V商工会議所とのトラブルの件

V商工会議所とのトラブルの件につき、壬田証人は、そもそも補助参加人Kが問題の発言をしたかどうか、補助参加人Kから直接、確認を取っていないから、伝聞にすぎないのみならず、その伝聞情報も、内容的にあいまいなものである。また、その伝聞情報を裏付ける何らの資料も存在しない。

この問題の出発点である補助参加人K発言なるものの内容が証拠によって裏付けられないままに、いかに補助参加人Kを非難しようと、徒労にすぎないのである。

(2) 補助参加人Oについて

補助参加人Oの「不備」事例につき原告は、被告の調査段階において乙谷太郎、A水及びA宮の各陳述書(乙一三二六ないし一三二八)を提出して立証した。

これに対し、本件命令は、詳細な事実認定を行って判断をしている

これに対し、原告は、当審において乙谷太郎証人(以下「乙谷証人」という。)を立てて立証したが、同証人の証言内容は、乙第一三二六号証をなぞったものにすぎず、本件命令の摘示した疑問を解明するに足りるものではなかった。ましてや、本件命令の右の判断を覆すに足りる新事実を提示するものでは、全くなかったのである。

ア 未入金係当時の「不備」事例について

(ア) 乙谷証人は、昭和六二年二月に、当初予定していなかった一四件、一五〇〇万円につき入金見込みがないとの申出が補助参加人Oからあったという。しかしこれは、当時、未入金係としてはなるべく延滞口への編入を阻止したいという気持ちが強かった状況の中で発生した事例である。その内容は、同月二六日段階では入金を約束していたが、同月二八日には入金がされないことになったという、単なる見込み違いの事例にすぎない。しかも乙谷証人は、その一四件すべてが延滞口に編入されたかどうかも覚えておらず、それによってOの延滞口編入件数が異常に増加したという記憶もないというのである。これによる何らかの実害があったとは、到底認められない案件である。

(イ) 原告は、補助参加人Oにつき送金確認登録の入金率が悪いと主張する。しかし、その例証として示されたのは、昭和五九年一一月分と昭和六〇年一月分に過ぎない。そして、乙谷証人は、これらは特に成績の悪かった二つの月を持ち出したものであることを認めている。この種の数字は毎月変動することが容易に推測できるにもかかわらず、わずか二つの月の数字からOの送金確認登録の入金率が悪いと認定するのは、あまりにも無理がある。しかも、甲四六号証記載の数字から昭和五九年一一月分の平均値を算出すると、83.25パーセントになり補助参加人Oの60.9パーセントがかなり低いのは事実であるが、原告が二番目に悪いとして持ち出した昭和六〇年一月分の平均値は72.7パーセントであって、補助参加人Oは69.6パーセントというのだから、その差はわずか3.1ポイントしかない。これからみると、それ以外の月のOの成績はほぼ平均値に近いかそれを上回っていることさえ推測できるのである。

甲第四六号証でZが入金率一〇〇パーセントとなっているのは偶然にすぎず、同人にも入金されなかった事例のあること丙一五号証の示すとおりである。そればかりでなく、乙谷証人自身が、送金確認をしないままその登録を行い、実際には送金がなかったのに何のフォローも行わず、翌月八日に突如、支店長名の催告を発送していることが明らかである。このケースで異常なのは、送金がなかったにもかかわらず甲第四九号証、第四三号証の趣旨に反して、電話等による連絡も一切行わず、ただちに支店長名の催告に踏み切っていることである。「不備」事例の最たるものを、乙谷自身が行っているのである。

イ 原告は、有限会社春山自動車学校の例につき補助参加人Oの意見具申のやり方に「不備」があると主張する。

しかし、もともと補助参加人Oは、同社の関連会社である有限会社秋山の基本調査をおこなったことがあり、いわゆる「五〇番照会」によっても、当該企業のみならず同一代表者の経営するすべての法人につき担保設定の状況を把握できるのである。これに対し原告と二以上の取引のある企業につき担保抹消の手続をするには多大の事務量を要すること明らかである。このような場合補助参加人Oが、多大の事務量をこなす前に、上司に基本的に抹消に応じる方向でゆくか、そうでないかを相談するのはごく自然な行為である。これに対し相談に応じないばかりか補助参加人Oに対し注意・指導を行った乙谷の方こそ、管理職としての適格を欠くものというべきである。

ウ 延滞係当時の管理方針不提出

原告は、補助参加人Oが管理方針を出さないので、乙谷が代わって方針を出したとし、その例を四件あげている。

(ア) そのうちの一例、有限会社夏山商会(一、5、(四)、(2)、ア、①)について検討する。

乙谷証人は、昭和六〇年六月八日付け補助参加人Oの意見具申にもとづき、同年九月一九日、同年一二月七日、同六一年三月一三日、同年六月二四日、それぞれ保証人一名の実態調査を指示したというものである。

しかし上司たる乙谷は、補助参加人Oの意見具申があったからといってそのことをたてに取るのではなく、案件全体を検討して、なお保証人の実態調査が必要かどうかを判断したうえで指示を行うべき責務がある。

そこでこの案件を具体的に検討してみると、原告はすでに、昭和五七年一二月二二日に不動産の競売により二九〇万円の入金を得、さらに代表者の給料差押えにより昭和五九年一二月及び昭和六〇年一月に配当を受け、同月九日の代表者の退職により右差押えを取り下げた事例である。昭和六〇年五月二〇日、補助参加人Oが関係者に面談を求めたところ、連帯保証人が欠席したため、その実態調査を意見具申したものの、別口の延滞債権(債務者)に関する情報や電話番号の状況等からわざわざ実態調査をするまでもなく、既に支払能力の喪失が強く推測され、実際昭和六二年五月一一日の調査によりそのことが確認されたのである。乙谷の指示自体が不適切であった事例にすぎない。

(イ) 生花小売業のの案件(一、5、(四)、(2)、ア、③)は、原告の「管理事務便覧」の定めに反し、生活保護を受けている者から債権取立てを行ったものであり、乙谷の指示そのものが不適切だったのである。

エ ずさんな管理処理

補助参加人Oにずさんな管理処理が多かったと主張する原告は、その具体例として建築業者の案件(一、5、(四)、(2)、ウ)を挙げる。

しかし、この件で、乙谷が補助参加人Oに対し給料差押えを指示した連帯保証人は、昭和五九年一〇月二日、来店して月二万円の代払いを約したものである。しかしは、一カ月一四万円以下の収入のなかから月三万円の高利の保証債務を支払中であり、原告に対する月二万円の代払いがかなりの負担であることが明らかであった。しかし、は、断続的ではあるが支払を行い、その定年退職後も二回の入金を行っている。また、の勤務先に対し給料差押えを断行すれば、同人が退職のやむなきにいたる危険が容易に認められた。

これに対し、乙谷は給料差押えへの検討を指示し続けたのである。もともと、この指示は昭和五八年六月一七日に前任課長が補助参加人Oの前任者に対して行ったものであるが、昭和五九年一〇月二日に、の実態が明らかとなった時点で、この指示自体が見直されるべきであった。それにもかかわらず、乙谷は漫然と同一内容の指示を出し続けたものである。

補助参加人Oの管理処理にずさんなところはいささかもなく、乙谷の指示こそが失当なものであったというほかはない。

オ 「指示の実行の遅延」及び「管理の放置」について

乙谷証人は、「指示の実行遅延」を二〇件、「管理の放棄」を一〇件、補助参加人Oについて挙げている。

そのうち一件、の件(一、5、(四)、(2)、エ、①)をみてみると、乙谷が差押えを指示した連帯保証人は、実質的には生活給といえる町議報酬を全額保証協会から差し押えられ、それにもかかわらず昭和六一年一月から月一万二〇〇〇円宛の支払を約し、同年一月三〇日同額を入金したものである。履行の様子をみてみたいとするOの意見こそ適切であり、の困窮を無視して町議報酬の差押えを指示した乙谷のほうにこそ「不備」があるものといわなければならない。

その余のケースも、これに準じたものと推測されるものである。

カ 他の従業員の例及び乙谷証人の「不備」事例

(ア) 乙谷証人は、Oに関する「管理放置」については口を極めて非難しながら、他の従業員については、同証人みずから手助けして管理放置に陥るのを阻止していた。

すなわち、乙谷証人は、職員の担当するの案件について、昭和五八年一二月一二日、昭和五九年三月二七日及び同年六月二五日、それぞれ四半期検査の直前または直後に、債務者、保証人に自ら文書を発送し、同職員の管理放置を防止している。これがなければ、職員は一年五か月余の管理放置に陥ったことになる。乙谷証人がOに対してこのような手助けをしたことはない。

(イ) 乙谷証人自身、の案件につき、無謀にも死者に対する提訴及び不動産仮差押えを指示するなど、非常識きわまる債権回収策をおこない、結局何の成果も得ることができなかった。

乙谷証人は、自分は代位登記して仮差押えをするよう指示したのに、担当のが間違えたと責任を部下に転嫁しているが、疑わしい。それなら「債(債権者のこと)不(不動産のこと)仮差」(丙二四)ではなく、「相続人の不動産に対する仮差」をすべきことが表示されるべきだし、訴訟の対象が相続人に切り換えられた後も、裁判所から注意されるまで長らく死者に対する訴えは維持されていたからである。また、仮にその責任がにあるとしても、民事訴訟の基本構造も理解せず、人倫にももとるような死者に対する提訴をおこなった同人に対し、乙谷証人が非難する様子がまったくみられないのは、補助参加人Oに対する態度と対比して、余りにも不公正といわなければならない。

また、乙谷証人が公庫の管理事務便覧の定めに反した処理を行っていたこと、丙第二五号証、第二六号証からも明らかである。

(3) 補助参加人Iについて<省略>

(4) 補助参加人Eについて

ア 補助参加人Eの役付職員への昇格の矛盾

補助参加人Eの勤務状況について、証人乙原五郎(以下「乙原証人」という。)が証言を行い、右証言に関し、甲第一〇四号証(陳述書)のほかいくつかの証拠が提出されている。

そして、右証言・証拠による結論は、右陳述書三ページに次のとおり書かれている。

「Eさんは昭和四一年に入庫しましたので、浜松支店において私の下で勤務した当時はもう勤続約二〇年のベテラン職員でした。このような立場にある職員はベテランとしての経験と自覚をもって積極的に業務を遂行すべきであります。しかしながら、Eさんの仕事ぶりは、与えられた仕事をただ漫然と行うことだけに終始し、自分が納得できるまで種々調べてみようという前向きな姿勢が見られず、上辺だけの事務処理を繰り返す、いわゆる手抜きの審査処理をしていました。また、初歩的なミスを繰り返すなど、満足な実績をあげることができませんでした。さらに、基本的な制度の内容や関連規定に関する知識の習得を怠り自己啓発の意欲もなく、積極的に業務に取り組むという姿勢を欠いていました。さらに、下級者に対する指導・助言などを行うということは全くありませんでした。」

なお、乙原証人が右査定を行った期間は、昭和六〇年一月から昭和六一年三月までである。

しかし、右の結論は、補助参加人Eが、昭和六一年四月一日に一般職から役付職員である特四等級副調査役に昇格した事実と決定的に矛盾する。

特四等級の昇格基準は、「四等級にある者で、一般的な指示又は手続に従い、高度な判定的業務を行うとともに、必要に応じ直属の長を補佐して下級者の指導にあたる能力に達していると認められる者」である。また、右昇格にあたっての手続は、「公庫は、毎年一月に前一年間の勤務状況について能力適性評価を実施し、それまでの勤務成績の評価と併せて職員の能力の伸長度合を総合的に検討して直近上位等級の職務遂行能力の有無を判定する。その結果、上位等級の職務遂行能力を有すると認められる者は、当該等級への昇格を決定し、認められない者は、現格付等級のままとする。」ということである。

右の点を更に具体的にいえば、評価の手続として、(ア) 昇格基準については、毎年四月一日に所定の昇格基準等を記載した通達を所属長宛に送付し、(イ) 所属長は、勤務報告書に評定の結果及び知識、能力、性格についての特徴や将来性に関する意見などの必要事項を記載して一月二〇日までに人事部長に提出し、(ウ) 人事部長は提出された勤務報告書を点検、精査し、勤務成績内申書と併せて総合的に検討して、昇格対象者をリストアップするということになる。

乙原証人が行った補助参加人Eの昇格直前一年間の評価が正しいものであれば、職務遂行能力・勤務成績のみで昇給・昇格が決定されるという原告の立場からすれば、補助参加人Eは昇格するはずがない。しかし、現実には補助参加人Eは昇格している。そこで、右評価を前提として、補助参加人Eが一般職から役付職員へ昇格したことを合理的に説明できるとすれば次のようになろう。

第一は、支店長や人事部が補助参加人Eに関して行った昇格に関する評価が、乙原証人の評価と全く異なっている場合である。この場合、上司の査定と全く異なる乙原証人の評価は、客観性に著しく欠けて、全く信用に値しないこととなる。

第二に、直前の一年間の勤務成績に比して、それまでの勤務成績が抜群に良い場合である。右の場合は、直前の一年間の「悪い」査定にかかわらず、全体としてみれば、補助参加人Eの成績はかなり良いこととなる。

右の点を尋問された乙原証言は、あいまいで、かつ、昇格に関する推せんは自分の関与しないところであると逃げる。

しかし、勤務成績内申書は、昇格の重要な要素である。しかも、勤務成績の仮評価には順位を付けることとなっており、かつ、一般的には一番二番という上の番号の職員から昇格させることとなっている。

したがって、一般論からいえば、補助参加人Eは高順位で査定されていたと考えるのが合理的であるが、乙原証人は順位に関しては、「全然記憶がない。」と逃げる。

さらに、補助参加人Eに対する乙原証人の成績評価の内容からすれば、補助参加人Eは当然最低の評価であるはずだが、という質問に対して、同証人は、補助参加人Eの成績は七割程度の職員の属する「普通」の水準だと強弁する。しかし、同証人は七割の普通の水準の中のどこに補助参加人Eがランクされるかについては、記憶がないとして答えない。

以上述べたとおり、乙原証言は、補助参加人Eの翌年の役付職員への昇格との関係で、その絶対的評価の説明として全く矛盾に満ちているものといえる。また、同証人は、成績評価の重要な要素である支店内の他者との相対的評価という点についても、全く答えず、答弁不能に陥っている。

右に述べたとおり、乙原証言は、全くその信用性を欠くばかりでなく、証言の価値もない。むしろ同証人の証言は、事実を曲げ、原告の主張に合わせて補助参加人Eの勤務成績をことさら低く見せるための、ためにする証言と断ぜざるを得ない。

イ 乙原証言の矛盾

次に、乙原証言のいくつかの矛盾点に関し、順次具体的に指摘する。

乙原証人は、二〇の問題事例(一、5、(一四)、(2))を指摘する。

右に関してまず指摘しなくてはならないことは、「再調査等連絡表」(通称投げ返し票)自体は、勤務成績の評価に直接関係なく、仕事の円滑適正な運用のためのものにすぎないということである。勤務成績に直接関係するものは、指導観察記録であるが、それが提出されているのは、少なくとも右乙原証言段階では、二〇例中二例のみであった。

また、右二〇例を分析すると次のことが言える。

再提出日の記載のあるもの 一三件

再提出日の記載のないもの 七件

(右のうち再調査連絡票のないもの一件)

再提出日の記載のあるもののうち、再提出日が当日のもの 九件

補助参加人Eのコメントのないもの

八件

再提出日の記載のないものと再提出日が当日のものの合計

一六件(八〇パーセント)

再提出日の日の記載がなく、かつ補助参加人Eのコメントもないもの七件

右のとおり、再提出日の記載のないものと再提出日が当日のものの合計が、二〇例中実に一六例(八〇パーセント)もある。右一六例は、投げ返されて当日(再提出日が当日のもの)、あるいは即座(再提出日の記載のないもの)に決済ないし処理が行われたことを意味する。つまり、乙原証人のあげる問題事例は、きわめて軽微な事例が実に八割も占めているのである。また、右の問題事例の中には、補助参加人Eのコメントのないもの、つまり、口頭で処理されたものも八例含まれている。

乙原証人は、一般には全く問題とならない、ことさら軽微な問題をあえて無理矢理ほじくり出して、問題事例が多数存するがごとく見せかけているのである。

ウ 無責任な事務処理事例

無責任な事務処理の事例として、乙原証人は、補助参加人Eが審査段階で作成した信用調査票で仮登記の設定について全く触れておらず、それゆえ仮登記の後に、それを知らないまま原告は本登記を設定してしまい、原告は債務者に、後に追加担保を差し入れてもらわざるを得なくなったとする(一、5、(一四)、(3))。

しかし、右の問題が発生した根本は、補助参加人Eの右事務処理上の問題ではなく、原告のその当時の制度やその運用上の欠陥のためである。つまり、昭和六〇年当時原告は、年度末の特例として、抵当権が設定される以前の受理証明の段階で貸付金を交付する制度を採用していた。しかも、登記簿謄本の確認は、審査段階でのみ行い、一番重要な受理証明書確認の直前には行われていなかった。

したがって、右の両段階に何日間か空白ができると、その間に第三者や債務者により登記や仮登記が設定される危険性がもともとあったのである。そこで、右の取扱いはその後当然改訂されている。

エ 次に、顧客との対応が不適切な事例として、乙原証人は、補助参加人Eが融資を否決された顧客に対して的確な説明ができなかったと証言する(一、5、(一四)、(5)、アの事例)。

しかし、直接否決を伝えた職員が文句や説明を求めて支店を訪れる顧客に対して直接対応すると、各種の感情の問題も発生し適切な方法でないことは常識である。このような場合、事務処理に直接たずさわっていない上司が、冷静に顧客と対応して説明することが要請される。このことは、契約係の例をとって原告もトラブル防止策として「契約事務マニュアル」で指示している。しかし、トラブルの発生防止と上司の対応の必要性という意味では、審査係でも全く同様のことがいえる。課長と同席した補助参加人Eが対応の一切を課長に委ねて沈黙を守ったことは、極めて適切な対応だったと言える。

オ 乙原証人は、補助参加人Eの審査処理実績が低調であったと証言する(一、5、(一四)、(6)がその内容である。)。

しかし、これには次のごとき欠陥がある。

まず第一に、各担当者は、経験年数が異なり、同質の仕事が与えられてはいない。次に、各担当者は、それぞれ兼務している業務があり、したがって、単なる件数のみの比較は、実はそれほど意味を持たない。また、とりわけ重要なことは、乙原証人は、この当時の補助参加人Eの健康状態を十分知りつつ、それを全く考慮に入れていない点である。

補助参加人Eの診断書や通院・入院状況からすると、補助参加人Eの場合、単なる風邪などと異なり、かなり無理をして仕事をしていたことが十分うかがえる。この意味でも、補助参加人Eを他の職員と数のみで機械的に比較することは適切ではない。

(5) 補助参加人Bについて<省略>

(6) 補助参加人Cについて<省略>

(7) 補助参加人Mについて<省略>

(8) 補助参加人Gについて

補助参加人Gの勤務状況に関し、原告は甲中四郎、戊本三郎の二名の陳述書を提出した。しかし、甲中、戊本両名の陳述は一〇年以上前の軽微な事例を全く証拠を示さず、ただら列するにすぎず、また、右両名が個々に指摘する問題点も、事実を歪曲したり、前後関係を意図的に無視したりするものが大部分である。

補助参加人Gの勤務成績が何ら問題がなく、むしろ成績が優れていたのである。

(9) 補助参加人Hについて<省略>

(10) 補助参加人Fについて

補助参加人Fの勤務状況に関し、原告はy、壬田の二名の陳述書を提出した。

yの陳述書は、補助参加人Fが頸肩腕症候群で病気治療を行っていたため、時間外勤務が規定によって禁止されていたことを意図的に無視した点に典型的に見られるとおり、補助参加人Fの勤務環境や職場状況を全く度外視している。

壬田陳述書も些細な事例を針小棒大に表現したり、事実を歪めた箇所も多く見受けられる。

補助参加人Fは、職業病を抱えつつ、平均以上の勤務成績をあげていたのである。

(11) 補助参加人Jについて

補助参加人Jの勤務状況に関し、原告は、の二名の陳述書を提出した。

補助参加人Jの勤務成績が川越・高崎両支店において最良の評価を得ていたことは、本店検査の結果や業務実績という客観的なデーターで十分証明されている。右二名の陳述書は、客観的データーを全く掲げず、これを意図的に無視し、事実を歪めた陳述に終始している。

(12) 補助参加人Dについて<省略>

第四  当裁判所の判断

一  争点1(法律上の問題点等)について

1  除斥期間について

(一) 第二、一、2のとおり、原告においては、昇格・昇給等は、昭和四一年度以降、当該年度の前年度一月に行われる査定(評価)に基づき、毎年度の四月一日に発令される。この昇格・昇給等に関する原告の決定は、対象から除外された職員を昇格させないという決定をも包含するものであるが、この行為は、右の事実に照らし、年度ごとに異なる行為であり、かつ、次の発令時期までの一年間に限り継続するものであると解するのが相当である。

これに対し、被告は、役職位の任用や毎年の等級号俸の決定は、その都度一回限りの行為であるとしても、ある年に、組合活動を理由に役職位や等級号俸について差別を受けたときは、翌年にもその影響が及ぶから、差別意思が認められる限り同法二七条二項の「継続する行為」に当たるというべきである旨主張する。しかし、最高裁平成三年六月四日第三小法廷判決・民集四五巻五号九八四頁は、昇給に関する考課査定において組合差別的な査定があった場合に、その賃金上の差別的取扱いの意図は、賃金の支払によって具体的に実現されるのであって、右査定とこれに基づく毎月の賃金の支払とは一体として一個の不当労働行為となるとみるべきであり、右査定に基づく賃金が支払われている限り不当労働行為は継続することになるから、右査定に基づく賃金上の差別的取扱いの是正を求める救済の申立てが右査定に基づく賃金の最後の支払の時から一年以内にされたときは、右救済の申立ては労組法二七条二項の定める期間内にされたものとして適法というべきであると判示しており、この判示に照らして考えれば、前記のとおりに解するのが相当である。

(二) 本件では、第二、一、7のとおり、救済命令の申立ては昭和六一年九月一三日であるところ、昭和六〇年一月の査定に基づき同年四月一日に発令された昇格・昇給につきその是正を命じた点(昭和六〇年度分)については、その賃金の最終支払時期は昭和六一年三月三一日であるから、それから一年内に救済の申立てがされたということができ、また、昭和六一年一月の査定に基づき同年四月一日に発令された昇格・昇給につきその是正を命じた点(昭和六一年度分)については、その賃金支払の継続中に救済命令の申立てがされたことになる。したがって、昭和六〇年度分及び昭和六一年度分については、救済命令の申立ては適法である。

また、昭和六二年一月の査定に基づき同年四月一日に発令された昇格・昇給につきその是正を命じた点(昭和六二年度分)については、この旨の是正を求める救済命令の申立ては、第一、一、6のとおり昭和六三年三月三一日にされているから、昭和六二年度分の救済命令の申立ても適法である。

一方、昭和五九年一月の査定に基づき同年四月一日に発令された昇格・昇給につきその是正を命じた点については、その賃金の最終支払時期は昭和六〇年三月三一日であるから、救済命令の申立ては一年の期間を徒過してされたものであって不適法である。

(三) よって、本件命令は、昭和五九年度における昇格・昇給の是正を命じた部分につき、労組法二七条二項の解釈を誤ったものというべきであるから、本件命令主文1及び2項の右の点に関する部分は取り消すこととする。

2  時機に後れた攻撃防御方法による却下の申立てについて

(一) 補助参加人らは、甲第二三七号証ないし第五〇七号証の提出は時機に後れて提出した攻撃防御方法であって却下するべきであるとし、その根拠として、本件及び被告委員会において人証による対象とならなかった補助参加人らの立証に関し、原告がその立証を放棄する旨の訴訟上の協定が成立したこと、本件では、平成九年一二月一六日(第一六回口頭弁論期日)までにすべての立証を終了して結審する旨の合意が成立したことを挙げる。

しかし、立証計画の策定段階における原告作成の平成九年二月三日付け「立証計画について」と題する書面をみると、原告は、人証により立証を行う補助参加人をO、K、I、E及びBの関係に絞るとした上で、「その余の者について陳述書等で対応する。」旨記載しているのであるから、その余の者、すなわち、本件で人証による立証の対象とならなかった者について、原告が立証を放棄する旨の訴訟上の協定が成立していたこと及び平成九年一二月一六日の期日までにすべての立証を終了して結審する旨の合意が成立していたことは到底認め難い。

(二) 次に、右各書証の記載内容等をみると、おおむね補助参加人らの勤務成績等に関するものであるといえるところ、本件の主たる立証事項、言い換えれば主たる争点の一つは、補助参加人らの勤務成績等についてであるから、右各書証はまさに本件の主たる争点に関するものであるということができる。したがって、原告が右各書証を提出した時点において原告による右各書証の提出がいまだ時機に後れたものであるとはいい難い。

補助参加人らは、書証の数が膨大であることを原告の訴訟遅延の目的の表れであるかに主張するが、本件では救済対象者が多く、それぞれに関する書証を提出すればそれなりに書証の数が増えることは当然というべきであり、補助参加人らの右主張は理由がない。

(三) 以上のとおり、原告の提出した甲第二三七号証ないし第五〇七号証の提出は、時機に後れて提出された攻撃防御方法に当たるとはいえないから、補助参加人らの申立ては理由がない。

なお、補助参加人らは、右各書証の提出は前記訴訟上の協定に反するからこれを却下するべきであるとの主張もしているが、本件では補助参加人らが主張する訴訟上の協定が成立していたことが認められないことは前記認定のとおりであるから、右主張も理由がない。

二  争点2の(一)(補助参加人らの活動に対する原告の嫌悪)について

1  被告は、本件命令において、原告が、国金労主流派として補助参加人らの行っていた先鋭的な組合活動並びに全国活会及び発展会における同様の活動を嫌悪し、そのゆえをもって同人らの職位・給与を同期同学歴者と比較して低位に処遇し不当な格差を生じさせた旨認定する。そこで、まず、補助参加人らの活動に対する原告の嫌悪が認められるか否かについて検討することとする。

2  原告の労使関係等について

原告の労使関係等につき、争いのない事実及び証拠により認定することのできる事実は、以下のとおりである。

(一) 補助参加人らがいわゆる国金労反主流派となる前の、原告と国金労との労使関係の経緯等

以下の事実は、特に証拠を挙示する部分以外は、当事者間に争いがない。証拠により認定した事実については、各項の末尾その他の箇所に証拠を挙示した。なお、争いのない事実でも、参照の便宜のために証拠を挙示したものもある。

(1) 国金労の結成と政労協への加盟

昭和二四年の原告の設立と同時に、原告職員を組合員とする従業員組合が発足したが、昭和二八年に解散するに至った。昭和二九年になり、原告における労働組合として国民金融公庫従業員組合が発足したが、昭和三二年の原告の「能率給」導入の提案のころから再び労使間の対立が始まり、昭和三七年五月国金労は、政府関係特殊法人労働組合協議会(以下「政労協」という。)に加盟、昭和三九年五月には国金労は定期大会において名称を国民金融公庫労働組合と変更するかたわら、同年一二月にはストライキを行った。

(乙一五五)

(2) 職務給反対闘争とK執行部

原告は、昭和四〇年二月一九日、国金労に対し職務職能給制度(事務職員給与の六等級区分、課長の勤務評定と正規分布理論の導入等)の提案を行った。

国金労は、これに対して「式勤評反対」の方針を掲げて、この正規分布による評定配分や課長勤評の導入などに強く抵抗した。結局、同年一二月一〇日に至り原告と補助参加人Kを本部執行委員長とする国金労(以下「K執行部」という。)との間で、正規分布の不採用、課長勤評を人事部にあげない等の妥協がなり、この給与制度にかかる確認事項の取決めもなされた。

この給与制度は、後記のとおり昭和六〇年四月一日に改定されるまで、その適用が続いた。

後記認定のとおり、このころ、補助参加人Kは本部の副委員長ないし執行委員長としてこの闘争の先頭に立ち、同Dは本部執行委員、同Aは武生支部副委員長、同Sは近畿地協事務局員、同Qは尼崎支部支部委員、同Oは福岡支部青婦人部長、同Iは豊橋支部支部委員、同Jは仙台支部支部委員として活動を行った。

(甲一三の一、二、乙八一二)

(3) 環衛公庫設置拒否闘争

昭和四二年七月、環境衛生金融公庫法が成立し、従来原告が取り扱ってきた融資対象業種のうち、一定業種(クリーニング、飲食、理美容、食肉販売、旅館等)は新設する環衛公庫が取り扱うこととされた。

国金労は、この環衛公庫の設立が、原告の分割を図り、かつ同業者組合の推薦貸付けによって中小零細業者を整理淘汰するものであるなどと批判して、署名活動や、ビラ入れ行動などによる反対闘争を行った。

(乙六二一(一九頁)、六二九)

なお、前記経過を経て環衛公庫は設立されたが、その貸付け・融資等の業務の大半は原告の受託業務となっている。(乙一(一一頁))

後記認定のとおり、このころ、補助参加人Kは本部副委員長、同Rは本部執行委員、同Sは南近畿地協事務局長、同Aは山口北九州地協事務局次長、同Bは堺支部委員長、同Qは大阪支部副委員長、同Cは金沢支部支部委員および青婦人部長、同Oは福岡支部書記長、同Dは東京支部支部委員、同Fは浜松支部支部委員、同Jは東北地協事務局次長、同Nは京都支部支部委員および青婦人部長として、各々前記闘争に関して、本部では企画・指導にあたり、支部レベルでは署名及びビラ入れ闘争の実施の先頭に立ち、また、同I、同H、同M、同E及び同Pも各支部において、支店管内の署名、ビラ配布に取り組んだ。(甲一三の四、五)

(4) 昭和四四年のストライキと都労委闘争

ついで、国金労は、賃上げや人員増加などを要求して、昭和四三年には一〇月と一二月にストライキを実施し、さらに昭和四四年には一一月一三日にストライキを予定したが、実施するには至らなかった。

国金労は、昭和四五年二月一〇日、昭和四四年一一月一三日のストライキにかかる原告の介入問題と支部の団交人数等の問題に関して、被告に対して不当労働行為救済の申立てを行ったが、この事件係属中に副調査役クラスの組合員を中心に五〇〇名を超える者による取下げを求める意見書が国金労本部に送られたこともあって、昭和四六年一一月に至り、昭和四四年のストの介入問題の話合いの継続と支部レベルでの団交人数等の合意がなり、労使間での確認書の交換をもって右事件は取り下げられた。(乙四五)

後記認定のとおり、このころ、補助参加人Aは本部副委員長、同Rは同執行委員、同Sは南近畿地協事務局長であり、いずれも本部役員として、これらの事件に対処した。

(5) A執行部の成立

昭和四八年二月の国金労定期大会において補助参加人Aを執行委員長とし、同Rを副委員長とするほか、同Qを南近畿地協の、同Gを北海道地協の、同Cを北信越地協の、それぞれ事務局長にすえる新執行部(以下「A執行部」という場合がある。)が成立し、同Aは就任挨拶で、前記のような一連の組合闘争を評価し、組合員の団結を訴えた。(乙七〇一)

この執行部は、同年暮れにはスト権を確立したが、札幌支店では副調査役組合員によって、支部大会におけるやりとり等についての組合情報が、原告側に漏洩されたとされるなどの労使間の軋轢も生じた。(乙五一ないし五三)

(6) 昭和四九年のストライキ実施及びオンラインシフト闘争

国金労は、昭和四九年四月一一日にストライキを打ち、この際札幌、青森、金沢の各支店では、ピケラインを巡っての軋轢、支店長ら役席と組合員との懇談やそこでの役席の言動問題等で、労使間の紛糾を招くこととなった。(乙二二ないし二五、二九、乙一三七七)

これを受けて国金労本部は、昭和四九年五月、前記各支店での紛争に関し、「不当労働行為を糾弾し、職場秩序を確立しよう」と組合員に訴えた。(乙六二)

また、原告は、昭和四九年六月、業務のオンライン化に伴い、事務センター職員の勤務について、事務センターの二四時間稼働の必要性などから、深夜勤務を含む変則勤務体制を導入することを国金労に提案したが、これに対して、国金労は、これは労働条件の大きな改悪提案であり、今後のオンライン化の進展によって各職場の労働条件に対しても悪影響を及ぼすおそれがあると反対し、団交にもその方針で臨んだ。

結局、提案から一年後の昭和五〇年六月には、この件は労働協約の見直しとともに妥結するに至った。

後記認定のとおり、以上のストライキ及びオンラインシフト闘争のころ、補助参加人Qは本部副委員長、同C、同O及び同Mは各々地協事務局長又は副事務局長であり、特にオンラインシフト闘争については、同Qは国金労側の責任者として直接原告と交渉した。さらに、後記認定のとおり、同K及びAは、原告のオンライン化を批判する行動を取った。

(7) 労災問題への取り組み

昭和四九年ころ、原告においては頸肩腕症候群のり病者が増え、当時の国金労の健康実態調査によれば、女子について要休養九〇名、要治療一四六名を数えていた。(乙九五)

補助参加人Dは、昭和四七年三月より大森支店に勤務していたところ、頸肩腕症候群を発病、昭和四八年一〇月以降病休となり、昭和四九年一〇月三〇日には、中央労働基準監督署に労災保険補償給付請求(以下「労災申請」という。)を行い、国金労も労組意見書を提出した旨機関紙で報告するなどして支援した。また、昭和五〇年一月一〇日には札幌支店においても、昭和四九年秋からこの疾病で病休中であった五名の女性職員がやはり札幌労働基準監督署に労災申請の手続を取った。(乙九七、九八)

ついで、昭和五一年一二月一三日には、津支店の女性職員iも津労働基準監督署に労災申請を行い、昭和五二年一月二五日には、本部と見解を異にして「支援しない」と決議した津支部に反発して「iさんの労災認定闘争を支援する会」(以下「iを支援する会」という。)も結成された。(乙一一〇、一一二、一一五)

このような労災申請闘争に先頭に立って支援したのは、補助参加人R、同Gであり、後には同Cも再審査の代理人となるなどの支援活動を行った。(乙二六四、一三八九)

しかし、札幌支店や津支店での支部レベルでの組織的な取組みは弱く、札幌ではこの「励ます会」による支援体制に支部が反発し、昭和五一年に本部に公開質問状を発することがあり、津では同年一二月末の支部総会で労災申請の支援が否決され、両支部ともかえって本部の支援方針に対決する姿勢を示した。(乙一〇七、一一五、八一五(資料一八))

(8) 人増闘争

国金労は昭和五〇年末から昭和五三年にかけて、職員の増員や金利引き下げ等を目指して、中小企業向けのいわゆる「人増ビラ」まき闘争を三回程企画し、初回は一一四支部が参加し、約二五万枚強が配布されたが、支部として組織的な対応をとらなかったところも一三支部に上った。この昭和五〇年のビラで国金労は、原告が「長期で金利が安く満足できる資金を」という中小企業の要望に応えていないこと、また、「公務員定員削減政策」が一方的に適用され、仕事は増えても人員はほとんど増えない状況にあり、「人員不足を主な原因として健康破壊が進んでおり、なかでも、首、肩、腕などにしびれ、痛みの出る『けいわん障害』という職業病も発生」していると訴えた。(乙六四五ないし六四七)

ついで、昭和五三年には国金労の予算要求に絡んで、原告における、人員不足に伴う「持ち帰り労働」の問題が国会でも取り上げられ、参議院大蔵委員会ではその是正を求める附帯決議や、衆・参両院とも同旨の請願が採択された(このような原告職員の人員増を目指す活動を、以下「人増闘争」という)。(乙一二二、一二三、一二五)

(9) その後の国金労の動向(いわゆる労使協調路線への転換)

国金労は、昭和五一年や五二年の大会では、オンラインによる人員削減反対や病人を出さない職場環境づくり、中小零細業者要求の尊重などと並んで、「アカ攻撃をはじめとする労組破壊策動をやめさせよう」をスローガンとするなど組織への危機感を強め、昭和五四年八月には、中央執行委員会名で機関紙「ちから」紙上に「「公庫」今度は代議員盗り」と題した訴えを掲載し、「代議員選挙に対する不当な干渉と介入などにみられる公庫の攻撃は、労働組合の自主性と労働者の基本的権利を侵害する不当労働行為そのものであり、決して許されるものではありません。」と組合員に訴えていた。(乙六九、六七三、六七四)

昭和五五年一〇月一日、同月開催予定の第五〇回定期大会を前にして、このころには国金労本部を離れていた補助参加人A、同Q、同G、Cら六名は連名で「ちから」に投稿し、当時予想されていた国金労のいわゆる「労使協調路線」への転換に言及し、「労働者・労働組合が、自分たちの権利や生活向上を主張せず、使用者の言いなりになるという意味では、『使用者追従』路線としたほうが、言葉の正しい使い方でしょう。では、なぜ、公庫側はかくも執拗に『使用者追従』路線を推進しようとしているのでしょうか。私たちは次のように考えます。…長年にわたり意図している賃金体系の抜本的改悪を実施し、総賃金源資を抑制するとともに、労働者一人ひとりを競争させ、権利を主張しない労働者づくりをしたい。」などと指摘した。(乙七〇七)

なお、この昭和五五年一〇月の大会での役員選挙において、補助参加人Eは同Cの推薦を得て執行委員に立候補したものの落選し、同Jの推薦した候補者も落選した。このように、この大会を契機に補助参加人らは「反主流派」ないし「少数派」の立場になった。(乙六七五)

(二) 補助参加人らが反主流派となった後の集団としての活動状況について

証拠(乙一四七ないし一五〇、一五四、一五九、一六一ないし一六四、一六六ないし一六九、一七二、二〇一、六二一、六七六、六八三、八〇九ないし八一一、八一三の二、一三四三、一四一五)によれば、補助参加人らがいわゆる「反主流派」となった後の集団としての活動状況につき、以下の事実が認められる。

(1) 全国活動者集会の結成

補助参加人Bは、支部レベルから本部への段階へと広がりつつあった、前記のような国金労の、いわゆる「労使協調路線」への転換への動きを懸念し、同Kと協議の上、全国の同様の考えをもつ組合活動家や同調者に呼びかけ、昭和五三年九月に大阪において「情勢をきりひらくための懇談会」を開催した。

この懇談会への参加者は、補助参加人K、同A、同B、同S、同Mら九名であり、各地の活動の経験を交流し、情勢の討議を行い、今後、国金労が取り組まなくなった原告従業員の要求を積極的に取り上げ、支援活動を展開することを申し合わせ、また、原告業務の変質にも危機感を強め、その対策も検討することとなった。

また、この会を全国活動者集会と称することとし、このほか、地域ごとのブロック活動者集会も組織され、同様の趣旨で討議、活動がされることになった。

(2) 労災認定の再審査請求

前記昭和五一年一二月に行われた津支店職員の頸肩腕症候群の労災認定の請求は、前記のとおり補助参加人R、同C、同Eらが熱心に支援していたが、昭和五五年四月に至り三重労働基準局から審査請求の棄却決定が出された。

この間、昭和五四年八月一一日から一二日にかけての第二回全国活会の集会(補助参加人A、同B、同S、同K、同M、同J、同G、同Cら一四名が参加)において、同Gから頸肩腕労災申請闘争にかかる報告があり、昭和五六年四月の第六回全国活会(同K、同A、同B、同S、同G、同C、同M、同E、同F、同J、同P、同N、同Lら二二名が参加)では、補助参加人らも参加する「iさんを支援する会」の組織、運動に対して「会員は一〇〇余名だが広がらず、かつ、転勤等で名前だけの人も多く、量的には後退している。事務局体制の弱さあり、『ニュース』発行も不十分だった。」などとする総括も行われた。

昭和五五年六月、この労災申請人iは労働保険審査会に再審査請求を申し立てたが、この際、四名の同僚のほか補助参加人R及び同Cが代理人となり、後には同Gもこれに加わった。

(3) 女性組合員の四等級不昇格問題

豊橋支店の補助参加人F、久留米支店の同P及び岡山支店のjの三名は、昭和五五年四月一日の勤務評定において、いずれも人事考課上の評語Cの評価を受け、昭和五五年度における四等級への昇格がならなかった。

この女性組合員三名は、いずれもこの評価に納得できず、同年八月、四月に遡って四等級へ昇格させるよう苦情処理申立てを国金労及び原告に対して行った。

全国活会では、昭和五五年一一月の第五回集会(補助参加人A、同B、同S、同K、同M、同D、同G、同C、同R、同F、同Pら二四名が参加)において、既に一〇月に結成されていた「F、P、jさんの不当差別反対の闘いを支援する会」(以下「Fらを支援する会」という。)に事務局を設けて全面的に支援することを決定し、この事務局長(対外的には連絡員と称した。)には、同Fの夫である同Eを充てた。この会は、昭和五六年一月二五日には、東海地協の組合員に対して、「苦情処理委員会での公庫のC評価の理由(ミスが多い、年休が多いなど)には断じて納得できない。」との訴えなどのビラ配布を中心とする支援行動を行った。

この苦情申立ては苦情処理委員会において容れられなかったが、その後昭和五六年四月の第六回全国活会では、三名が昇格するに至ったことを受けて、「Fらを支援する会」については、「すすめ方に問題はあったものの全体としては可とする」総括を行った。

一方、原告は、昭和五六年一月一四日の国金労との団交の席上、この苦情処理問題に触れ、「Fらを支援する会から、現在苦情処理委員会で審議されている事案について、いろいろと記述されたビラが各地に出回っているという事実があります。そしてこの支援する会の連絡先は浜松のE方となっています。…支援する会は誰が一体運営しているのか、支援する会のこのような行動は組合員としてやっているのか、さらに組織的に組合活動としてやっているのかを労組は明らかにしてもらいたい。」と国金労を問い詰めた。国金労の「国金労の下部組織ではないが…(会の実態については)ノーコメントです。」との回答にも、原告は「労組が明らかにしなければ、公庫の手において明らかにしても文句は言わないだろうな。」と、あらためて念を押した。

(4)  の職場復帰闘争

津山支店のは昭和五四年一一月から頸肩腕症候群により、病休に入っていたが、病状が軽快してきた昭和五五年五月から原告に対し職場復帰を願い出ていたが認められず、昭和五七年五月以降無給状態になった。

全国活会は、昭和五七年九月開催の第九回集会(補助参加人Cが呼びかけ、同K、同A、同B、同R、同S、同G、同C、同M、同D、同J、同N、同Lら二五名が参加)において、この問題を取り上げ、「支援する会」を組織して闘うことを確認した。

同会は、同年一一月には歴代の津山支店長のに対する対応や言動を糾弾する、全組合員を対象とした三〇〇〇通のビラを配布した。

また、昭和五八年五月にが復職した後の一二月には、本人や会の行動に批判的な国金労津山支部の総括に反論した小冊子を発刊し、「労組の取組めない闘いでもその要求の内容と要求を持った人の闘う決意によっては、(闘いを組織し支援会方式で)、展望をきりひらいていけることがあきらかになった」との見解を表明した。

(5) 「どこへ行く国民公庫」の発刊

全国活会は、昭和五六年九月開催の第七回集会(Kら補助参加人一四名を含む三二名が参加)においては、原告の現状を分析し改革を提言するパンフレットを作成して内外に訴えることを確認し、その後の各集会で議論を重ねた。その結果昭和六〇年一月には、「中小企業金融機関としての国民公庫が抱えている問題点とその原因を明らかにし、財政危機や行政改革が叫ばれるなかで、ややもすれば非効率論に支配されがちな政府機関―国民公庫―論に一石を投じたいということです。」と発刊意図を巻頭に飾った、「どこへゆく国民公庫」(Kが著者で、申込先は後記「発展会」又は補助参加人ら)を頒布し、原告の再生のためには、自己資本の充実や中小企業を重視した融資を求めるとともに、充実した融資相談のためにも原告職員の増員などが必要であると訴えた。

(6) 発展会の結成

前記全国活会は、昭和五六年四月の第六回集会ころから、副調査役ないし調査役任用に関し議論を重ね、また、前記のように原告の現状における問題点を分析し内外に訴えることも決定していた。

そして、昭和五八年一二月、補助参加人らは、Sを事務局長とする「国民公庫から不当な差別をなくす会準備会」の名で、原告を中小企業のための政策金融機関として再生させ、民主的な労働組合運動の再構築を目指す闘いが求められているとの認識のもとに、「私たちは不当な思想差別・活動家差別の是正を正面に据え、業務の民主化闘争と結合して運動を大きくもり上げていきたいと考えています。」と訴えたビラを配布し、同準備会への参加を呼びかけ、昭和五九年一月の全国活会の第一一回集会(Kら補助参加人一四名を含む三三名が参加)では、「国民公庫から不当な差別をなくす会(仮称)」を結成することを確認した。

昭和五九年七月二一日と二二日にわたり開催された第一二回集会(補助参加人全員を含む三八名が参加)に至り、発展会を正式に発足させることになり、同集会では、発展会は「国民公庫から不当な差別を一掃し、民主的で明るい職場をつくること、及び国民公庫を真に中小企業に役立つ金融機関とすることを通じて中小企業の発展に寄与すること」を目的とし、職員、元職員、原告の利用者、発展会の主旨に賛同する個人等で構成し、年会費は二〇〇〇円、役員は会長(補助参加人A)、副会長、事務局長とし、事務局を補助参加人S方とするなどの会則、活動方針等を決定し(乙一六一)、昭和六一年一月の第一四回集会(補助参加人ら全員を含む三〇名が参加)では、「全国活会」の解消と「発展会」への移行を決定した。

また、前記第一二回集会では、昭和五九年二月に国金労に提案のあった後記賃金体系の変更(六〇歳定年制の導入と給与制度の変更等)に関し、補助参加人A、同J、同Gら四名の連名による「『体系改悪』という重大事態に際して国民公庫に働く皆様に訴える」というリーフレットを配布(国金労機関紙にも同旨の記事が登載された。)したことなどについて活動報告もなされた。

(7) 発展会の活動状況

こうして結成された発展会は、昭和五九年七月二二日、Aら一七名及びの連名で、原告総裁に対し「不当差別是正の申入書」を提出するとともに、全職員を対象にした「訴え」と題するビラを配布した。

この「申入書」では、「同期採用の者の中位の待遇に是正し、昇格・任用おくれ等による賃金の差額を補償すること」、「男女差別をやめること」や、「今後、思想信条、組合活動を理由とする不当な差別を一切行わないことを確約すること。ならびに過去の不当な差別について謝罪すること」を原告に求め、また、職員に対する「訴え」では、各支店における組合活動家への職制の干渉の実態があるとした上で、発展会への入会を呼びかけるなどし、その後同会は昭和六〇年一月時点では一九七名に達した。(争いのない事実)

そして、同じころ、発展会はビラを配布し、選別融資を排除すること、中小企業を救う緊急融資制度を創設することの必要性と、公庫職員の賃金・職位差別の実態を指摘し、同会に勧誘した。

次いで、発展会は、昭和六〇年七月二六日、原告総裁あてに、融資対象企業の絞り込み問題、増資・金利問題のほか、超勤手当未払い問題等について公開質問状を発した。この中で発展会は、原告の次長・課長・調査役の時間外労働の実態と、その手当が課付調査役にのみ一率月八時間分しか支給されていない状況等を追及し、合わせて、前記の不当差別是正等の申入れから一年を経たにもかかわらず、何ら原告側の反応がなく甚だ遺憾であるとして、改めて回答を求めた。

なお、この間発展会は、「発展会ニュース」を八号まで発刊するとともに、原告本店ビル前での決起集会や職員や業者にビラ配布を行い、前記「どこへ行く国民公庫」の販売活動や支援カンパも募った。

また、発展会は、昭和六〇年一二月一七日、福山支店長に対し、会長補助参加人A、副会長同Bら二名及び事務局長同Sの連名で、同支店の(当時五二歳)の退職について支店職制の強要があったのではないかと、質問状を発した。

さらに、このころ、浜松地区において「浜松金融経済研究会」を補助参加人Eを中心に組織し、昭和六一年四月を手始めに金融自由化に関する学習会を開催した。

その後、発展会は、昭和六二年一月二九日にも、原告総裁に対し「公開質問状」を発して、当時世情を騒がせていた「売上税」問題などについて原告の立場を質した。

(三) 補助参加人らの集団としての活動等に関する原告の職制による言動等について

(1) 証拠(乙六三)によれば、前記のとおり、A執行部の成立を前にしたころ、原告の人事部長は、各部長及び支店長に、「新執行部が執行委員長追随の体質をもっている以上、『本部(地協)指令に無批判に従う』という支部体質を放置することなく、これを改善していく必要があると思われ、四七年度労務管理方針を踏まえながら、次のことも参考にして適確に対処して下さい。…労組は上級層に対して見切り論を提示しているだけに、良識ある職員の育成・拡充は益々重要となっています。たとえば労組が一斉職場集会等を開催する場合においては、参加者率を低くすることのみに焦点を合わせることよりも、むしろ『良識をもった組合員としてどのように考えて行動することが正しいか』との観点から職員を指導し、それが集会等の場にどのように反映していったかという過程が重要であると思われます。…労組は四八年度の組織方針として教宣活動の強化を掲げているだけに、各管理者は職場新聞にも注意を払い、問題とみられる内容表現がある場合には総括室、人事部と連携を保って適確に対処する必要があります。…」と指示したことが認められる。

(2) 証拠(乙四七)によれば、大阪の総括室(札幌、仙台、東京など全国八支店内にあり、管内支店間や本支店間の意思疎通、調整等が業務)も管内の各支店に、昭和四八年一月二三日、「本部三役の顔ぶれは、委員長・A、副委員長…と予想され、教条路線が懸念されます。一方、本年の国金労の旗開きには、共産党紺野与次郎、土橋一吉両代議士が出席したようで予想以上に共産党と密着しており、この二面から今年の労組路線が厳しさをますことが予想されます。従って執行部盲従の支部体質は極めて危険と考えられます。その意味で前記の支部役員、地協事務局役員には良識層の進出が促進されるよう重ねて配慮をおねがいします。」と指示したことが認められる。

(3) 証拠(乙四〇)によれば、前記昭和四〇年の「職務給反対闘争」が行われたころから八年間ほど労務担当理事の職にあったは、「政法連」昭和四八年九月号「政法連創立三周年を祝う」において、前記一連の国金労や補助参加人らの活動に関し、次のような見解を表明したことが認められる。

「国金労は昭和三七年に政労協に加入しました。四〇〇〇人近い組合員を擁して政労協に加入したことは大歓迎をうけ、幹部は発言権も大きく、…指導的立場を与えられ、先鋭化せざるを得ない立場に追いやられたものと思われます。間もなく国金労から政労協副議長を出したことからもその間の事情はうかがい知れるところであります。以後国金労は『斗う組合』を宣言し、急速に先鋭化し、政労協の先頭に立って行動するようになった訳です。…昭和三九年以降数年間は、毎年年中行事のごとくストが決行されました。こういう状態をどう打開して正常な労使関係を確立して行くかについて腐心した訳ですが、まず第一に着手したのが百十数カ所の支店の運営、ならびにその組合支部の委員会運営状況の実状把握でした。…そこで、その対策ですが、1 経営権の適確な行使、2 職場秩序の確立、3 企業における適正な人間関係の樹立の三項目にしぼって支店長会議、次長会議、課長会議を通じて執拗に管理者教育を繰り返し実施しました。当初はいたずらに組合を刺激するだけでさしたる反応もなく、その効果について疑問を持ったことも何度かありましたが、二年三年とその努力を重ねていくうちに、少数ではあるが組合に対する強力な批判層が生まれ、その輪が次第に広がり、ついには組合執行部の指示に盲従することはなくなりました。…」

(4) 証拠(乙六八)によれば、昭和五二年八月ないし九月ころ開催された全国支店業務関係課長会議において、本店人事部給与課長は、最近の労組の動向等に関し、「国金労(は)、労災認定闘争、江東リボン闘争においてみられた社会党代議士による圧力、人増ビラに見られる特定政党との結びつき等企業外での運動を志向し企業告発的姿勢が強い。しかし一方、組合内部からも健全な考え方が育っており、本部は弱体化した組織の建て直しに特に若手組合員教育に力を入れている。…現在の経済環境における労組のあり方について反省の色がない。若手職員指導、若者の意識等を特に問題点としてあげた理由は、…組合の中は若手が主力を占めているので問題提起をし、支店の実情を聞き、相互に今後の指導上にいかしていくためである。」旨報告し、これを受けて、大手町支店は、「若手職員が労組活動の中心になっているが、副調、上級職員が若手を指導せず、労組の活動に参加しないのではいけない。」と、また、千葉支店は、「労組サイドから若手層にアプローチがなされているので、インフォーマル、フォーマルを問わず、役席、副調が一体となって若手職員にアプローチしている。」と発言したことが認められる。

(5) 証拠(乙六〇四ないし六一〇)によれば、鹿児島支店長作成の「労働組合カード」につき、以下の事実が認められる。

ア 鹿児島支店長は、昭和五〇年度から五六年度にかけて、人事部長あての「マル秘」とされる「労働組合カード」を作成し、同部長に対して報告を行っていた。

イ 同支店長は、このうち昭和五三年度の同カードにおいては、支部の活動状況と今後の見通しと対策に関し、以下のように報告した。

「五二年度における体制は、が委員長となり、子飼いの組合員を操って何とかビラ入れ署名運動、G問題等に取組んだ。この間、副調査役は良識者の事務局体制を作り、良識者の拡大を組織的に進めた。

ビラ入れ書面運動では決議を取れる状態でないため委員長専決という型で一部が強行、G問題では委員会はもちろん三役には諮らず抗議電報を打つなど組織を無視した独走が見られた。これに強く抗議した副調をはじめとする良識層は同委員長の引責辞任を迫り、遂にこれを認めさせ八月二五日選挙を実施、を降ろして良識者による支部体制を固めた。…副調査役は良の事務局体制を作り、良の結束は強固である。より一層の連携の強化、意思統一により、さらに良の拡大に努める。副調査役はもとより良は仕事の上で強力なリーダーシップをとれるよう指導育成し、若手が尊敬し、組合の上でも追随してゆくようにする。」

ウ また、同カードには、この他支部役員の活動状況をも個別に触れており、新支部委員長については「良識があり、現執行部には強い批判をもっており、健全化の努力をしている。」とか、前記の前委員長である副委員長については「特定イデオロギーの傾向者、…前委員長として活動したが信用を失い、指導力、発言力弱化した。」などと報告した。

エ さらに、昭和五五年度の同カードにおいては、支部活動の概況や支店労務管理上の問題点につき、以下のような分析が行われた。

「『支部活動状況の概況』

(当支部の体質及び支部の動き)

昭和五三年度を境にして良識層の勢力が徐々に拡大され、優位を保つようになり、支部役員、代議員についても良識的組合員が占めるようになった。従って支部の体質は健全化に向かって一歩ずつ結実しつつあり動きも平穏に推移している。

(支部組合員の構成)

質的構成 良 男一八名、女九名、中間 男四名、女三名、不良 男五名、女三名

『支店労務管理上の問題点』

・ 一部の男子中堅非良識者と女子反良識グループは依然として権利意識が強く、支部リーダー層への不信感を煽って巻き返しの機会をうかがっており予断を許さない。

・ 一方最近の良識層優位の平穏ムードから従来結束を固めてきた良識層に諸情勢に対する判断、現状認識の甘さ等が若干感じられ、総会等での発言内容にも説得力が弱まってきているふしがある。

・ これらの点から副調を中心とした良識層グループの体制見直しと強化をはかり、役席が一体となって対話による意思疎通を密にし、理解を深めると共にこれまでの「力と数による抑え込み」から相互理解相互信頼へと「健全な組合づくり」を目指したい。」

(6) 証拠(乙七二)によれば、昭和五六年に開催された管理事務担当課長会議において、人事部から、国金労が昭和五五年の大会で労使協調路線を決定し、支部の体制も良識層が六〇パーセントを占めて変化していること、一方で、支援する会のような一部偏向分子の活動もみられること、無関心層が増え、労組活動に逃避的な支部もあることは、一部偏向分子に反撃のチャンスを与えることになるので十分注意することが指摘され、また、特に女性は視野が狭く、権利意識のみが強いので、職員指導を十分やる必要があること、その際、女性の良識層を通じて指導することも対策の一つであることが指示されたことが認められる。

(7) 証拠(乙七三)によれば、昭和五八年六月ころ行われた某支店での実地検査の結果に関し、本店は「労組は良識ある職員がリードしているが、権利意識の強いグループが存在しており、予断を許さない。」と、国金労支部の動向を分析したことが認められる。

(8) 証拠(乙七四)によれば、昭和五九年四月ころ開かれた某ブロック管理課長会議において、総括支店長が、当時前記のように提案されていた「定年延長と給与制度の変更」に関して、各管理課長は支店長と相談の上役割分担をし、職員が積極的に賛成するように働きかけることを指示したこと、その際、不当労働行為としてとらえられないよう注意するとともに、職員指導の結果は支店次長に報告し情報を共有するよう求めたこと、「積極的に賛成する職員を正攻法で増やしてほしい。(前記提案は)早期に妥結する必要がある。」とする一方で、「旧体質派は説得に応じることはない。組合民主主義で決着をつける必要がある。八〇パーセントで決着するためには今が山場である。支店長、次長と力を合わせてしっかりやって欲しい。問題のある職員は塩漬けにして多数をとり、早期妥結の声を本部にあげるようにして欲しい。」とまとめたことが認められる。

(9) 証拠(乙七五)によれば、昭和六〇年七月、支店長は「マル秘労組関係月例報告(六〇年六月分)」を人事部長あてに提出したこと、同報告書では、同月六日に夏期一時金、夏期健康管理休暇問題の分離妥結案を議題として国金労支部総会が開催されたこと、その場での司会者、各組合員の発言内容の要旨や「夏期休暇分離妥結については挙手により全員賛成」との支部の結論が記載されたことが認められる。

3  補助参加人ら個々の具体的活動状況及び原告の職制らによる言動等について

補助参加人ら個々の具体的活動状況及びこれに関する原告の職制らによる言動等につき、証拠により認定することができる事実は、以下のとおりである。

(一) 補助参加人Kについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和三〇年入庫、昭和三一年から昭和三七年まで本部執行委員(通算四期)、昭和三八年から昭和三九年まで同副委員長、昭和三八年国金労協(政府関係金融公庫の労組協議会)事務局長、昭和三九年政労協副議長、昭和四〇年本部執行委員長、昭和四一年から昭和四二年まで同副委員長、昭和四六年から昭和四九年まで仙台支部支部委員、政労協東北支部副議長、昭和四九年調査役に任用され組合員資格を喪失、平成四年定年退職。

(2) 組合活動の概要等

ア 執行委員長などの本部役員時

補助参加人Kは昭和三〇年三月に入庫後、本所を経て立川、王子支店で勤務するかたわら、昭和三一年からは本部の執行委員を歴任するに至った。そして、国金労の政労協加盟と同時にその副議長に就任し、昭和三九年には一一年振りのストライキを指導したが、当時は、前記のように原告が導入を図っていた職務職能給制度を「職務給」であると反発した国金労との間で導入の是非も対決点となっていた。

補助参加人Kは、昭和四〇年には本部執行委員長として、この「職務給」の導入阻止を目指し、同年二月に提案のあった給与制度の変更に対処して、結局、労使は一二月になって合意することとなった。

この結果について、国金労は、「職務給そのものの粉砕はならなかったものの、正規分布や課長勤評の撤回を勝ち取るなど、大きな成果が上がった」と総括した。(乙八二一資料5)

また、昭和四二年七月に環衛公庫設立法案が国会を通過して始まった同公庫の設置反対闘争については、同人は本部副執行委員長として、一二〇万人の国会請願署名と、一〇〇万枚のビラ入れ闘争に積極的に取り組んだ。(乙六二一(一九頁))

イ 仙台支部当時の活動と仙台支店長の言動

補助参加人Kは、昭和四四年の仙台赴任後、昭和四六年から四九年にかけては支部委員と政労協東北支部副議長を兼ねて活動していたが、このころには、「君を守る会」の会長に就任し、宮城県社会保険診療報酬支払基金での組合員の人権擁護闘争に参加したほか、仙台支部単独で、人員補充を要求してリボン闘争を行うなどした。

昭和四七年冬、仙台支店の支店長は、補助参加人Kをおでん屋に誘い、「私はこれから不当労働行為をやります。私は訴えられてもかまわない。これが私の仕事です。」と前置きしたうえで、労働運動から手をひくことを約束してくれなければ、三等級への昇格を推薦できない旨述べた。補助参加人Kは、支店長のこの忠告に感謝はしたものの、これを拒絶した。

ウ 調査役としての意見具申等

昭和四九年に静岡支店の調査役として任用された補助参加人Kは、昭和五〇年から事務機械化計画に伴う事務センターの勤務条件に関し、支店長や労務担当理事に、機械化のマスタープランを示すべきなどとする持論を伝え、所管部長に対しても、同センターの所長以下の三役人事の見直しを提言した。

その後、補助参加人Kは、昭和五一年には、長女の教育上の事情もあり、東京への転勤を希望したが、人事当局からは「影響力が大きいので絶対に帰さない」旨の意向が示され、この転勤希望はかなえられなかった。

エ 全国活動者集会及び発展会への関与

前記のように、補助参加人Bは、国金労の路線変換等の変質を危惧し、昭和五三年九月に大阪での「情勢をきりひらくための懇談会」開催を取り仕切ったが、これについては、当時静岡支店に勤務していた補助参加人Kは、同Bから、原告の当局は組織的に組合解体を進めてきている旨の相談を受けたため、同様の危機感を抱く者を集めて対策を協議する必要があるとの意見を表明して、Bを呼び掛け人にして同集会を開催することに積極的に関与した。

補助参加人Kは、昭和五三年九月一六日、同月一七日の両日開催された前記の第一回全国活会から参加し、国金労の大きな節目となった、昭和五五年の国金労大会後の同年一一月に開かれた第五回集会では、国金労内で少数派に転落した現実を踏まえ、今後、個々の労働者の権利や悩みを取り上げることとし、当面、先にふれた、当時持ち上がっていたFら三名の不昇格問題を支援することとした。

その後、原告は、昭和四〇年の給与制度の全面改訂から二〇年を経過した昭和五九年二月に再び大規模な給与体系の改正を提案し、補助参加人A、同J、同Gをはじめ四名の全国活会のメンバー(後に発展会会員)が同年六月に「体系改悪反対」のリーフレットを発行したことは、先にみたとおりであるが、補助参加人K(昭和五五年からは浜松支店勤務)も、この昭和五九年六月の国金労定期大会に書簡を送り、今回の改訂は部分的手直しの形はとっているが、それは改悪であると訴えた(乙八二一資料13)。

前記のとおり、全国活会においては、昭和五六年以降原告業務の変質を憂え、現状を討議・分析し、昭和六〇年一月には発展会会員であることを明記したうえで、補助参加人Kの著者名で「どこへゆく国民公庫」を発刊した。

その後、補助参加人Kは発展会に参加した。

オ 原告総裁への要請と元労務担当理事の言動

昭和六三年三月二日、当時の総裁が浜松支店を視察のため訪れた。その際、同支店所属の補助参加人K、補助参加人H、同Fの三名は総裁との面談を申し入れたが、果たせず、この三名を含む一九名について不合理な賃金差別を是正すること、公庫融資の選別基準を見直し小零細業者に対する融資を拒まないことなどを訴えた要請書を提出するに止まった。

平成三年一〇月、補助参加人Kが知人の葬儀に参列しての帰路、車中に二人きりとなった前出の元労務担当理事のは、すべて終わった過去を振り返るような面持ちで、「Kをクビにしようとしたがうまくいかなかった。」などと述懐した。

(乙六二〇、六二一、六七六、八二一、一四一五ないし一四一七)

(二) 補助参加人Aについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和三二年入庫、昭和三五年津支部支部委員・代議員、昭和三六年同支部委員長・代議員、昭和三八年武生支部支部委員・代議員、昭和三九年同支部委員長・代議員、昭和四〇年支部副委員長、昭和四一年福岡支部支部委員、昭和四二年同副委員長、昭和四三年から昭和四五年まで山口北九州地協事務局次長ないし事務局長、昭和四六年本部副委員長、昭和四七年同書記長、昭和四八年同執行委員長、昭和五二年から昭和五六年まで公庫厚生年金基金代議員、昭和五六年から昭和五七年まで中高令者対策委員会委員、平成五年定年退職

(2) 組合活動等の概要等

ア 国金労本部での活動歴

補助参加人Aは、前記のとおり昭和三二年に入庫以来、津支部次いで武生支部で役員を務めたが、昭和三九年四月には、そじょうに上がっていた「職務給」に関して「ちから」紙上へ投稿して、原告が実施している能率給は完全な意味でのそれではなく、差別給であり、賃金管理というより労務管理を狙ったものであるなどと批判した。

補助参加人Aは、前記のとおり、昭和四六年以降本部執行部に登用され、昭和四八年二月に開かれた定期大会では執行委員長に選出されたが、そのあいさつの中では、職務給闘争や環衛公庫闘争、そして都労委闘争にふれながら、「公庫側のきびしい、しかも巧妙な労務管理という攻撃をうけ、私たちの統一と団結を守っていくことは、これまでのような対応ではもはや太刀打ちできなくなってきています。」と訴えた。

さらに補助参加人Aは、「ちから」紙上において、同年四月に、前記一連の闘争が組合員の自覚を高める闘いの典型であったと評価する一方で、同年五月には、全国の部・支店長に対し、労働条件について支部委員会と団交などを通じて十分話し合うことや、支部の組織運営に対し不当な干渉などのないよう申し入れる旨の見解を表明した。

そして、この執行部は、同年暮れには一時金問題に関して四年振りのスト権確立に向け、国金労を率先指導し、また、同じころ札幌支店での副調査役による支部総会の漏えい事件につき抗議するなどの行動をとり、一方、原告の人事部や大阪総括室から各支店あてに、この執行部に対する対処方針が示されたことは先にみたとおりである。

イ 福岡支部等、全国活会及び発展会での活動

その後、本部役員をおりて福岡支部に復帰した補助参加人Aは、当時公庫が進めつつあった業務のオンライン化やそれに伴うシフト(変則勤務制)に疑念を抱き、昭和五〇年六月には、「ちから」に投稿し、原告がそのマスタープランを示し職場で議論を深めるよう訴えた。

補助参加人Aは、昭和五三年九月を第一回とする全国活会に当初から参加し、一度も出席を欠かすことはなく、昭和五五年三月の集会では、「不当労働行為闘争の総括と今後の展望」と題して報告を行った。また、前記のとおり昭和五五年一〇月の国金労大会に向けては、補助参加人Q、同G、同Cらとともに「公庫の労働組合への介入を許さず、一人ひとりが自由に支部総会等で発言できるようにしましょう。…公庫に追従せず、働くものの立場にたち、一人ひとりの要求を大切にして行動する人を組合役員に選びましょう。」などと訴えた。また、昭和五九年には、同年二月に原告から提案された新給与制度に関し、号差金額の「しだれ(逓減制)」などを批判したリーフレット(補助参加人Aら四名の連名)を発行、配布し、新給与制度による中高年の賃金への悪影響を訴え、このことに関して全国活会第一二回集会において報告されたことは、先にみたとおりである。

その後、補助参加人Aは発展会に参加した。

ウ 補助参加人Aに対する支店課長らの言動

昭和五一年三月、福岡支店の審査課長は、松山支店への転勤を間近にした補助参加人Aを喫茶に誘い、「Aさんも労働組合の方では頂点を極めたのだから、転勤を機会に労働組合を卒業して一つ頑張ってみてはどうですか。何なら、私が松山の支店長に電話をしてもいいですよ。」と言った(乙一四一八(一五丁裏))。

そして、同年、赴任後の松山支店でも、次長は補助参加人Aに対し、「Aさん、組合、組合って、若い者と一緒にやるような時期じゃもうないだろう。労働組合をもう卒業しただろう、もういいんじゃないの。」と言い、後日も念押しした(乙一四一八(一六丁裏))。

また、昭和五五年一〇月一六日、前記労務担当理事は、補助参加人Aを含めた松山支店での職員との懇談会で、労働時間の弾力的な管理が話題となった際、「わしは、最近どこへ行っても労働組合の話をすると、元委員長のA君のことを話す。一度フレキシブルな労働時間の設定を考えたことがあるが、A君のような考え方を持っている役員が本部にいて、なかなかそういう意見には賛成してくれそうにないので、この提案については出さないでおる。」と言った。

(乙三四ないし三六、四八、五一ないし五三、六三、六五、六七六、六九五、七〇一、七〇二、七〇七、一三七七ないし一三八一、一四一八、一四一九)

(三) 補助参加人Jについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和三九年入庫、昭和四〇年仙台支部支部委員、昭和四一年同支部書記長、昭和四二年同代議員、昭和四三年東北地協事務局次長、昭和四五年松本支部委員長、昭和四六年から昭和四八年まで同役員、昭和四九年から昭和五二年まで北信越地協事務局次長ないし事務局長、昭和五二年本部副委員長、昭和五三年同書記長、昭和五四年同副委員長。

(2) 組合活動の概要等

ア 仙台支部や国金労本部などでの活動

補助参加人Jは、昭和三九年に入庫して以来、仙台及び松本支部で書記長、委員長、地協の事務局長などを歴任したが、仙台支部での書記長時代には、昭和四一年一〇月のストライキにおいて、支店長らと支部との間であつれきがあり、半年程同支店の労使関係は紛争状態にあった。

その後、昭和五二年一〇月からは本部役員として活動していたが、本部副委員長就任時には、業務研究部長として、労働条件の改善等を担当し、前年までの二度にわたる「人増ビラ入れ」闘争に換えて、国会への請願行動に取り組むこととなった。そして、昭和五三年の通常国会の参議院大蔵委員会では、進学資金貸付制度の発足に関連して、原告の事務処理体制が取り上げられ、国金労側が人員不足による「持ち帰り労働」や頸肩腕問題等について陳述したこともあり、同年六月の法案可決の際には、政府が人員の配置を含む事務処理体制の整備について充分配意し、適切な措置を講ずるよう附帯決議が採択された。

原告も、同月中には各支店に対し「持ち帰り労働」の禁止を指示するなどの対応をとるに至った。

イ 全国活会及び発展会への参加

補助参加人Jは、全国活会には、昭和五四年に開催された第二回から参加し、昭和五五年七月に開催された第四回集会では活動の現状について報告し、また、昭和五九年には、二月に原告から提案された「新給与制度」に関し、号差金額のしだれなどを批判したリーフレットを発行し、新給与制度による中高年の賃金への悪影響を訴え、このことが同会第一二回集会において報告されたことは先にみたとおりである。

その後、補助参加人Jは、昭和五九年七月に発足した発展会に参加した。

ウ 補助参加人Jに対する支店長の言動

補助参加人Jが北信越地協事務局長をしていた昭和五一年ころ、松本支店の支店長は、補助参加人Jが副調査役への任用が遅れていると面接時に訴えたところ、補助参加人Jに対し、総じてよく仕事をやっているが、公庫の方を向いて仕事をするように言った。

また、川越支店においては、支店長が、同人に「お前は反体制派だ、『国会闘争』なんかして公庫に大変な迷惑をかけた。お前は大物だ。おれの力なんかでは評価を変えられない。お前の評価を変えられるとすれば、総括支店長ぐらいだろうな。」などの話をした。

(乙八七の一、一二二、一四八の四、一四九、一五〇、一七三、一七六ないし一八〇、一三八二ないし一三八五)

(四) 補助参加人Oについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和三九年入庫、昭和三九年福岡青婦人部長、昭和三九年から昭和四四年まで代議員(四期)、昭和四〇年から昭和四三年まで同支部委員、昭和四四年同支部書記長、昭和四五年同執行委員長、昭和四五年松江支部支部委員、昭和四六年代議員、昭和四九年から昭和五〇年まで中国地協事務局長、昭和五七年佐世保支部委員・代議員。

(2) 組合活動等の概要

ア 福岡支部における活動など

補助参加人Oは、昭和三九年四月に入庫し、福岡支部では同年中に青婦人部長になったのを手始めに、支部委員、代議員、書記長を経て昭和四五年には支部執行委員長に就任した。

この間、補助参加人Oは、昭和三九年九月の佐世保の原潜阻止集会に若手組合員とともに参加したり、前記同年一二月の一一年振りのストライキには、ピケの先頭に立つなど活発な活動を行っていたところ、翌四〇年六月の原告創立記念パーティーの席上、福岡支所長から「君は採用するつもりはなかった。」と言われた。補助参加人Oは、入庫時にも当時の支所長から同旨の話があったので、「二年続いて支所長から同じことを言われました。私が何か悪いことをしたのでしょうか。」と聞き返したが、同支所長からは何の返事もなかった。

補助参加人Oは、その後も同支部において、昭和四一年には所長がネームプレートの着用を強制した点に関する問題、昭和四四年には三六協定闘争等の運動を手掛けた。

イ 中国地協事務局における活動

ついで、補助参加人Oは昭和四五年三月には松江支店に転勤となり、昭和四九年には中国地協の事務局長となり、当時支部と新任支店長との間で紛議を招いていた支部集会の妨害問題や配置転換問題などについて、支部を支援し、同年開催の国金労定期大会で経過の報告と反省点の指摘を行った。

ウ 久留米支部における活動

補助参加人Oは、昭和五一年一月には久留米支店に転勤となったが、同支部においては、昭和五三年四月に後記のようにメーデーの参加者指定等の問題を巡って支店と支部、特に補助参加人Pを中心とする青婦人部との間であつれきを生じた。

この件に関し、補助参加人Oは支店通用門付近で、他の組合員から、これを報じた支部の「青婦人部ニュース」は補助参加人Oの差し金であるとの趣旨のことを言われ、同人は「(この闘争は)青婦人部の正当な組合活動である」と反発するなどして大声での口論になることがあった。

エ 佐世保支部における活動と支店次長の言動

補助参加人Oは、昭和五六年以降の佐世保支部時には、昭和五七年一〇月の国金労定期大会で代議員として出席し、同年度の国金労の要求に関して、八割近くの支部が要求を出していない事実を指摘し、「支部には組合がないのではないか。そういった意味からいえば、国金労の危機的状況であるし、非常事態宣言を発するような事態になるのではないかと思うのです。」と発言したが、他支部の代議員からは、ここ二、三年の労使協調路線が現場に伝わり、労使間のコミュニケーションが良くなっているなどの反論があった。

なお、佐世保支店の次長は、前記の大会への出席を前にした補助参加人Oに対して、「君が転勤してきたころ、支店長から、君を調査役に推薦しようかとの話があったが、『一年様子をみてみましょう。』と言っておいた。」と言った。そして、同人が大会から戻った直後には、同次長は、「これで昇格の道がなくなった。」と言った。

オ 全国活会および発展会における活動など

その後、補助参加人Oは、全国活会については、九州プロックの活動者会議に出席する一方で、全国レベルでは、昭和五九年一月開催の第一一回集会から参加し、同年七月発足の発展会にも結成時から参加した。

なお、前記大会以降国金労役員としての活動歴はなく、昭和六一年三月には、支部委員会に一〇項目の要求案を提出したものの、同委員会でことごとく否決された。

(乙六七六、八一九、一一二一)

(五) 補助参加人Rについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和四〇年入庫、昭和四一年王子支部支部委員、昭和四三年から昭和四六年まで本部執行委員、昭和四七年から昭和四八年まで同副委員長(健康対策部長)、昭和四九年千住支部副委員長、昭和五〇年沼津支部代議員、昭和五四年大宮支部副委員長、昭和五四年から昭和六〇年まで公庫厚生年金基金互選理事

(2) 組合活動の概要等

ア 本部役員時代の活動

補助参加人Rは昭和四〇年に入庫後、王子支部や千住支部で支部委員や都内近郊青婦人部幹事などを務めた後、昭和四三年からは本部役員となり、主に健康対策担当として職業病の問題に取り組んだ。

昭和四五年には合理化対策部長として、五月には「事務系労組職業病討論集会」、九月には「職業病全国交流集会」をそれぞれ責任者としてとりまとめ、また、このころには、当時問題となりつつあって、国金労の大会宣言でも取り上げられた頸肩腕症候群問題を含め、「健康実態調査」を同年以降実施することとし、全職員を対象にアンケート調査を行い、その分析を開始した。

翌昭和四六年三月に補助参加人Rは執行委員として四選されるが、「ちから」紙上の新役員(ほかに補助参加人A副委員長、同S南近畿事務局長ら)の紹介欄では、「合対部長として、『職業病』の権威で、政労協でも彼の右に出るものはいない。」と評され、また、同人は業務研究部に所属し、同年八月には腱鞘炎をメインテーマにした「わたしたちの健康をまもるために」と題するパンフレットをまとめ、発刊した。

この中では、原告の介入の例として、とある支店で、役席が組合員の自宅を訪れ、「(組合員が)共産党の病院へ行っているのを知っていますか。」「このままでは公庫にいられなくなるかもしれない。」などと親を説得したことを指摘していた。

さらに、本部副委員長に就任した昭和四七年にも新設の健康対策部長として、「けんこう」と題するニュースを随時発行し、り病者の悩みなどを取り上げた。

イ 頸肩腕症候群の労災申請にかかる活動と支店長の言動

前記のとおり、昭和四九年一〇月以降、大森支店や札幌支店では頸肩腕症候群を理由とする労災申請が相次いだが、昭和五一年一二月には津支店の女性組合員iがやはり頸肩腕症候群が業務上によるものとの認定を求めて、労働基準監督署に労災申請を行った。

このころ沼津支店に在籍していた補助参加人Rは、この労災申請に関し、津支店へオルグに行ったことがあった。その際、沼津の支店長は、帰ってきた補助参加人Rに対して、「津に行ってきたのか。お前のそういうところでの発言は、自然に耳に入ってくる。そういうところで色々いうから有名人になりすぎるのだ。」と言った。

同支店長は、その後昭和五二年七月の補助参加人Rの転勤を前にして、「お前は、あまり有名人になりすぎている。考え方を少し変えたらどうだ。」と諭した(乙一三八九(二六丁裏))。

ウ 全国活会及び発展会への参加

補助参加人Rは、全国活会には昭和五五年三月の第三回集会から参加しているが、前回の集会では頸肩腕症候群の労災申請について補助参加人Gから報告があり議論されたのは、前記のとおりである。

そして、前記iの労災申請に係る業務外決定に対する再審査請求に当たり、昭和五七年六月にはCら五名とともに代理人として労働保険審査会あてに、「この決定は、請求人の主張説明に充分に耳を傾けた内容となっておらず多くの問題点がある。」との趣旨の意見書を提出した。

また、補助参加人Rは五九年七月の発展会発足以来の同会会員である。

(乙一九一、一九九、二四五、二四七、二四八、二五二、二五三、二五七ないし二五九、六七六、一三八九ないし一三九一)

(六) 補助参加人Gについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和四四年入庫、昭和四五年札幌支部支部委員、昭和四七年から四九年北海道地協事務局次長ないし事務局長、昭和五〇年本部副書記長、昭和五一年同書記長、昭和五二年北海道地協事務局(健康対策部長)

(2) 組合活動等の概要

ア 札幌支部及び地協での活動と支店長の言動

補助参加人Gは、昭和四四年四月に入庫し、札幌支店に勤務することになったが、札幌支部では、当初職場新聞「時計台」の編集に参加し、翌昭和四五年三月には支部委員に選出され、引き続き機関紙の発行に携わり、また、前記の都労委闘争の傍聴への動員などに取り組んだ。

そして、同人は、翌四六年からは活動の場をおおむね北海道地協に移し、昭和四七年にはその事務局長として大会で選出され、職業病問題等について積極的に取り組んでいくことになる。

この時、補助参加人Gは、昭和四八年初春の「ちから」に掲載された事務局長談話において、「人増、健康、勤評、転勤等について、労働組合としての方針をはっきりさせて大きく闘っていくべきである。また業務問題について、政策立案能力のない公庫理事者に代わり、労働組合の主体的政策を出していくことを今年の大きな課題としたい。」と訴えた。

この記事を知った札幌支店長は、「あなたの文章が一番きつい。人事部からも注意があった。今後のためにもならないので、十分注意するように。」と補助参加人Gを諭した。

また、補助参加人Gが事務局長としての二期目にあたる昭和四八年一一月には、副調査役の組合員が支部総会の内容を支店長に報告するという事件があり、支部四役と相談の上、支部は当該組合員を事情聴取の上支店側を追及する事態となった。補助参加人Gは、後日「ちから」紙上で、この「札幌問題」は原告の政策的な不当労働行為であるとの趣旨の指摘を行った。

補助参加人Gは、このころから目立ち始めた頸肩腕障害などの職業病に着目し、昭和五〇年一月に札幌労基署に労災申請のあった五名の支部組合員の代理人となった上、労働組合意見書を作成し、また、支部及び地協の役員や有志で結成した、札幌支店の頸肩腕症候群患者を「札幌・けいわん患者を励ます会」の事務局長として、署名運動等の支援闘争を行った。

イ 本部執行部での活動

昭和五〇年三月補助参加人Gは、本部に新設された副書記長に、翌昭和五一年には書記長として各々選任された。

この間、昭和五〇年秋の大会では、前記労災申請に対する、東京中央及び札幌の各労基署の「業務外決定」の取消しを求める決議がなされ、補助参加人Gも副書記長再選に当たっての抱負として、「ちから」紙上で、組合員の健康を守るために精一杯頑張る旨述べた。そして、前出のように「人増ビラ闘争」に取り組むほか、昭和五一年七月には、補助参加人Gは本部執行委員長を伴い、札幌の労災申請闘争について本部も支援していた前記の「励ます会」と運動のあり方で微妙な食い違いを呈していた同支部組合員の説得に努めた。

一方、国金労は、昭和五一年には引き続き人増闘争を行い、秋には、公庫労協との統一行動として、賃金闘争の一環で「リボン闘争」を行ったが、補助参加人Gも「ちから」などで教宣活動に意を注いだ。

その後も、補助参加人Gは前記労災認定闘争に引き続き取り組み、札幌支部の四名に関しては、昭和五二年三月の審査請求の棄却を受け、同年五月になされた労働保険審査会(中央審査会)への再審査請求にあたっても代理人となり、後記のように、本部退任後もこの闘争に携わった。

ウ 北海道地協に復帰してからの活動と理事らの言動

昭和五二年一一月補助参加人Gは、専従期間が明けて札幌支店に復帰し、北海道地協の事務局員(健康対策部長)として活動し、「ちから」紙上に「職業病のはなし」を連載した。また、前記「励ます会」の事務局長にも選出され、翌五三年一月には、労災申請を行ったDを招いて、職業病の学習会を主催した。

このころ、直属の上司である監理課長は、補助参加人Gに対し、「考え方は違うがあなたの言っていることとやっている活動は筋が通っていて立派だ。」と言った。

補助参加人Gは、札幌支店に復帰後、労災申請の代理人をやっているなどを理由に残留を訴え、支店長もこれを受けて人事部にもその旨伝えると言っていた。ところが、翌昭和五三年二月に東京で行われた健康保険組合会終了後の懇談で、同席した理事は、補助参加人Gに向かって「お前は飛ばしてやる。」と言い、驚いた同人は「それはひどいではないですか。」などと強く抗議した。

原告は、同年七月三日に補助参加人Gに対し酒田支店への転勤を内示するに至り、同人が総裁に抗議の電話をしたところ、総裁は、「(補助参加人Gの転勤問題は)理事のやっていること。」などと言った。

同月六日には、人事部から人事部特命調査役が札幌支店に来店し、補助参加人Gと面接して、「今回の転勤は、組合中心の考え方から業務中心の考え方に改める良いチャンスだと思って出した。何とか酒田へ行ってもらえないか。将来のためにも考えた方がよい。」と説得に努めた。

この間、国金労本部と北海道地協は、前記補助参加人Gの転勤問題について内示の撤回運動を展開したものの、札幌支部自体はこの問題に取り組まなかった。

エ 酒田支部や全国活会、発展会における活動

前記のような紛糾があったものの、補助参加人Gは昭和五三年九月に酒田支店に転勤となり、支部では役員になることはなかったが、札幌支部の労災認定闘争を始めとする職業病については、引き続き積極的に関与し続け、前出のように同年一〇月に開かれた、労災再審査請求の公開審理にあたっては、代理人として原告の合理化や頸肩腕症候群の発生原因などについて意見陳述を行った。

補助参加人Gは、昭和五四年八月の第二回の集会から全国活会に参加し、その場で前記の労災認定闘争や、配転撤回闘争について報告を行った。また、前記のように国金労の転機となった昭和五五年一〇月開催の五〇回定期大会を前に、全組合員に対して、補助参加人Aらとともに「労使協調路線」を批判するアピールを行った。その後昭和五八年には、津支部組合員の頸肩腕症候群の再審査請求に係る審理でも、代理人として意見陳述を行った。

昭和五九年発足の発展会には、結成当初からの会員である。

この間、昭和五九年には、原告提案の「新給与制度」を分析したリーフレット(補助参加人Gら四名の連名)を発行し、特に新給与制度による中高年の賃金への悪影響を訴え、このことが同会第一二回集会において報告されたことは先にみたとおりである。

(乙五三、六五、六六、九八、一〇〇、一〇一、一二〇、六七六、七〇七、八一五)

(七) 補助参加人Nについて

(1) 主な組合役員歴

昭和四一年入庫、昭和四二年から昭和四五年まで京都支部支部委員・青年婦人部長(二期)、昭和四七年同支部代議員、昭和四八年同副委員長・北近畿地協事務局書記長、昭和四九年武生支部代議員、昭和四九年から昭和五二年まで武生支部書記長、昭和五三年から昭和五四年まで奈良支部代議員

(2) 組合活動等の概要

ア 京都支部における組合活動など

前記のように、補助参加人Nは、昭和四一年に入庫して以来、京都支部で青婦人部長や副委員長などを務め、組合員個人として、コンピューター導入による労働条件に及ぼす弊害を指摘した資料を作成するなどしたほか、昭和四五年ころには、支部の内部組織である「明るい職場をつくる会」に参加して、当時の支店側の、施設管理権を楯にした施設利用の制限を批判した。

また、昭和四七年からは北近畿地協事務局員として、同年九月に大津で開催された「組合学校」の準備実行委員となり、当日の全体会議(ネームプレート着用や腱鞘炎等の健康問題等がテーマ)の議長も務めた。

イ 武生支部における組合活動など

補助参加人Nは、昭和四八年七月には武生支店勤務となり、翌四九年には支部書記長に選出され、昭和五二年まで通算四期にわたってこれを務めた。

この間、昭和四八年一一月一三日(昭和四四年のストが中止となったこの日を「権利の日」と称していた。)の勉強会では、労働協約等を解説した資料を作成し、当日の司会も務めた。

また、昭和五〇年六月には、同支店において女子職員を当時の労働協約による原則を超えて超過勤務させていたことについて、補助参加人Nら支部側は団交でこれを追及し、支店側が謝罪する事態も生じた。

そして、補助参加人Nは、昭和五一年から職場新聞「たけふ」を発刊し、団交の内容や、労基法、労組法等の労働条件にかかる諸法規を紹介して、支部組合員に対し、職場討議への題材を提供した。

ウ 補助参加人Nに対する武生支店長らの言動

武生支店の支店長は、昭和五二年七月の人事異動に関し、補助参加人Nに奈良支店への内示を行った後、「人生いろんな生き方がある。出世を求めない生き方もある。」と話した。

また、同人が昭和五七年三月宇都宮支店に赴任した際、同支店の直属の上司に当たる管理課長は、同人に対し、「労働組合、相当頑張っているようだけれども、若い者をあまり教育しないでもらいたい。」と言った。

エ 全国活会及び発展会での活動等

補助参加人Nは奈良支部で昭和五三及び昭和五四年の両年代議員に選出されることはあったが、役員に復帰することはなかった。

その後、全国活会には昭和五五年七月に開催された第四回集会から参加し、発展会には昭和五九年七月の発足時から参加している。

(乙二九一、二九五、二九六、三〇〇、三〇三ないし三〇五、三〇九ないし三一一、三一三、三一五、三一六、六七六、一三八九ないし一三九一)

(八) 補助参加人Lについて

(1) 主な組合役員歴

昭和五三年入庫、昭和五三年から昭和五四年まで守口支部支部委員・青年婦人部長、昭和五四年から昭和五六年まで南近畿地協青年婦人副部長ないし同部長、昭和五六年東大阪支部代議員

(2) 組合活動等の概要

ア 守口支部での活動など

補助参加人Lは、昭和五三年に入庫し、同年九月以降前記のように守口支部で支部委員や青婦人部長などを務めた。

そして、昭和五四年二月には、国金労(南・北近畿地協)主催のスキーツアーが企画され、補助参加人Lは、レクリエーション担当として準備と募集にあたっていたが、たまたま原告の大阪総括室の昭和五三年入庫組に対する研修がこのツアーとかち合ってしまった。この事態に対し、両地協は、支店への開催通知がツアー直前になされるなど、原告側が研修を意図的に国金労のこのレクリエーション活動に当ててきたのではないかなどとの趣旨の声明文を発し、それを「ちから」にも掲載した。さらに、補助参加人Lは、自身に対する前記研修通知を南近畿地協の事務局長に持たせ、同人を通じて大阪総括室に対して抗議をするという行動を取った。

イ 補助参加人Lに対する支店課長の言動

このころ、守口支店のA幕管理課長は、補助参加人Lに対し、「業務命令としての研修に行かないのか。スキーに参加するなら、今後あなたへの対応を変える。」と言った。補助参加人Lは、同管理課長に対し、その趣旨を記載した文書の交付を要求したが、実現されなかった。

同管理課長は、これに先立つ昭和五三年の九月にも、補助参加人Lが支部の役員の引っ越しを手伝うため年休を申し出たとき、「そいつの引っ越しと仕事とどっちが大事なのだ。あなたは、今後の公庫を担う幹部として採用しているのだから、あまりあいつらと付き合うな。」などと言った。

また、昭和五四年の春には、大阪総括室の上席調査役が同支店を訪れ、補助参加人Lに対し、「あなたを公庫に入れたのは間違いだった。」と言い、同人が何が間違いなのかと問い詰めると、上席調査役は「あなたの胸に聞いてみろ。」と答えるだけであった。

ウ 東大阪支部や全国活会、発展会における活動

補助参加人Lは、昭和五六年三月に東大阪支店に転勤となり、同年九月には国金労大会の代議員に立候補、当選したが、この際同支店の南口総務課長が先頭に立って、女子組合員を中心に電話で「Lには入れるな。」と働きかけるなどのことがあった。

同人は、同年一〇月に開かれた国金労定期大会においては、「行政改革」について議論することと、この大会では取り上げられなかった「平和と民主主義」を議案に復活させるよう求めて発言した。

補助参加人Lは、その後も代議員ないし支部委員長に立候補することがあったが、当選することはなかった。

補助参加人Lは、全国活会については、昭和五六年四月に開催された第六回集会から参加し、昭和五九年七月に発足の発展会にも当初からその会員として参加している。

(乙一八七ないし一八九、二五九、三五一、六七六、一三九二、一三九三)

(九) 補助参加人Bについて

(1) 主な組合役員歴

昭和三一年入庫、昭和三八年豊橋支部支部委員、昭和三九年同代議員、昭和四一年堺支部委員長、昭和四二年同代議員、昭和四三年同委員長、昭和四四年から四五年まで同支部委員、昭和四七年田辺支部委員長・代議員、昭和四八年同支部委員、昭和四九年同副委員長、昭和五〇年同支部委員、昭和五二年長岡支部支部委員、昭和五四年同支部委員

(2) 組合活動等の概要

ア 豊橋支部及び堺支部での活動

補助参加人Bは、昭和三一年五月に入庫し、昭和三八年豊橋支部での支部委員を手始めに、昭和五二年度まで毎年のように支部役員を務めてきた。この間、豊橋支部では、昭和三二年に採用された補助参加人Iら後輩に労働組合の重要性を語るなど、仲間づくりに励んだ。

また、昭和四〇年三月に異動となった堺支店において、補助参加人Bは、職務給問題や環衛公庫問題に取り組み、特に後者については、昭和四二年八月に南近畿地協主催の形で、環衛公庫設立に賛成した地元代議士との懇談会を実施した。このほか、前記昭和四四年の補助参加人IのD昇給問題につき、支援の闘争を組んだ。

イ 田辺支部における活動と支店長の言動

補助参加人Bは、昭和四六年三月には田辺支店に転勤し、同支部においては、翌四七年には支部委員長となり、支店長に対し、支部団交の交渉人員の確認、施設利用の妨害行為の禁止、「土休」の職員希望の聴取等についての申入れを行った。

同支店のA浪支店長は、昭和四七年のある日の昼食時に、補助参加人Bに対して、「Bさんは、そんなに公庫に文句があるなら、公庫をやめたらどうだ。」と言った。同人が即座に「支店長、そういういい方をすると法に触れることを知っていますか。」と反論すると、同支店長は黙ってしまった。

また、この田辺支店で補助参加人Bが恩給係であったとき、総務課長は、同人を喫茶店に呼びつけ、「将来、役席になるのだから、組合を控えたらどうだ。」と言った。これに対して、補助参加人Bが「私の副調査役不任用の理由も、それですか。」と聞き返したところ、同課長は「組合活動をやめないと…」と言うばかりであった。

ウ 長岡支部における活動と職制の言動

補助参加人Bは、昭和五一年三月長岡支店勤務となり、翌昭和五二年と昭和五四年には支部委員に当選し、主としてこのころ同支部内にできた地協の事務局で活動していた。

補助参加人Bが赴任後の昭和五一年四月五日の面接で、支店長は「当支店に転勤して日も浅い、組合活動をやめるならば、あなたの知り合いのいないこの長岡でやめてほしい。」と言い、同人が「そのうちに…」と返事をしても、「だんだんやめるのではなく、すぐやめることです。」とくぎを刺した。

その後も、同月一三日には本店の特命調査役、同年五月一一日には東京総括室の調査役らがそれぞれ来店し、調査役は面接で補助参加人Bに対し、「私は、公庫の中の職員をよく知っている。共産党員でも課長になった人がいる。私自身、日共がこのように影響度を示している現在、公庫に党員がいることは何も悪いことではないと思っている。ところで、あなたは共産党員ですか。」と聞き、調査役は副調査役以上の役席との懇談会で、「組合本部は共産党に影響されている。これではだめだ。下部の意見を聞かない。」などと発言した。

エ 全国活会および発展会での活動

補助参加人Bは、前出のように、補助参加人Kとの協議を経て、昭和五三年八月、大阪で「情勢をきりひらくための懇談会」を呼びかけた。その後、昭和五九年七月の発展会にも発足時から参加している。

(乙六六三、六六四、六七六、八〇九)

(一〇) 補助参加人Iについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和三二年入庫、昭和四〇年豊橋支部支部委員、昭和四一年同支部委員長、昭和四四年から昭和四五年まで奈良支部書記長、昭和四六年同支部委員、昭和四七年同副委員長、昭和四九年同支部委員、昭和五〇年から昭和五二年まで大津支部書記長、昭和五三年同支部委員

(2) 組合活動等の概要

ア 豊橋支部での活動

補助参加人Iは、昭和三二年二月に入庫の後、昭和四一年には支部委員を経て豊橋支部の委員長に選出された。この間、昭和四二年の前記環衛公庫闘争では、支部組合員の先頭に立って署名運動に取り組んだ。

そして、同年、支店が、ある労務系の職員の年休申請に際し診断書の提出を求めたことについて、補助参加人Iは編集委員として支部機関紙で積極的に取り上げ、全国の支店にもこの問題を伝えた。後日、この件に関し、支店長は時間中に支部の委員長を呼びつけ、「公表しない約束だった」と抗議する一幕もあった。

イ 奈良支部での活動と支店長の言動

補助参加人Iは、前記事件の直後昭和四三年三月には奈良支店に転勤となるが、翌四四年四月の定期昇給ではD昇給という最低の評価を受け、四等級への昇格もならなかった。同人は、五月に苦情処理の申立てを行ったが、その苦情処理委員会では、原告側が主張した低査定の理由は、当初は七項目であったが、途中では一八項目となり、最後には一三項目に変わるなど度々変更された。

この件については、支部は支援の署名運動を呼び掛け、本部執行部も、「ちから」において補助参加人I夫妻の訴えを紹介しつつ、闘争の勝利を誓っていた。

一方、同支店の大西支店長は、翌四五年三月、補助参加人Iが原告が推薦する財務諸表の通信講座の受講を申請したところ、補助参加人Iに対し、「お前は苦情申立てをしており、公庫の考え方に合わないからだめだ。」と拒否した。

同人は、この後も前記のように奈良支部では毎年のように役員に推され、支部の組合活動を指導していた。

ウ 大津支部などでの活動と支店次長の言動

その後、補助参加人Iは、昭和五〇年三月に大津支店に転勤となり、同年一〇月には書記長に選出され、以後三期その職にあった。

この間、昭和五一年ころには、地元の大津市をはじめ支店管内の草津、守山の両市にも出向き、組合員の先頭に立って、前記「人増ビラ入れ」行動や国会請願の署名活動を行った。

そして、昭和五二、三年ころ、前任の奈良支店で補助参加人Iの上司(審査課長)であった別府支店次長が大津支店を訪れ、補助参加人Iに対し、「君も先頭に立って組合活動をする年齢ではなくなった。ここらで考え直す時期に来ているが。」と迫ったが、同人は、自分のやっていることは組合員の権利を守る正しい運動であると、その場で断わった。

補助参加人Iは、昭和五四年の名古屋支店への転勤後は、代議員に何回か立候補するも落選するなどで、国金労役員としての活動はないが、全国活会については、昭和五九年一月に開催された第一一回の集会から参加し、同年に発足した発展会にも引き続き加入している。

(乙六七六、八一七)

(一一) 補助参加人Qについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和三四年入庫、昭和四〇年から昭和四一年まで尼崎支部支部委員、昭和四三年大阪支部副委員長、昭和四五年同支部委員長、昭和四六年から昭和四八年まで南近畿地協事務局次長ないし事務局長、昭和四九年から昭和五〇年まで本部副委員長、昭和五一年同書記長、昭和五二年大阪支部委員長

(2) 組合活動の概要等

ア 本部役員時代の活動

補助参加人Qは、昭和三四年に入庫して以来、昭和四五年四月には大阪支部で支部委員長に就任し、前記の都労委に申し立てられた不当労働行為事件では、組合員に傍聴への参加を機関紙を通じて呼び掛けるなどした。そして、翌年には、同支店において、この機関紙の作成のための時間外の施設(謄写機器)貸与願いが総務課長から突き返されるようなこともあった。

その後、同人は、昭和四九年から本部副委員長としてこれを二期務め、同年四月一一日のストライキを前に、全国規模でオルグ活動を行い、このストの実施に向け尽力し(このストが青森、札幌、金沢で「ピケ破り」等の紛争を招いたことは前記のとおりである。)、このほか、労働協約の見直しを担当し、主にオンライン化による労働環境への影響問題に取り組んだ。

このオンライン化に関しては、原告から昭和四九年六月に事務センターに交替制勤務の導入の提案があったが、補助参加人Qはこの労使交渉(「シフト交渉」と呼んでいた。)の責任者として、深夜勤務が導入されることは労働条件の大きな改悪であると反対の立場をとり、また、オンライン化そのものに対する国金労の慎重な姿勢もあって交渉は難航したものの、一年後には妥結をみることとなった。

また、このころは、前記でみたような、大森や札幌支店での頸肩腕にかかる労災申請や人増ビラの配布闘争が始まった時期でもあり、補助参加人Qは本部の副委員長ないし書記長としてこれにかかわった。

イ 大阪支部での活動及び八幡支店長の言動

補助参加人Qは、翌五一年一〇月には大阪支部に戻ったが、このころの同支部は、本部指令にもかかわらず、春闘時のワッペン着用やビラの配布が委員会で反対されるなどし、大きく揺れ動いていた。

このような支部の状況の中で、同人は、昭和五二年の役員選挙で支部委員会の推薦候補と争い、支部委員長に返り咲いて支部を指導することとなったものの、翌昭和五三年三月には八幡支店に転勤することになった。

着任早々の同年五月ころ、八幡支店での面接で、支店長は、補助参加人Qに対し、「子分を作るな。」と言い、さらに、同人が聞きもしていないのに、支店長会議において、補助参加人Kを三等級の調査役にしたのは、役席会議等を通じて国金労に情報が流れるので間違いだったとの評価で一致した旨の話もした。

また、同支店長は、翌五四年ころの面接でも補助参加人Qに対し、「お前はよく仕事をする。仕事をしなければくびにしてやる。」と言った。

ウ 全国活会及び発展会での活動

その後、補助参加人Qは、全国活会には昭和五四年八月の第二回集会から参加した。また、前記のように昭和五五年一〇月の国金労大会に向けては、補助参加人Gらとともに「公庫の労働組合への介入を許さず、…公庫に追従しないよう」組合員に訴えた。

そして、昭和五九年七月以降発展会の会員である。

(乙二〇五、二一一、六七六、一三八六)

(一二) 補助参加人Sについて

(1) 主な組合役員歴

昭和三四年入庫、昭和四三年から昭和四六年まで南近畿地協事務局長、昭和五〇年から昭和五一年まで南近畿地協事務副局長ないし事務局長、昭和五四年から昭和五五年まで政労協近畿支部幹事

(2) 組合活動等の概要

ア 南近畿地協事務局時代の活動

補助参加人Sは、昭和三四年四月入庫し、前記のように昭和三九年以降昭和五一年までほぼ一貫して南近畿地協事務局で組合活動に携わり、昭和四三年から四期南近畿事務局長として本部役員入りした。

この間、補助参加人Sは、昭和四四年に所属する阿倍野支店で、機関紙の印刷に供されてきた施設の貸与拒否の件に関し、地協事務局長としてこれに抗議し、翌昭和四五年には、地協の総決起集会をとりまとめたり、前記の都労委闘争の一環として委員会の審問への組合員動員を積極的に進めるなどした。

また、前記昭和四四年の奈良支店での補助参加人IのD昇給問題についても、補助参加人Sは、同年一〇月に抗議団をつくり、同支店へ抗議に赴くなどの支援行動を組織した。

イ 十三支部での代議員選挙の状況

前記の昭和五五年に開催された国金労本部定期大会を前に、補助参加人Sが所属していた十三支部では、代議員選挙に関して役選委員会が開催された。この委員会に出席したは、補助参加人Sに推されてこの代議員選挙に立候補するつもりであったが、同委員会終了後立ち寄った喫茶店で、ある役選委員から、開口一番「お前、もう降りろ。」といわれ、次いで「Sさんと一緒に頑張ってきたことは認める。しかし、もう限界だ。全国的に大多数が脱落しているのに、うちだけ頑張ってどうなるというのか。十三支店の評価ということも考えろ。お前が降りることによってあの人達(支店の副調査役)に点数を稼がしてやれ、公庫の組合活動潰しは本気である。」と立候補の断念を迫られた。

は、この代議員選挙に一票差でかろうじて当選したものの、一年後には原告を退職している。

ウ 京都支部での活動と支店長らの言動

補助参加人Sは、昭和五七年三月には京都支店に赴任することになり、同年一二月には忘年会が催された。この席で審査課長が、補助参加人Sに対し、「組合活動はほどほどにして、公庫サイドに立ち、一枚岩になって欲しい。」と言ったので、同人は「間違ったことはしていない。」と断わった。

その後の役席会で、同審査課長は、「Sを説得したが駄目だった。」と報告し、それを聞いた支店長は、「S君は筋金入りだからね。」と発言した。

また、前出のように、昭和五九年に原告から提案のあった新給与体系について、補助参加人Sは一貫して批判的な主張を行っていたが、京都支部での最終的な採決ではただ一人反対の立場を貫き、また、これ以降、支部委員長に何度か立候補するも当選するには至らなかった。

エ 全国活会及び発展会での活動

さらに、補助参加人Sは全国活会の呼び掛け人の一人であり、昭和五三年九月に開催された第一回から、もれることなく集会には参加し、引き続き昭和五九年の発展会の発足にあたっては、その準備会と結成後の同会の事務局長として活動した。

(乙六七六、乙八二〇の一、二)

(一三) 補助参加人Cについて

(1) 主な組合役員歴

昭和四〇年入庫、昭和四三年金沢支部支部委員・青婦人部長、昭和四四年同書記次長、昭和四五年同書記長・代議員、昭和四六年同書記次長・代議員、昭和四七年同副委員長、同年から昭和四九年まで北信越地協事務局次長ないし事務局長、昭和五〇年から昭和五一年まで本部副委員長、昭和五二年同書記長、昭和五四年北信越地協事務局次長、昭和五七年本部執行委員

(2) 組合活動等の概要

ア 金沢支部及び北信越地協における活動

補助参加人Cは、昭和四〇年三月に入庫し、昭和四三年以降は毎年支部の役員を務め、昭和四七年からは北信越地協事務局次長ないし局長を歴任した。

この事務局長在任中は、前記頸肩腕問題が大きく取り上げられ始めた時期でもあり、同人は、職業病集会等によって職員の健康問題に取り組み、オンライン化についても、対策研究交流集会などを開催して、「合理化」への対処方針の策定に努めた。

また、六年振りに実施された昭和四九年四月一一日のストライキを前に、青森などで紛糾したことは前記のとおりであるが、金沢支店においても、スト前日の同月一〇日夜、支部総会出席後の三名の組合員が支店次長宅に呼ばれ、飲食することがあった。支部と補助参加人Cは、この組合員らから聴取した結果、情報収集をねらった支店側の介入行為であると、支部長名で支店長あて抗議文を発するという件もあった。

この時の支店長は、昭和五〇年三月、補助参加人Cに「転入して何も分からないままあのようなことになり、申し訳なく思っている。」との言葉を残して転勤した。

イ 本部役員時代の活動

その後補助参加人Cは、本部役員として候補に上がっていた補助参加人Oが都合で降りたこともあって、昭和五〇年一〇月から三期にわたり、副委員長等の職に選出された。

この間、同人は、昭和四九年の大森支店のDを始めとする頸肩腕に係る労災申請闘争や、昭和五〇年からの「人増ビラ」闘争、国会請願署名運動などに本部役員として取り組んだ。

ウ 熱田支部における活動と支店長の言動

補助参加人Cは、昭和五五年三月には、熱田支店に転勤となった。

同人は、同年九月に行われた前出の第五〇回定期大会の代議員選挙では落選したが、補助参加人A、同Q、同Gらとの連名でアピール文を発し、労使協調路線を批判したことは、先に述べたとおりである。

昭和五九年三月に同支店に赴任した支店長は、五月二五日の面接で、補助参加人Cに対して、「支店長が、その人が良くなったと報告しても、本店は一、二年様子をみて判断している。梅田から、組合活動家が(前任支店に)転勤してきたが、今では、コンサルを受験するまでになった。」などと言うほか、「私は、さんを良く知っているし、補助参加人K、A氏も知っている。さんは沼津から東大阪(支店)で自分の生き方を見つめ直したと聞いている。」と言った。これに対して、補助参加人Cが原告の彼らに対する評価が異なるのは、イデオロギーの相違が理由ではないのかと追及すると、同支店長は「そんなことはない、公庫の方針をどれだけ忠実にやれるかではないか。」などと答えた。

さらに、昭和五九年一一月一〇日の支店旅行の際、同支店長は、補助参加人Cが「勤評等を公平に」と記載した転勤調書に関し、「お前の転勤調書は何だ、許さん。お前がどのような組織に入っていようが、おれはやってやる。おれを裏切るとどのようなことになるか思い知らせてやる。」などと罵声を浴びせた。

エ 全国活会と発展会での活動

補助参加人Cは、全国活会には昭和五四年八月に開かれた第二回集会から毎回参加した。この間、特に、熱田支店への赴任後の昭和五五年四月からは、津支店のiの労災認定闘争には、前記の補助参加人Nらの支援に続いて、補助参加人Cも本人と行動をともにするなどして積極的にこの闘争を支えた。そして、同月の三重労働基準局の棄却決定後は、補助参加人R、Gらとともに代理人として、再審査請求の申立てにあたった。

全国活会では、昭和五六及び昭和五七年に開催された第六回及び第八回の集会を通じて、この労災闘争についての具体的方策を検討し、補助参加人Cを中心として、支援する会のニュースの発行や要請葉書、アピールの発出、カンパなどの活動を進めた。

補助参加人Cは、その後発展会に参加している。

(乙五八ないし六二、四八七、四八八、四八九、四九〇、六七六、八一〇、八一一)

(一四) 補助参加人Eについて

(1) 主な組合役員歴

昭和四一年入庫、昭和四六年仙台支部副委員長、昭和四七年同代議員、昭和四八年同書記長、昭和四九年浜松支部代議員、昭和五〇年同委員長、昭和五一年から昭和五三年まで東海地協事務局長ないし副事務局長、昭和五四年本部執行委員

(2) 組合活動等の概要

ア 仙台支部での活動

補助参加人Eは、昭和四一年四月に入庫し仙台支店勤務となったが、昭和四四年に同支店に赴任した補助参加人Kの前記のような活動に接したり、組合学校へ参加することなどを通じて、組合運動に積極的にかかわっていくようになり、昭和四六年には支部副委員長になり、以降代議員、書記長として支部の先頭に立ち活動した。

イ 浜松支部及び東海地協での活動

昭和四八年七月、補助参加人Eは浜松支店に転勤となり、浜松支部においては、青婦人部のまとめ役として活動し、昭和五〇年には支部委員長に選出され、この間、青婦人部の学習会を補助参加人Hや同F(当時はF'姓)らとともに実施し、ビラ配布や国会請願署名に積極的に関与した。

また、昭和五一年からは三期にわたり東海地協の事務局長ないし副事務局長を務め、管内各支部へのオルグ、諸集会開催のとりまとめを行った。

特に、転勤に関する要求(本人希望地への転勤、転勤困難等の事情の尊重等)の実現に力を注ぎ、その後の国金労定期大会でも、この活動の成果と問題点を報告している。

ウ 全国活会や発展会における活動や中村支店長の言動

昭和五一年一二月に、津支部でiの労災申請が行われたことは、前記のとおりであるが、当時本部や地協の役員をしていた補助参加人Eをはじめ、同R、同G及び同Dらは、これに前後して同支部にオルグに入り、iを激励するとともに、組合員に支援体制の確立を訴えた。しかし、津支部としては支援しないことを決定し、本部執行部はこれに対して翌五二年一月にこれを批判する意見書を同支部あてに送付した。

補助参加人らを含め後に全国活会のメンバーとなる者ら及び津支部においてiを支援する組合員らは、昭和五二年一月に「iさんを支援する会」を結成し、労働基準監督署との交渉には、補助参加人Eらこの会のメンバーが同席し、津市内では、ビラの配布や署名活動や他労組まわりを行った。

ついで、補助参加人Eは、昭和五五年には、妻である補助参加人Fら三名の女性組合員の不昇格問題にかかり、全国活会も後押ししていた「Fらを支援する会」に結成当時から参加し、前記のように、同会の事務局長(対外的には「連絡員」)として活動した。

また、同人は、昭和五六年一月一五日の東海地協の委員長会議にこの「Fらを支援する会」を代表する形で出席し、この女性職員に対するC昇給は不当であるとか、同会は国金労の活動を強化するものであるなどと主張し、一方、原告がこの会議の前日にあたる同月一四日の団交席上、この支援行動に注目し、原告自ら会の実態を明らかにしたい旨言明していたことは、前出のとおりである。

なお、補助参加人Eは、昭和五四年の本部執行委員を最後に、その後は本部、支部の役員選挙に立つこともあったが、当選はしたことはなく、同人は、昭和五九年に全国活会の運動を引き継いで組織された発展会には、結成当初から参加している。

その後、補助参加人Eは、昭和六三年一月八日から豊橋支店勤務となったが、その転勤直後の同年二月一五日と同月一六日の両日には、原告の愛知県所在六支店の未入金事務勉強会が犬山市の国民年金保養センターで行われ、同月一五日の勉強会終了後の懇親会で、中村支店長は、隣に居合わせた豊橋支店のに対し、「あんたの支店、今度変なのが転勤してきたろう。全部で何人になったんだ。」と言い、同人が「変な人?」と聞き返すと、「ほら、気違いが行ったろう。東京で色々やっている連中知っているだろう。」とも言った。

(乙八四、一一一、一一二、一一三、一四八ないし一五〇、二〇二、六七六、八一三の一、二)

(一五) 補助参加人Mについて

(1) 主な組合役員歴

昭和四一年入庫、昭和四九年から五〇年まで南近畿地協副局長、昭和四九年から五二年まで政労協近畿支部幹事ないし副議長、昭和五〇年東大阪支部副委員長、昭和五四年阿倍野支部支部委員

(2) 組合活動の概要等

ア 南近畿地協での活動

補助参加人Mは昭和四一年三月に入庫し、昭和四八年七月の東大阪支店への転勤後は、昭和四九年からは前任の守口支店時代から事務局員として活動していた南近畿地協の副局長に請われ、これを二期務めることとなった。

この間、同人は、組合学校などの若手組合員に対する学習と交流の場を設定する責任者となり、また講師としてもこのような企画に加わった。

その後、昭和五〇年の東大阪支部における副委員長時代には、メーデーの参加人員について、団交で支店側と厳しくやり合うこともあり、また、昭和四九年から昭和五二年にかけて政労協近畿支部の幹事ないし副議長としては、特殊法人の地域労組の連帯のための活動を行った。

イ 補助参加人Mに対する支店課長の言動など

補助参加人Mは、支部レベルでは、昭和五四年に阿倍野支部で支部委員となった後は、二度ほど各支部で役員に立候補したが落選しており、特に役員歴はない。

また、明石支店在任中の昭和五七年五月、同支店のB岸管理課長は、補助参加人Mが週休の「土休指定」に関し、職員の希望を尊重して調整した方が民主的ではないかと主張したところ、同課長は、「民主的という言葉を使う君は共産党員か。」「君についてはひどいうわさを聞いている。」と言った。補助参加人Mは、同課長にこの発言の真意などを問い質したが、具体的な返事がなかったので、後日、三度ほど内容証明郵便を同支店長あて送付したり、同旨のビラを職場に配付して、これに抗議するとともに陳謝を求めた。

ウ 全国活会及び発展会での活動

補助参加人Mは、昭和五三年に始まった全国活会の第一回集会からの参加者であり、また、その決定を受けて近畿ブロック活動者会議を組織し、昭和五五年からはその責任者でもあった。そして、全国活会が昭和五七年九月及び昭和五八年二月に開催した第九回及び第一〇回の各集会では、前記の明石支店での件が報告、議論された。

同人は、その後、昭和五七年九月結成の発展会に参加している。

(乙六七六、六八六ないし六九〇、八一八の一、二)

(一六) 補助参加人Dについて

(1) 主な組合役員歴等

昭和三六年入庫、昭和三八年本所支部代議員、昭和三八年から昭和四一年まで本部執行委員、昭和四三年から本部婦人部役員

(2) 組合活動の概要等

ア 本部執行委員時代の活動

補助参加人Dは、昭和三六年五月に入庫し、本所(店)勤務となったが、昭和三八年四月には本部執行委員に当選し、主として青年婦人層の組織化に当たった。

また、昭和四〇年に提案のあった給与制度の改定に反対する「職務給闘争」の一環として、本所の婦人層を対象に週二回の討論集会を開催し、その後の都内近郊の青婦人部の結成へと導いた。

イ 頸肩腕の労災認定闘争

昭和三九年ころからは、後輩のタイピストらが頸肩腕症候群の症状を訴えるようになり、補助参加人Dは国金労の支援も受けて環境改善などで本店庶務部交渉にあたるなどしていたところ、昭和四一年秋には同人自身も体調を崩し、頸肩腕症候群と診断された。

そして、大森支店への転勤後の昭和四九年一〇月にはこの疾病に関して労災認定闘争を開始し、補助参加人R、同G、同Cらの支援を受けていたことは先にみたとおりであり、最終的には、この闘争は、昭和五六年一〇月の中央審査会における再審査請求棄却の裁決をもって一応の結末をみた。

ウ 不昇格への抗議と各支店長の態度など

補助参加人Dは、昭和四八年四月、大森支店の高屋支店長に対し、自分が四等級に昇格できなかったことに関しその理由を問いただしたところ、同支店長は本店時代の補助参加人Dの前記活動を指摘し、「公庫を困らせる有名人なので推薦できない。」と答えた。

また、補助参加人Dは、昭和五四年三月、副調査役への不任用についても同支店中本支店長にその理由を聞くと、同支店長は、原告に対して忠誠心がないので推薦できないと答え、昭和五九年三月には、補助参加人Dの同様の質問に対し、池袋支店の支店長は、考え方が悪いと言った。

その後、補助参加人Dは、昭和五五年以降全国活動者会議に参加し、また、昭和五九年の発展会の結成時から参加している。

(乙六七六、八一二)

(一七) 補助参加人Hについて

(1) 主な組合役員歴

昭和三六年入庫、昭和四一年浜松支部支部委員、昭和四四年同支部委員、昭和四六年同支部委員、昭和五四年同支部委員

(2) 組合活動の概要等

ア 浜松支部での活動

補助参加人Hは、昭和三六年三月に入庫し、浜松支店勤務となり、現在に至っている。

浜松支部では主として青婦人部を中心に活動を行い、本部主催の「全国婦人集会」などに参加した経験を生かし、昭和五〇年九月には給与制度に関する同青婦人部の勉強会の講師を務めた。そして、昭和五〇年から始まった前記「人増闘争」では、組合員間での論争もあったが、ビラ配布や、署名活動に取り組み、支部の目標達成に努めた。

また、同人は、昭和五三年に総務課長や支店長に対し、第二子については自己を扶養者として認定するよう請求し、また、当時東海地協事務局長であった補助参加人Eを通じて、健康保険組合に対して同旨のことを訴えたが、当時の段階では認められることはなかった。

イ 不昇格問題についての抗議と各支店長の態度

補助参加人Hは、昭和四八年には当時の七年間の五等級標準在級年数を満了したが、同期女性職員の中では一名が四等級へ昇格したものの、補助参加人Hを含めその他の者は据え置かれたままであり、A野支店長は、この点に関する補助参加人Hの抗議に対して、「基準に達していない。」と言うのみであった。

翌昭和四九年には該当者一九名中八名、昭和五〇年には一一名中三名が、それぞれ四等級に昇格したが、同人はやはり据え置かれたままであり、昇格できたのは昭和五一年になってからであって、同年は、女性でも標準在級者や対象者の過半数が昇格したときでもあった。

この両年とも補助参加人Hは支店側に抗議を行ったが、昭和四九年の際は、前記A野支店長は、「(業務遂行実績については)十分満足しています。」と言いながらも、不昇格問題については前年と同じ説明を繰り返すばかりであり、昭和五〇年の際は、後任のA井支店長は、「女性が昇格するには本店にアピールできる何かが必要。」と答えるに止まった。

昭和五五年に行われた審査課長の送別会において、同課長は、補助参加人Hに向かって、「公庫の方針に文句のある者は辞めろ。」と言ったので、同人は、「酒の席とはいえ、課長からそのようなことを言われる筋合いはない。私はシラフだから責任持った回答をしてほしい。」旨抗議した。

その後、昭和五九年ころには、補助参加人Hが副調査役に任用されない理由につき、A内支店長に「不足な点があったら教えてほしい。」と聞いたところ、同支店長は、「(当時補助参加人Hの上司であった)Kに色々相談し過ぎることだけだ。」と言った。

補助参加人Hは、全国活会には昭和五九年から参加し、引き続いて発展会の会員である。

(乙六七六、八一六)

(一八) 補助参加人Fについて

(1) 主な組合役員歴

昭和三九年入庫、昭和五〇年浜松支部支部委員、昭和五五年豊橋支部支部委員、昭和五六年同委員長代行、昭和五七年同支部委員

(2) 組合活動の概要等

ア 浜松及び豊橋支部での活動等

補助参加人Fは、昭和三九年四月に入庫し、浜松支店勤務となり、昭和五二年に豊橋支店に転勤するまで浜松支部に在籍した。

同人は、昭和四五年には頸肩腕症候群と診断され、その後補助参加人Eとの結婚後の協力もあって、主に職業病関係の活動について積極的に関与することになった。

そして、昭和四九年と昭和五〇年に開かれた本部主催の「職業病罹病者集会」に支部を代表して参加し、この種患者をこれ以上増やさないよう運動を進める旨の報告を行った。

さらに、昭和五二年以降は前記の「iさんを支援する会」に参加し、昭和五八年には再審査の参考人として、自身の症状等を証言した。

イ C評価問題に係る活動と発展会への参加

補助参加人Fは、昭和五一年から昭和五五年の間C評価を受け、五等級のまま据え置かれたが、昭和五一年当時には、女性の有資格者四九名中二二名が昇格できなかった。

補助参加人Fは毎年のように浜松ないし豊橋支店の歴代支店長に、なぜC評価なのか問いただしたが、「女子の上級職員として指導性を発揮してほしい。」、「能力はあるが実績が足りない。」とか、「四等級の職務内容に照らして推薦できない。」などというものであった。その後、豊橋支部時代になる昭和五五年に至って前記Pらとともに苦情処理委員会への申立てを行ったが、この闘争については、同人らともども、全国活会が「Fらを支援する会」を結成し援護したことは先にみたとおりであり、同会の事務局長(連絡員)は夫の補助参加人Eである。

なお、この支援する会についての、国金労本部と原告の態度も前記のとおりであり、補助参加人F人も同Pら同様翌昭和五六年には四等級へ昇格した。

また、補助参加人Fが、昭和五六年六月東海地協婦人集会に出席しようとしたところ、「苦情処理闘争をしたり、『支援する会』を作ったような人は、支部の代表として相応しくないから認められない。」と妨害されることがあった。

その後、補助参加人Fは、昭和五九年結成の発展会に結成当初から参加している。

(乙六七六、八一四の一、二、一四一八)

(一九) 補助参加人Pについて

(1) 主な組合役員歴

昭和四二年入庫、昭和四六年久留米支部青婦人部長、昭和四九年から昭和五一年まで同支部委員、昭和五一年から昭和五三年まで青婦人部長ないし同部委員、昭和五四年同支部委員

(2) 組合活動の概要等

ア 久留米支部における活動と支店長の言動

補助参加人Pは、昭和四二年一〇月に入庫し、久留米支店勤務となり、現在に至っている。

久留米支部では、当初「労音」のコンサートなどの組合文化活動の世話役などをしていたが、昭和四五年には、当時復刊した職場新聞「こぶし」の編集委員となり、翌昭和四六年には青年婦人部長となった。このころ、補助参加人Pが青年婦人部長として参加した全国婦人大会では頸肩腕症候群問題などの職業病問題が取り上げられ、支店でも女性組合員を中心に頸肩腕症候群の症状などを周知し、その後同支店で補助参加人P自身を含め四人ほどの罹病者が出た。

また、同人は、昭和五一年以降も青婦人部の部長ないし委員としてサークルや機関紙の編集にあたるなどした。

昭和五三年のメーデーに関し、支部から支店に対して七名の参加を求めたところ、支店側は五名を指名してきたため、労使間、特に支部青婦人部との間であつれきを生じ、青婦人部が機関紙で、「労組が自主的に決めたメーデー参加に支店側が不当介入」などと抗議することがあった。この後、同部の補助参加人Pら四名の委員がA森支店長に呼ばれ、同支店長は「このことは一生忘れない。このことは支店のA昇給に影響するだろう。」と言った。

同支店長は、同年一二月の面接においても、補助参加人Pに対して「支店長には何でも言ってもらっていいが、唇寒しになるな。」と言った。

補助参加人Pは、翌五四年三月からは五、六名の中で中心的な存在であった契約係から、担当が一名で他係との関係の希薄な恩給係に配置換えとなり、平成二年三月までの一一年間同係に籍を置いた。

前記A森は、昭和五九年七月、転勤のあいさつに来た補助参加人Pの姉夫妻に対し、「お宅の妹さんは、退職するまで恩給をやらせる。」との趣旨の話をした。

イ 不昇格問題にかかる活動と発展会などへの参加

昭和五五年の昇給昇格に関し、補助参加人Pは同年四月一日付けでC評価(前記A森支店長の評価期間が対象)を受けて五等級から四等級への昇格がならず、補助参加人Fら二名とともに苦情処理委員会に申立てを行ったことは先にみたとおりである。

なお、この申立てについては、国金労本部は支持したものの、久留米支部自体はこの低評価が組合活動や婦人を理由としたものではないとの見解を表明して、反対の立場を取った。

一方、補助参加人Pらの相談を受けて全国活会が「Fらを支援する会」の母体となって活動したことは、先にみたとおりであり、補助参加人P自身、昭和五六年には全国活会に、昭和五九年には発展会にその結成時から参加している。この間、昭和五九年二月に原告から提案された「新給与制度」に関し、支部の総会では、補助参加人Pはただ一人反対の意思を表明した。

(乙六七六、七二一、七二七、一一二一ないし一一二四、一四一八)

4  判断

(一) 以上の事実を前提に、原告の補助参加人らの活動に対する認識について判断する。

(1) 昭和三二年ころから、原告における労使間対立が始まり、昭和四〇年の職務給反対闘争においては、原告は、その提案した給与等の制度につき、補助参加人Kを執行委員長とする国金労の反対により妥協することを余儀なくされるに至った。また、その後も、国金労は、昭和四二年の環衛公庫設置拒否闘争、昭和四四年から昭和四六年にかけての一連の闘争(賃上げ及び人増を要求するストライキの実施、この問題にまつわる都労委闘争)を行ったが、ここでも、補助参加人K、同A、同R、同Sらがその活動の中心となっていた。

この間の経緯に関し、後に労務担当理事は、1、(三)、(3)のとおり、国金労の先鋭化に危機感を抱いていたことのほか、国金労に対する批判層が生まれ始めたことに対してこれを歓迎する旨の見解を表明した。

昭和四八年二月に補助参加人Aを執行委員長とする執行部が成立したころには、1、(三)、(1)及び(2)のとおり、原告の人事部長や総括室は、各支店あてに、国金労執行部の方針に無批判に従う支部の体質を改善し、「良識ある職員」の育成・拡充と、支部役員などに「良識層」が進出するよう配慮する必要性を説いていた。

以上の事実に照らせば、原告は、補助参加人Kや同Aが本部執行委員長として国金労を率いていたころの国金労本部の闘争や姿勢を嫌悪していた上、この本部の方針に従う支部の体質を変えるため、国金労本部の方針に対して批判的な、逆にいえば、労使協調路線に肯定的な職員(いわゆる「良識層」)の育成に努めていたものと認められる。

(2) その後、国金労は、昭和四九年のストライキ、オンラインシフト闘争、同年以降表れ始めた労災問題への取り組み、昭和五〇年以降の人増闘争等を行ったが、この間、補助参加人Q、同J、同C、同Gらは本部役員としてこれらの活動に取り組んだ(1、(一)、(6)ないし(8))。

しかし、その一方で、昭和五五年の国金労定期大会を迎えるまでの間には、1、(二)、(7)のとおり、労災申請闘争に関しては、札幌及び津両支部では本部の闘争方針に反発を示したこと、1(一一)の(2)イのとおり、昭和五一年大阪支部では、本部指令にもかかわらず、春闘時のワッペン着用等が支部委員会において反対される事態となったこと、同(四)の(2)ウのとおり、昭和五三年には、久留米支部において、補助参加人Oの活動に関し、他の組合員との間で口論に及ぶ事態が生じたこと、同(六)の(2)ウのとおり、昭和五三年の補助参加人Gの転勤問題では、国金労本部等はこれに取り組んだものの、札幌支部自体はこれに取り組まなかったこと、同(一二)の(2)イのとおり、昭和五五年国金労本部定期大会前に、補助参加人Sに推されて代議員選挙に立候補する予定であった奥村に対し、役選委員が「公庫の組合活動潰しは本気である。」などと言って立候補の断念を迫ったこと等の出来事があったことに照らすと、国金労の支部レベルでは、次第に良識層が進出するようになったことが認められる。

以上の経過に関し、1、(三)、(4)のとおり、後に人事部給与課長は、この当時の国金労の企業告発的な姿勢に対する警戒感を表す報告をし、また、その一方で、同(5)のとおり、鹿児島支店長は、「労働組合カード」において、支部執行部について、良識層による支部体制を固めた旨本店人事部長あてに報告しているのであって、これらの事情にかんがみると、原告は、補助参加人Kや同Aが本部執行委員長として国金労を率いていた時期以降も良識層の育成に努めていたこと、これに伴い支部体制が変化をみせ始めたことを歓迎していたことが認められる。

そして、昭和五五年の国金労定期大会では、原告の良識層の育成という方向性に沿う労使協調路線が採択されるに至ったことにも照らせば、昭和五五年の国金労の労使協調路線への転換、これに伴い補助参加人らが国金労反主流派となるに至ったが、これは、原告が支部レベルで良識層の育成を図ったことにより、本部レベルにおいても、国金労の労使協調化という原告の方針に沿う成果をもたらしたものと認めることができる。

(3) このように国金労において良識層が進出してきている情勢を懸念し、補助参加人Bや同Kらが中心となって、昭和五三年九月に全国活会が結成され、最終的には補助参加人ら一九名全員がその会員となったこと、同会を通じて補助参加人らは、昭和五四年には前記の労災認定闘争の支援を論議し、その闘争を総括するなどしたこと、昭和五五年度の昇格に係る補助参加人F、同PらのC評価問題についても、「Fらを支援する会」の事務局を作るなど、同会を組織的に支えるとともに、ビラ配布活動に取り組み、昭和五七年にも、津山支店で生じた頸肩腕症候群り病者の職場復帰問題についても、「支援する会」を組織し、やはりビラ配布や小冊子を発刊する闘争を行ったことは前記認定のとおりであるが、1、(三)、(6)び(7)のとおり、昭和五六年五月の管理事務担当課長会議における人事部からの指示内容、昭和五八年六月ころの某支店の実地検査における本店の分析内容に照らせば、原告は、補助参加人らの集団としてのこのような活動について、国金労の労使協調路線に反する動きとして警戒感を強めていたものと認められる。

(4) 昭和五九年に至り、補助参加人Aらの連名で原告から提案のあった賃金体系の変更に反対するリーフレットを作成・配布したほか、補助参加人らは、同年七月には発展会を正式に発足させ、1、(二)、(7)のとおり原告に対し不当差別是正等を求めた。さらに、補助参加人らは、原告の抱える経営上・業務上の問題点や対策を訴えるため、昭和六〇年一月の「どこへゆく国民公庫」という冊子を発刊するに至った。

これに対し、原告は、1、(三)、(10)のとおり、ブロック管理課長会議を通じて、人事給与制度の改定提案つき、原告の施策に反対する補助参加人らを「塩漬け」にし、新制度に関して労使合意がなるような職場(組合)環境を作るように各支店に指示したことが認められる。

(5) さらに、2認定の事実に証拠(丙三、四ないし七、一一ないし一三、四七ないし五〇、五二の一、二、証人A原)を併せ考えれば、補助参加人らが勤務する支店の職制らは、補助参加人らそれぞれに対して、様々に、その活動への干渉にわたる発言や嫌悪感情の表明等をしたこと、昭和五三年全国活会発足後に顕著となったように、補助参加人らはその活動に際して、相互に連絡を取り、又は支援し合いながらこれを行っていたこと、原告の職員であったA原(以下「A原」という。)が昭和五〇年以降課長として勤務した各支店において、A原及び同各支店の職制らは、支店内で先鋭的な組合活動をする職員とそれ以外の職員との間に密接な関係が構築されることを防止すること及び国金労側の情報を入手することを目的として、一定の対策を講じていたこと、昭和六二年当時、仙台支店において、同支店の職制らは発展会の活動について強い警戒感を持ち、発展会会員を通じて発展会の活動傾向が同支店職員へ浸透するのを恐れていたこと、以上の事実が認められる。

(6) 以上(1)ないし(5)の事実を総合すると、原告は、昭和五五年以前補助参加人K、同A、同Qらを中心として行われた先鋭的な組合活動に対して既に強く嫌悪し、このような国金労の活動方針を労使協調路線に変換させるためにいわゆる良識層の育成に努めたところ、その成果が上がり、右補助参加人らの活動方針に同調して行動をともにしていた補助参加人らを国金労内で少数派、反主流派とするに至ったが、補助参加人らがさらに企業告発型の闘争方針を強めて盛んに活動を行ったため、原告は補助参加人らに対しますます嫌悪を強めていったことが認められる。

(二) 原告の主張について

原告は、被告が、全国活会の組織を前提に、原告がこの組織の活動に対して強く嫌悪していたことを認定している点につき、全国活会なる組織が存在したとしても、それは全く非公然の私的組織であり、その活動は労組法上の組合活動に当たるものではない上、原告が全国活会なる組織の存在を知ったのは、被告審問手続の最終段階である平成三年一二月の時点であり、また、仮にその組合活動性が認められるとしても、原告の差別意思の契機となるような活動ではないことは明らかであるから、被告の右認定は誤りである旨主張する。

確かに、本件全証拠に照らしても、原告が全国活会という組織の存在を認識していたことを認めることはできない。しかし、原告が全国活会という組織の存在を認識していなかったとしても、そのことのみによって原告の補助参加人らに対する嫌悪に関する前記認定が左右されるものではない。

三  争点2の(二)(原告における人事考課等においてはいわゆる職能給制度が貫かれているか、それとも、運用実態はその制度趣旨が貫かれておらず、年功管理的、あるいは恣意的な運用がされているということができるか。)について

1  本件では原告の職員の副調査役、調査役への昇格、昇給が原告の人事考課、査定に基づいて決定されているのか、それとも職能給制度の外形にかかわらず年功管理的な運用がされているのかが争われている。そこで、年功管理的な運用という事実の意味を明確にし、これが不当労働行為意思の認定にどのようにかかわるのかを見ておこう。

(一) 三等級への昇格についていうならば、まず、補助参加人ら以外の職員については、その間で時期に相違があるにせよ、病気その他の特段の事情のない限り、全員三等級へ昇格しているという実態が仮にあるとすれば、遅くとも入庫何年までには特段の事情のない限り職員全員を三等級へ昇格させるという運用が行われていることになる。年功管理的な運用が行われているという場合の本来の意味はこの点にあるものと考えられる。このような運用が行われている場合には、昇格の時期についてはなお検討を要するものの、補助参加人らがいつまでたっても昇格しないとすれば、特段の事情が認められない限り、補助参加人らが昇格しないことは、原告の補助参加人らの活動に対する嫌悪とあいまって、原告の不当労働行為意思に基づくものであると推認することができることになろう。

次に、特段の事情のない限り職員全員を昇格させるという運用とは別に、三等級へ昇格する者については、その入庫からの年次がおおむね一致しているという意味で年功管理的な運用が行われていると表現する場合もあろう。しかし、三等級へ昇格する年次がおおむね一致しているということは、その年次に到達すれば三等級へ昇格できることと同義ではない。職員が、三等級へ昇格する年次に到達したにもかかわらず、昇格しなかったことが不当労働行為となるというためには、前提としてその職員が三等級へ昇格してしかるべきであるという事実が認められなければならない。このような事実が存するときにはじめて、三等級へ昇格する年次に到達したにもかかわらず、昇格しなかったことが不当労働行為となる。すなわち、この場合には、三等級へ昇格する年次に到達したことは、昇格の必要条件であるに過ぎず、昇格の十分条件であるとはいえない。補助参加人らが三等級へ昇格してしかるべきであるというためには、次のような事実の証明(労働委員会の手続においては疎明。以下同じ。)が必要である。

まず、前記のように、補助参加人ら以外の職員については、特段の事情のない限り、時期の差はあるにしても、最終的には職員全員を昇格させるという運用が行われていることである。

次に、そのような運用が認められないとしても、補助参加人らが、三等級へ昇格した者と比較して能力、勤務成績等において劣らないことが証明されれば、補助参加人らを昇格させないことについて他に合理的な理由が証明されない限り、補助参加人らの組合活動に対する嫌悪とあいまって、不当労働行為意思に基づく不利益取扱いであることを推認することができる。

さらに、証拠上補助参加人らと比較の対象となる昇格者を見出すことができない等の理由で、補助参加人らが、三等級へ昇格した者と比較して能力、勤務成績において劣らないことが直接証明されないとしても、原告が人事考課において補助参加人らの勤務実績等を無視し、あるいは虚偽の事実を根拠として補助参加人らを殊更に低く評価している事実が証明された場合において、勤務実績等の無視又は事実の虚構の態様及び程度と他の具体的事実とを併せて考えると、原告が補助参加人らを三等級へ昇格させないために意図的にそのように低く評価していると推認できるときには、補助参加人らの組合活動に対する嫌悪とあいまって、不当労働行為意思に基づく不利益取扱いであることを推認することができる。もっとも、昇格、昇給において組合員を不利益に取り扱うために殊更に低く評価しているという事実は、使用者がその組合員の組合所属又は組合活動を嫌悪しているという事実と同じではないから、原告が人事考課において補助参加人らを殊更に低く評価している事実を立証するには、使用者が人事考課の資料、内容を原文書を提出する等して開示することが前提となるし、実際上社内の極秘文書の存在が判明した等の特別の事情が必要であり、そのような特別の事情がない限り、その証明は困難である。しかしながら、長い年数をかけて能力等を見極めて昇格させるか否かが決定されており、運用上、同期、同学歴の職員の大多数の者が昇格するという実態が存する場合において、既に同期、同学歴の職員の大多数の者が昇格しているという事実が存するときには、それにもかかわらず昇格していない職員は、病気その他の特段の事情のある場合を除けば、能力、勤務成績が相当劣悪であり、次の等級の職務を十分遂行できないとして、昇格させることが適当ではないと判断されたこととなるから、本人が自覚しているか否かは別として、職場の同僚等からも、実情に照らし、昇格しない理由がうかがい知ることができるほど、昇格させないことについて具体的に明確な根拠が存するはずである。このような場合には、当該労働者は、端的に、自分の把握し得る限りにおいてその能力、勤務成績が劣悪とはいえないことを具体的根拠を挙げて立証すれば足りるものと考えられる。すなわち、右のような場合において、昇格しないことが不当労働行為であると主張する職員が、自らの勤務状況、勤務実績、能力が劣悪とはいえないことを示す具体的事実を立証したときには、反証のない限り、その能力、勤務成績は劣悪ではないと認定することとなるから、使用者は、その職員の能力、勤務成績が相当劣悪であることを裏付ける具体的事実を立証する実際上の必要が生ずるものというべきである(したがって、まず、使用者がその職員の能力、勤務成績が相当劣悪であることを裏付ける具体的事実を主張立証し、職員がこれを否定する根拠を主張立証するという運用が効率的、実際的である場合が少なくないであろう。このような運用が採られたとしても、それが証明責任を無視したり、転換するものではないことはいうまでもない。)。本件に即していうならば、三等級へ昇格する年次が入庫後相当長い年数であり、それだけの期間をかけて能力等を見定め、昇格の可否を決定しているという実態があるか否か、運用上、同期、同学歴の職員の大多数の者が三等級へ昇格するという実態があるか否か、補助参加人らの能力、勤務成績が相当劣悪であるとはいえないか否かを検討すべきこととなる。

(二) 昭和六〇年四月一日以前の旧人事給与制度では三等級に対応する役職位は課長又は調査役、四等級に対応する役職位は副調査役(副調査役に任用されない者は主任)であり、同日以後の新人事給与制度では特三等級に対応する役職位は課長、三等級に対応する役職位は調査役、特四等級に対応する役職位は副調査役であって、三等級への昇格と調査役への任用は一心同体であるから、調査役への任用については、(一)と同様に考えて差し支えないものと思われる。なお、調査役は、新人事給与制度では、直属の長を補佐して部下を指揮監督し、特に高度な判定的業務を行うとともに、必要に応じて直属の長を代理する職務を遂行する能力に達していることが昇格基準とされているが、人事考課権はなく、出退勤の時間拘束を受け、その任用数は業務量に基づき、各支店ごとに定めるものとされているから、労働委員会が救済方法として調査役への任用を命じても、原告の管理監督権限、指揮命令権限の系統上、特に支障はないものと考えられる。

(三) 四等級への昇格、副調査役への任用についても、(一)と同様に考えることができる。昇給については、その号俸に昇給する時期の問題となり、これについても(一)と同様に考えることができる。

(四) そこで、以下においては、原告の人事給与制度がどのような制度として作られているか、その運用の実態はどうかを見た上で、これらの事実に照らし、補助参加人らが昇格、昇給又は調査役若しくは副調査役の職位に任用されてしかるべきであるというためにはどのような事実が証明されることが必要かについて検討を加える。

2  原告の人事考課制度について

(一) 人事考課制度の整備

(1) 原告においては、その人事給与制度中の職員の昇格・昇級に関する評価の手続に関し、第二、一、2のとおり、仮評価者、評価者の担う役割、評価の方法、手続及び対象等の点につき、制度として子細な整備がされている。殊に、評価方法につき、項目別評価における評価要素は細分化され、かつ、各等級ごとに評価項目を若干異なるものとしているなど、より客観的な評価を目指して制度に工夫がされているということができる。

(2) さらに、証拠(甲九、乙八九五、八九八、八九九、九一一、九一二、九一九ないし九二八、一三九七、証人A岡)によれば、その評価の公正さを担保するために、以下の制度、方策等が施されていることが認められる。

ア 指導観察記録の作成

原告では、職員の日常の勤務状況及びこれに対する管理者の指導状況を確実に把握し、記録しておくため、支店管理者が「指導観察記録」を作成する。通常、仮評価者である課長が記録を担当しており、配下職員の勤務状況について、良好な点、不良な点及び指導の状況、職員の対応等を記録する。こうして作成した指導観察記録は、適宜、支店長、次長らに提出して、日常の指導に役立てるほか、人事考課に関しては重要な資料として活用する。

イ 人事考課実施要綱、人事考課の手引の配布

原告は、人事考課の手続、評価の仕方について「人事考課実施要綱」にまとめ、各評価担当者に配布している。さらに、右「人事考課実施要綱」と留意事項等をまとめた「人事考課の手引」を作成し、各評価担当者に配布している。

その概要は以下のとおりである。

(ア) 評価要素説明書及び補足説明書

「人事考課の手引」中には、評価の手助けとするために、信頼性、積極性等の各評価要素について、その内容を具体的に説明し、かつ、どういう点に着眼して評価すれば良いかを詳しく記載した評価要素説明書及び補足説明書が記載されている。

(イ) 評価の心がまえ等

「人事考課の手引」中には、「成績評価の心がまえ」との項を定めてある。そこでは、被評価者の全人格的評価を行うよう心掛けること、評価にあたっては、厳正・公平な評価態度を堅持し、日常の指導観察結果を評価に反映させること、勤務に関係のない私人としての行動については区別し、勤務成績と職務遂行能力に関係のあることだけについて評価すること、縁故関係や個人的な好き嫌い、偏見・同情などの私情をはさまないよう評価の公正を期すること等が記載されている。

(ウ) 評価者訓練

原告は、評価者である支店長、仮評価者である課長らを対象に研修の場を設け、制度の趣旨、目的や仕組み、ルール等について十分理解させるとともに、評価担当者の陥りやすい誤りについて指導することとしている。

(エ) 昇格・昇級に関する通知・説明

毎年の昇給、昇格の状況については、労働組合に通知している上、C及びD評語を受けた職員に対しては、本人の申し出があれば、その理由を具体的に説明することとしている。

(オ) 苦情処理委員会

原告と組合員との間に発生した苦情については、本人からの申し出により、労使が苦情処理委員会の場で十分審議し、結論を見出していくこととしている。

成績に関する組合員の苦情についても苦情処理委員会で審議することとしている。

(3) 以上によれば、原告の人事考課制度は、その公正性、客観性を担保するための仕組みが整備されているということができる。

(二) 人事考課制度の運用実態について(年功管理的な運用の有無)

(1) 大卒者の三等級への昇格について

ア 証拠(乙九三六ないし九四一)によれば、補助参加人らの大学卒業年度に属する大卒者について、昭和五九年から昭和六三年までの間の毎年四月一日の時点での等級の分布状況を見ると、次のとおりであることを認めることができる。

昭和三〇年大学卒については、昭和五〇年四月一日の時点で約四パーセントに当たる五人の者が四等級(副調査役)以下に格付けされ(その余の者は三等級以上に格付けされた。以下この項において同じ。)、昭和五九年から昭和六三年までの間も約四パーセントから約五パーセントに当たる四人ないし五人の者が四等級以下(昭和六〇年以降は特四等級以下)に格付けされていた。

昭和三三年大学卒については、昭和五〇年四月一日の時点では約四五パーセントに当たる四四人の者が四等級(副調査役)に格付けされていたが、昭和五九年四月一日の時点では約一〇パーセントに当たる九人の者が四等級(副調査役)に格付けされ、昭和六〇年から昭和六三年までの間については約九パーセントから約一〇パーセントに当たる八人ないし九人の者が特四等級に格付けされていた。

昭和三九年大学卒については、昭和五〇年四月一日の時点では一〇〇パーセントの者が四等級(副調査役)以下に格付けされていた(約二九パーセントの者が四等級(副調査役)、約七一パーセントの者が四等級に格付けされていた。)が、昭和五九年四月一日の時点では約二二パーセントに当たる一四人の者、昭和六〇年から昭和六三年までの間については約一三パーセントから約一七パーセントに当たる八人ないし一一人の者が四等級に格付けされていた。

昭和四〇年大学卒については、昭和五〇年四月一日の時点では一〇〇パーセントの者が四等級に格付けされていたが、昭和五九年四月一日の時点では約二六パーセントに当たる一四人の者が四等級(副調査役)及び四等級に格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点では約二五パーセントに当たる一三人の者が特四等級に格付けされ、昭和六一年四月一日の時点では約二三パーセントに当たる一二人の者が特四等級に格付けされ、昭和六二年四月一日及び昭和六三年四月一日の時点では約一九パーセントに当たる一〇人の者が特四等級に格付けされていた。

昭和四四年大学卒については、昭和五〇年四月一日の時点では一〇〇パーセントの者が四等級以下に格付けされていた(約三四パーセントの者が四等級、約六六パーセントの者が五等級に格付けされていた。)が、昭和五九年四月一日の時点では約五五パーセントに当たる一八人の者が四等級(副調査役)に格付けされ、昭和六〇年四月一日及び昭和六一年四月一日の各時点では約三六パーセントに当たる一二人の者が特四等級に格付けされ、昭和六二年四月一日の時点では約三三パーセントに当たる一一人の者が特四等級に格付けされ、昭和六三年四月一日の時点では約一八パーセントに当たる六人の者が特四等級に格付けされていた。

昭和四五年大学卒については、昭和五〇年四月一日の時点では一〇〇パーセントの者が五等級に格付けされていたが、昭和五九年四月一日の時点では約七一パーセントに当たる二二人の者が四等級(副調査役)以下に格付けされ(約六五パーセントの者が四等級(副調査役)、約六パーセントの者が四等級に格付けされていた。)、昭和六〇年四月一日の時点では約五八パーセントに当たる一八人の者が特四等級に格付けされ、昭和六一年四月一日の各時点では約四五パーセントに当たる一四人の者が特四等級に格付けされ、昭和六二年四月一日の時点では約三五パーセントに当たる一一人の者が特四等級に格付けされ、昭和六三年四月一日の時点では約二七パーセントに当たる八人の者が特四等級に格付けされていた。

イ 証拠(甲一一)によれば、補助参加人らの大学卒業年度以外も含めて昭和六〇年四月一日の時点における大卒者の等級別人員分布を見ても、三等級に昇格していない特四等級以下の下位等級に格付けされている者が、無視し得ない人数、割合で存在していることの事実を認めることができる。

ウ 以上の事実によれば、原告においては、大卒者で、卒業年度の同期の者の中から三等級以上に昇格した者が出た後にも、三等級に昇格せず、特四等級以下の下位等級に格付けされている者が、補助参加人ら以外に無視し得ない人数、割合で存在していることが明らかである。したがって、原告において補助参加人ら以外の大卒者の職員につき最終的には職員全員を三等級に昇格させるという運用が行われているということはできない。他方、入庫一八年で約七〇パーセントの者が三等級に昇格し、その後更に年数が経過するに連れてその割合が八〇パーセント程度に拡大していく傾向を認めることができるから、原告においては、同期、同学歴の職員の七〇パーセント、八〇パーセントの者が三等級へ昇格しており、かつ、三等級へ昇格する年次が入庫後相当長い年数であり、それだけの期間をかけて能力等を見定め、昇格させるか否かを決定しているという実態があるということができる。

したがって、補助参加人らは、同期の昇格者と比較して能力、勤務成績等において劣らないことを立証するか、又は(補助参加人らの能力、勤務成績が相当に劣悪であることが証明されない場合において)原告が人事考課において勤務実績等の事実を無視する等して補助参加人らを殊更に低く評価している事実と、補助参加人らが三等級へ昇格する年次に到達している事実とを立証すべきである。

(2) 大卒者の調査役への任用について

ア 証拠(丙二の一、二、四一の一ないし二一、四二の一ないし四、証人Q)によれば、大卒者及び高卒男子の副調査役・調査役への任用年次につき、別表「大卒者採用年次別任用状況」及び同「高卒男子採用年次別任用状況」のとおりの事実が認められる(右各別表における数値は、被告の右主張に係る数値と異なるが、認定のもととなった証拠の違いにより生じた差であることは明らかである。当裁判所は、右各別表のとおりの事実を前提に以下検討を加えることとする。)。

イ 大卒者の調査役への任用に関しては次のとおりである。

(ア) 右事実によれば、大卒者につき、同期者中副調査役への最速者の任用時期は、昭和三五年入庫の者から昭和四七年度入庫の者までについては勤続一一年目、昭和四八年度入庫の者から昭和六〇年度入庫の者までについては勤続一〇年目であって、昭和五八年度入庫最速者の任用時期を境にして、それぞれ一律となっている。また、同期者中過半数の者が副調査役に任用されるに至った時期については、入庫年次によってばらつきがあり、完全に一律ではないものの、勤続一〇年目ないし一三年目の幅の中にあり、かつ、全体的な傾向としては、その時期が徐々に早まっているということができる。

次に、同期者中調査役への最速者の任用時期は、昭和三九年度入庫の者から昭和四四年度入庫の者までについては勤続一三年目(ただし、これ以前の昭和三八年度入庫最速者に関しては、勤続一二年目で任用されている。)、昭和四五年度入庫の者から昭和五二年度入庫の者までについては勤続一二年目、昭和五三年度入庫の者から昭和五八年度入庫の者までについては勤続一一年目であって、昭和四四年度入庫最速者及び昭和五二年度入庫最速者を境にして、それぞれ一律となっており、かつ、その時期(勤続年数)が一年ずつ短縮されている。また、同期者中過半数の者が調査役に任用されるに至った時期については、入庫年次によってばらつきがあり、完全には一律ではないものの、勤続一三年目ないし一六年目の幅の中にあり、かつ、全体の傾向としては、その時期が徐々に早まっているということができる。

(イ) 以上によれば、大卒者のうち、副調査役及び調査役への任用の最速者の任用時期はおおむね一律である。また、副調査役についても、調査役についても、同期の職員の過半数が任用されていることは明らかであるが、過半数に至った時期はばらつきがあり、必ずしも勤続年数に応じて一律であるとはいえない。

(3) 高卒者の三等級及び四等級への昇格について

ア 証拠(乙九三六ないし九四一)によれば、補助参加人らの高校卒業年度に属する高卒者について、昭和五〇年及び昭和五九年から昭和六三年までの間の毎年四月一日の時点での等級の分布状況を見ると、次のとおりであることを認めることができる。

昭和三一年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、約八六パーセントに当たる三八人の者が四等級(副調査役)に、及び約一四パーセントに当たる六人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、約七一パーセントに当たる二九人の者が三等級以上に、約一九パーセントに当たる八人の者が四等級(副調査役)に、及び約一〇パーセントに当たる四人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年及び昭和六一年各四月一日の時点で、約七一パーセントに当たる二九人の者が三等級以上に、約一九パーセントに当たる八人の者が特四等級に、及び約一〇パーセントに当たる四人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日の時点で、72.5パーセントに当たる二九人の者が三等級以上に、二〇パーセントに当たる八人の者が特四等級に、及び7.5パーセントに当たる三人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六三年四月一日の時点で、約七七パーセントに当たる三〇人の者が三等級以上に、約一八パーセントに当たる七人の者が特四等級に、及び約五パーセントに当たる二人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和三二年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、約五四パーセントに当たる二一人の者が四等級(副調査役)に、及び約四六パーセントに当たる一八人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、約五八パーセントに当たる二一人の者が三等級以上に、約三九パーセントに当たる一四人の者が四等級(副調査役)に、及び約三パーセントに当たる一人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、約六一パーセントに当たる二二人の者が三等級以上に、約三六パーセントに当たる一三人の者が特四等級に、及び約三パーセントに当たる一人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日の時点で、六〇パーセントに当たる二一人の者が三等級以上に、約三七パーセントに当たる一三人の者が特四等級に、及び約三パーセントに当たる一人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日及び昭和六三年四月一日の各時点で、約六三パーセントに当たる二二人の者が三等級以上に、約三四パーセントに当たる一二人の者が特四等級に、及び約三パーセントに当たる一人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和三四年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、約六パーセントに当たる二人の者が四等級(副調査役)に、約八六パーセントに当たる三〇人の者が四等級に、及び約八パーセントに当たる三人の者が五等級にそれぞれ格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、約三七パーセントに当たる一二人の者が三等級以上に、約四一パーセントに当たる一三人の者が四等級(副調査役)に、及び約二二パーセントに当たる七人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、約四一パーセントに当たる一三人の者が三等級以上に、約三七パーセントに当たる一二人の者が特四等級に、及び約二二パーセントに当たる七人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日及び昭和六二年四月一日の各時点で、約四五パーセントに当たる一四人の者が三等級以上に、約三二パーセントに当たる一〇人の者が特四等級に、及び約二三パーセントに当たる七人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六三年四月一日の時点で、約四八パーセントに当たる一五人の者が三等級以上に、約二九パーセントに当たる九人の者が特四等級に、及び約二三パーセントに当たる七人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和三五年高校卒(昭和三六年度入庫)については、昭和五〇年四月一日の時点で合計五人と少数であるが、八〇パーセントに当たる四人の者が四等級に、及び二〇パーセントに当たる一人の者が五等級にそれぞれ格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、二〇パーセントに当たる一人の者が三等級(調査役)に、四〇パーセントに当たる二人の者が四等級(副調査役)に、及び四〇パーセントに当たる二人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、二〇パーセントに当たる一人の者が三等級に、四〇パーセントに当たる二人の者が特四等級に、及び四〇パーセントに当たる二人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日の時点で、二〇パーセントに当たる一人の者が三等級以上(特三等級)に、四〇パーセントに当たる二人の者が特四等級に、及び四〇パーセントに当たる二人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日及び昭和六三年四月一日の各時点で、二五パーセントに当たる一人の者が三等級以上(特三等級)に、二五パーセントに当たる一人の者が特四等級に、及び五〇パーセントに当たる二人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和三六年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、約八一パーセントに当たる二六人の者が四等級に、及び約一九パーセントに当たる六人の者が五等級にそれぞれ格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、二五パーセントに当たる七人の者が三等級(調査役)に、約四六パーセントに当たる一三人の者が四等級(副調査役)に、及び約二九パーセントに当たる八人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、二五パーセントに当たる七人の者が三等級に、五〇パーセントに当たる一四人の者が特四等級に、及び二五パーセントに当たる七人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日の時点で、約三〇パーセントに当たる八人の者が三等級以上に、約五二パーセントに当たる一四人の者が特四等級に、及び約一八パーセントに当たる五人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日及び昭和六三年四月一日の各時点で、約三三パーセントに当たる九人の者が三等級以上に、約四八パーセントに当たる一三人の者が特四等級に、約一九パーセントに当たる五人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和三九年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、一〇〇パーセントに当たる六三人の者が五等級に格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、約八パーセントに当たる四人の者が三等級(調査役)に、約六七パーセントに当たる三五人の者が四等級(副調査役)に、及び二五パーセントに当たる一三人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、約一二パーセントに当たる六人の者が三等級に、約六五パーセントに当たる三四人の者が特四等級に、及び約二三パーセントに当たる一二人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日の時点で、約一八パーセントに当たる九人の者が三等級に、約六三パーセントに当たる三一人の者が特四等級に、及び約一八パーセントに当たる九人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日の時点で、約二九パーセントに当たる一四人の者が三等級に、約五四パーセントに当たる二六人の者が特四等級に、約一七パーセントに当たる八人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六三年四月一日の時点で、約四〇パーセントに当たる一九人の者が三等級以上に、約四四パーセントに当たる二一人の者が特四等級に、約一六パーセントに当たる八人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和四〇年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、一〇〇パーセントに当たる六九人の者が五等級に格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、約五パーセントに当たる三人の者が三等級(調査役)に、約六七パーセントに当たる四一人の者が四等級(副調査役)に、及び二八パーセントに当たる一七人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、約七パーセントに当たる四人の者が三等級に、約七五パーセントに当たる四六人の者が特四等級に、及び約一八パーセントに当たる一一人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日の時点で、一〇パーセントに当たる六人の者が三等級に、約七三パーセントに当たる四四人の者が特四等級に、及び約一七パーセントに当たる一〇人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日の時点で、約一三パーセントに当たる八人の者が三等級以上に、約七二パーセントに当たる四三人の者が特四等級に、一五パーセントに当たる九人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六三年四月一日の時点で、約一八パーセントに当たる一一人の者が三等級以上に、約六七パーセントに当たる四〇人の者が特四等級に、一五パーセントに当たる九人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和四一年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、一〇〇パーセントに当たる七五人の者が五等級に格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、約二パーセントに当たる一人の者が三等級(調査役)に、約五四パーセントに当たる三〇人の者が四等級(副調査役)に、及び約四四パーセントに当たる二四人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、約六パーセントに当たる三人の者が三等級に、約六八パーセントに当たる三七人の者が特四等級に、及び約二六パーセントに当たる一四人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日の時点で、約一三パーセントに当たる七人の者が三等級に、約七〇パーセントに当たる三八人の者が特四等級に、及び約一七パーセントに当たる九人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日の時点で、約一七パーセントに当たる九人の者が三等級に、約六七パーセントに当たる三五人の者が特四等級に、約一五パーセントに当たる八人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六三年四月一日の時点で、約二七パーセントに当たる一四人の者が三等級以上に、約五九パーセントに当たる三〇人の者が特四等級に、約一四パーセントに当たる七人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

昭和四二年高校卒については、昭和五〇年四月一日の時点で、一〇〇パーセントに当たる九一人の者が五等級に格付けされ、昭和五九年四月一日の時点で、約一三パーセントに当たる七人の者が四等級(副調査役)に、約八五パーセントに当たる四五人の者が四等級に、及び約二パーセントに当たる一人の者が五等級にそれぞれ格付けされ、昭和六〇年四月一日の時点で、約一六パーセントに当たる八人の者が特四等級に、及び約八四パーセントに当たる四三人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六一年四月一日の時点で、約二パーセントに当たる一人の者が三等級に、約二五パーセントに当たる一三人の者が特四等級に、及び約七三パーセントに当たる三七人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六二年四月一日の時点で、四パーセントに当たる二人の者が三等級に、四〇パーセントに当たる二〇人の者が特四等級に、五六パーセントに当たる二八人の者が四等級にそれぞれ格付けされ、昭和六三年四月一日の時点で、約六パーセントに当たる三人の者が三等級に、約三八パーセントに当たる一八人の者が特四等級に、約五五パーセントに当たる二六人の者が四等級にそれぞれ格付けされていた。

イ 証拠(甲一二)によれば、補助参加人らの高校卒業年度以外も含めて昭和六〇年四月一日の時点における高卒者の等級別人員分布を見ると、三等級に昇格していない特四等級以下の下位等級に格付けされている者は、昭和二五年高卒者で21.1パーセント、昭和二六年高卒者で18.5パーセント、昭和二七年高卒者で33.3パーセント、昭和二八年高卒者で四五パーセント、昭和二九年高卒者で34.4パーセント、昭和三〇年高卒者で20.5パーセント、昭和三一年高卒者で29.3パーセント以下、昭和三二年高卒者で38.9パーセント、昭和三三年高卒者で42.1パーセント、昭和三四年高卒者で59.4パーセント、昭和三五年以後の高卒者では六五パーセント以上であり、昭和三一年以前の高卒者に限ってみても、18.5パーセントから四五パーセントまでばらつきがあったこと、これに対し、特四等級を含めてこれ以上の等級に格付けされている者は、昭和三五年高校卒及び昭和四二年高校卒を例外とし、おおむね七五パーセント以上に達していたことの事実を認めることができる。

ウ 以上の事実によれば、原告においては、高卒者の三等級昇格について、昭和三一年以前の高卒者を見ても、また、昭和三一年から昭和三四年までの高卒者を見ても、卒業年度の同期の者の中から三等級以上に昇格した者が出た後にも、三等級に昇格せず、特四等級以下の下位等級に格付けされている者が、約三〇パーセントを超える期が少なくなく、補助参加人ら以外に無視し得ない人数、割合で存在していることが明らかである。したがって、原告において補助参加人ら以外の高卒者の職員につき最終的には職員全員を三等級に昇格させるという運用が行われているということができないことはもちろん、入庫後相当長い年数が経過すれば三等級に昇格する者の割合が七〇パーセントないし八〇パーセントに達するという実態があるということもできない。他方、高卒者の四等級昇格については、特四等級を含めてこれ以上の等級に格付けされている者は、昭和六〇年四月一日の時点で、昭和三五年高校卒及び昭和四二年高校卒を例外とし、おおむね七五パーセント以上に達していた。昭和三六年高校卒で特四等級を含めてこれ以上の等級に格付けされている者は、昭和六〇年四月一日の時点で七五パーセント、昭和六二年四月一日の時点で約八一パーセントに達していた。昭和四一年高校卒については、昭和五九年四月一日の時点では四等級(副調査役)以上に昇格していたのは約五六パーセントの者にとどまるが、昭和六〇年四月一日の時点では特四等級を含めてこれ以上の等級に格付けされている者は約七四パーセントに達していた。昭和三五年高校卒(昭和三六年度入庫)については、右の全体的な傾向の例外となっているが、該当する人数が四、五人と少数であるから、右の全体的な傾向を当てはめて考えるのが相当であり、昭和六〇年四月一日の時点で七五パーセント以上に達していたものとして扱うのが相当である。

したがって、補助参加人らのうち、本件命令において、特四等級へ昇格しないことが労働組合法七条一号の不利益取扱いに当たるとされた者は、昭和六〇年四月一日以降の時点であれば、特四等級へ昇格し得る年次に到達していることになるから、同期の昇格者と比較して能力、勤務成績等において劣らないことを立証するか、又は(補助参加人らの能力、勤務成績が相当に劣悪であることが証明されない場合において)原告が人事考課において勤務実績等の事実を無視する等して補助参加人らを殊更に低く評価している事実とを立証すべきである。

(4) 高卒者の副調査役及び調査役への任用について

ア (2)、アのとおり。

イ 原告において補助参加人ら以外の高卒者の職員のにつき最終的には職員全員を副調査役又は調査役に昇進させるという運用が行われていることを認めるに足りる証拠はない。

ウ 高卒男子の副調査役又は調査役への任用に関しては次のとおりである。

(2)、アの事実によれば、高卒男子につき、同期者中副調査役への最速者の任用時期は、入庫年次によってばらつきがあり、完全に一律ではないものの、勤続一五年目ないし一七年目の幅の中にあり、かつ、全体的な傾向としては、その時期が徐々に早まっているということができる。また同期者中過半数の者が副調査役に任用されるに至った時期についても、完全には一律ではないものの、勤続一七年目ないし一九年目の幅の中にあるということができる。

同期者中調査役への最速者の任用時期も、同様にばらつきがみられるものの、勤続一七年目ないし二〇年目の幅の中にある。一方、同期者中過半数の者が調査役に任用されるに至った時期については、その勤続年数に大きなばらつきがみられる。

エ 副調査役への任用は特四等級への昇格と、調査役への任用は三等級への昇格と一体として考えるべきであり、ウのとおりである。

3  原告が、補助参加人らを対象として、人事考課制度を恣意的かつ不公正に運用したとの事実の有無について

他方、被告及び補助参加人らは、補助参加人らの処遇が総じて低位に位置付けられているのは、原告が、補助参加人らを対象として、人事考課制度を恣意的かつ不公正に運用したためである旨主張するので、以下その主張の内容を個別に検討する。

(一) 被告の主張について

被告は、原告の人事考課における運用実態として、女子職員を除外した四等級、五等級男子職員(中堅男子職員)についてみると、ほぼ四割から五割の者が評語Aを付与されているから、補助参加人らがほとんど評語Bの付与を受けていたことに照らし、原告の補助参加人らの勤務成績に関する評価は公正性が疑われる旨主張する。

確かに、前記認定のとおり、補助参加人らは、原告において職務給制度が導入された昭和四一年度以降、補助参加人Kが二度評語Aを付与されたことがある以外、すべて評語B以下を付与されていることが認められる。

しかし、仮に中堅男子職員の四割から五割の者が評語Aを付与されているという実態があったとしても、残りの五割から六割の者は評語B以下であるということになるから、補助参加人らがほとんど評語Bを付与されていたことをもって評価の公正性を否定する被告の右主張は理由がない。

なお、この点に関連して、補助参加人らは、四等級男子のうち評語Aを付与された者は、平成四年度から平成八年度までは六割を超えている旨主張し、これに沿う証拠(丙四四の一、証人Q)もある。しかし、本件命令が補助参加人らに関して処遇上の格差があり、その格差が是正されるべきとするのは、昭和六二年度までについてであるから、補助参加人らの主張する平成四年年度から平成八年度までの評語Aの付与率は、被告の右主張(原告の補助参加人らの勤務成績に関する評価は公正性が疑われる旨)を裏付けるものとはいえず、補助参加人らの右主張は採用の限りではない。

(二) 補助参加人らの主張について

(1) 補助参加人らは、恣意的な運用があったことを裏付ける事情の一つとして、勤務成績内申書の総合評価と項目別評価が断絶している点を主張し、証人A原の証言(以下「A原証言」という。)中には、昭和六〇年度から昭和六一年度にかけて、池袋支店において、その職員であるA田を役席として登用するために評価を徐々に上げていくことにし、そのために、評価の仕方としてまず総合評価を決め、それからこれに整合するように項目別評価を調整した旨、右主張に沿うとも考えられる部分がある。

しかし、右証言部分は、原告が、評価を上げていくために行っていた措置に関するものであり、補助参加人らの主張するような評価を下げる形での恣意的な運用に関するものではない。そして、評価を上げるための措置を行った事実によって、評価を下げるための措置が行われていたことを推認することができるものではないから、結局、右証言部分は補助参加人らの右主張を裏付けるものとはなり得ない。

そして、他に補助参加人らの右主張を認めるに足りる証拠はないから、右主張は理由がない。

(2) 補助参加人らは、A原証言によれば、昭和六〇年から昭和六一年にかけて、池袋支店において、原告側がその組合活動に対して警戒心を抱いていた補助参加人Dにつき、その評価を下げたことがあったことが認められ、この時期が発展会が企業告発型の活動を強めていた時期に符合することに照らせば、原告が評価を恣意的に行っていたことは明らかである旨主張する。

しかし、同じくA原証言によれば、右の時期には、補助参加人Dが地区の労働組合の者らとともに支店に押し掛けてきた件があり、その件に関し、原告としては、勤務態度に信頼が置けないとの判断で評価を下げたことが認められるから、補助参加人Dに関する右評価が恣意的なものであったとはいえず、補助参加人らの右主張は理由がない。

(3) 補助参加人らは、指導観察記録は、ア もともと原告の職員全員を対象とするものではない、イ その記載内容は組合対策がその重要な要素となる旨主張し、A原証言中にはこれに沿う部分がある。

しかし、右証言部分は、丙第三号証、第四号証及び第一二号証が指導観察記録であることを前提とするものであるところ、証拠(甲九、三九〇ないし三九三、証人A岡、同A原)によれば、原告において作成されていた指導観察記録の書式は甲第九号証のそれであり、A原も、これと同様の書式をもって指導観察記録(甲三九〇ないし三九三)を作成していたことが認められるところ、右丙第三号証等の書式は甲九号証のそれとは明らかに異なるから、右丙第三号証等は原告における指導観察記録には当たらないと認められる。

以上の点からすれば、A原の右証言部分は信用することができず、他に補助参加人らの右主張を認めるに足りる証拠はないから、右主張は理由がない。

(三) 以上のほか、前記のとおり、補助参加人らがその同期中位者に対し等級・号俸が下回った時期は、補助参加人ごとに区々であること、前記二で認定した事実及び弁論の全趣旨によれば、補助参加人らが参加して集団を形成していた全国活会及び発展会には、補助参加人ら以外にもその構成員がいるが、これらの者は、昇格・昇給に差別があったとして苦情処理委員会、労働委員会等に対して申立てを行っていないことが認められることにも照らすと、原告の人事考課制度の運用実態として、被告及び補助参加人らが前記のとおり主張する根拠によっては、補助参加人らを対象としてその人事考課上の評価が恣意的に行われていたものと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

4(一)  ところで、第二、一、5のとおり、補助参加人らの役職位(等級)あるいは号俸は、昭和五〇年度から昭和六三年度にかけて、その同期者中総じて低位に位置付けられている。殊に、補助参加人Jは昭和五三年度以降、補助参加人Oは昭和五七年度以降、補助参加人Gは昭和五〇年度以降、補助参加人Nは昭和五〇年度以降、補助参加人Lは昭和五七年度以降、補助参加人Dは昭和五〇年度以降、いずれも同期者中最下位に位置付けられていることが認められる。

さらに、第二、一、5、(一)及び(三)ないし(六)の事実に照らせば、補助参加人らと同様に同期者中低位に位置付けられている者のうちには、全国活会あるいは発展会の会員として、補助参加人らと同様の活動を行っていた者がいることが認められる。

以上の事実に、二のとおり、補助参加人らが全国活会あるいは発展会を形成して一様に企業告発型の闘争方針の下に活動を行っていたのであり、原告がこれを嫌悪していたとの事実を併せ考えれば、補助参加人らによって形成される集団と比較対照すべき集団との間において勤務の実績ないし成績が全体的にみて隔たりがなく均一性を有するとの前提が否定されず、かつ、反証のない限り、補助参加人らが処遇上低位に位置付けられている原因は右のような活動を行っていたことにあることが一応推認されるところであるが、前記のとおり、原告の職能給制度の運用実態として、大卒者で、卒業年度の同期の者の中から三等級以上に昇格した者が出た後にも、三等級に昇格せず、特四等級以下の下位等級に格付けされている者が、補助参加人ら以外に無視し得ない人数、割合で存在していること等の事実が認められる以上、右の推認は既に動揺しており、この推認に基づいて不当労働行為の成立を認めることはできない。補助参加人らは、前記のとおり、同期、同学歴の昇格者と比較して能力、勤務成績等において劣らないことを立証するか、又は(補助参加人らの能力、勤務成績が相当に劣悪であることが証明されない場合において)原告が人事考課において勤務実績等の事実を無視する等して補助参加人らを殊更に低く評価している事実を立証することを要する。

(二)  なお、以上のほか被告は、以下の各補助参加人の同期者の処遇等に関し、以下の事実を主張する。

(1) 別表「同期同学歴者等級別分布表」①(補助参加人K関係)につき、昭和六二年度まで特四等級に据え置かれたままの四名の中には、他の金融機関の理事長の息子であるなど、特別縁故で採用された者(同別表①のA、M)がいた。

(2) 同別表④(補助参加人R関係)につき、昭和六二年度において補助参加人Rと同等かあるいは下位の四、五名の中には、かねて補助参加人らと同様の組合活動を行い、支部や政労協の役員経験のある者(同別表④のM、I)、病気欠勤者やこの当時評語Dを付与された者(同別表④のY、N)がいた。

(3) 同別表⑥(補助参加人N関係)につき、Sとはb、Aとはcであることは第二の一5(二)のとおりであるが、同人らは発展会の会員であり、補助参加人らとともに組合活動を行ってきた者である。

(4) 同別表⑩(補助参加人Q関係)につき、補助参加人Qの直近上位には発展会会員の者(同別表⑩のK)がおり、昭和六二年度において四等級に留め置かれている七名は全員が女性である。

(5) 同別表⑫(補助参加人E及び同M関係)につき、昭和六二年度にも四等級に留め置かれている八名のうち少なくとも六名は女性(同別表⑫のM、I、F、Y、K、ほか一名)である。

しかし、右主張に係る事実は、いずれもこれを認めるに足りる証拠はない。

5  補助参加人らが立証すべき事実

(一) 補助参加人らのうち大卒者が昇格、昇給又は調査役への職位任用について立証すべき事実は、次のとおりである。

(1) 三等級への昇格については、該当する補助参加人らが同期の昇格者(本件命令の命じている救済方法を維持するためには本来は同期の中位者)と比較して能力、勤務成績等において劣らないことを立証すべきであるが、これが立証できないときには、この事実に替えて、原告が人事考課において補助参加人らの勤務実績等を無視し、あるいは虚偽の事実を根拠として補助参加人らを殊更に低く評価している事実その他の具体的事実、すなわち、原告が補助参加人らを三等級へ昇格させないために意図的にそのように低く評価しているものと推認する根拠となる事実を立証すべきである。また、端的に、該当する補助参加人らの能力、勤務成績が相当劣悪とはいえない事実を立証することも可能である。

(2) 調査役の職位への任用については、(1)と同様である。

(3) 昇給についても(1)に準じて考えることができる。

(二) 補助参加人らのうち高卒者が昇格、昇給又は副調査役若しくは調査役への職位任用について立証すべき事実は、次のとおりである。

(1) 特四等級への昇格及び副調査役への職位任用については、(一)、(1)と同様である。

(2) 三等級への昇格については、該当する補助参加人らが同期の昇格者と比較して能力、勤務成績等において劣らないことを立証することができるとすれば、実際上はこれが唯一の立証方法となろう。調査役への職位任用についても同様である。

(3) 昇給については、(一)、(3)と同様である。

四  争点3の(三)(補助参加人らの勤務状況等と不当労働行為の成否)について

1  補助参加人Kについて

(一) 補助参加人Kは、昭和五五年三月から浜松支店に勤務し、平成元年三月まで管理課の三等級調査役として延滞事務を担当していた(乙六二〇、一三〇〇、一三二一ないし一三二三)昭和六〇年から昭和六二年当時の補助参加人Kの勤務状況等につき、第三、一、5、(一)のこの点に関する原告の主張に沿って検討する。

(1) 裁判所の期日の失念について

ア 証拠(甲二五、二六の一、二、六六、乙一三一九、証人壬田)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 昭和五三年一二月二六日、二五〇万円を貸し付け、昭和五五年五月三一日に延滞口に編入した案件について、債務者は昭和六〇年三月二〇日に時効が完成することから、時効中断のため昭和六〇年三月一八日訴えの提起を行い、口頭弁論期日が昭和六〇年五月一五日午前一一時三〇分と指定されていた。ところが、担当の補助参加人Kはこの期日を忘れてしまい、当日になって裁判所から不出頭の連絡を受け、期日を失念していたことに気付いた。それから裁判所に赴いたのでは間に合わないところから、六月五日に期日延期を要請して何とかその場をしのいだ。

なお、この訴訟は、債務者が行方不明のため公示送達の申請をした案件で、公示送達による訴訟は、債権債務の存在について原告である公庫が立証を要することから、原告の職員(貸付契約の担当者)を証人として申請していたものであるが、補助参加人Kは、その口頭弁論期日を失念したのである。甲野次長が注意・指導したところ、補助参加人Kは「うっかりして申し訳ありませんでした。」と謝罪した。

(イ) 補助参加人Kは、浜松簡易裁判所において、口頭弁論期日を昭和六一年九月三〇日に指定されている案件を担当していたが、この口頭弁論への出頭を怠った。当日の口頭弁論は午前一一時から開始となっていたが、補助参加人Kは静岡地方裁判所に朝から出向き、午前一〇時三〇分には支店に戻るとの届出を行い出張していた。同時刻になっても補助参加人Kは戻らず何の連絡もないことから、支店では当然浜松簡易裁判所に直接出向いたのだろうと考えていた。ところが、同日午前一一時一五分ころ、浜松簡易裁判所から復代理人である補助参加人Kが出頭していないがどうしたのかとの連絡があった。支店は、急きょ対応を検討し、別件で同裁判所に出張していた延滞係の丁川副調査役を復代理人として申請すべく書記官に依頼し、裁判所が許可してくれたことから丁川副調査役が出廷し、当該案件の口頭弁論はことなきを得た。

補助参加人Kは、午前一一時二五分ころ支店に戻ってきたが、前述の状況を乙山職員から知らされ、慌てて浜松簡易裁判所に向かった。

この件については、その後補助参加人Kから何の報告もないことから、同年一〇月三日丙田次長が補助参加人Kを呼び、「自分が担当する案件の口頭弁論になぜ出頭しなかったのか、丁川副調査役が代わりに出頭してことなきを得たが、調査役として無責任である。」と注意した。

これに対して補助参加人Kは、「乗るべき列車に間に合わないため、浜松簡易裁判所に電話したところ、担当書記宮がいなかったので用件を連絡できなかった。当日は事件が立て込んでいるので当該口頭弁論は午後になると思った。」旨弁解した。

イ そこで検討するに、ア(イ)の補助参加人Kの弁解内容(期日が午後になると思った旨)は、期日に遅刻したことを正当化すべき理由とならず、かえって、自らの責任について不合理な方便で逃れる姿勢を示していると評されてもやむを得ないことをも併せて考えれば、右認定の事実は、裁判所に対する原告の信用を失墜させる重大な過誤であり、補助参加人Kは業務遂行に関して責任感に乏しいとの評価を免れず、人事考課上低く評価する根拠となる。

ウ これに対し、被告は、補助参加人Kの同僚が右各事例と同様の事態となった際には、急きょ期日の延期を申請したり、補助参加人Kが訴訟代理人となって対処したことがあるから、右各事例は過誤とまではいえない旨主張する。また、補助参加人らは、いずれの事例においても、補助参加人Kが期日に出頭しなかったことによる実害は生じなかったのであるから、右各事例は過誤とまではいえないと主張する。

しかし、ア(ア)の事例においては、補助参加人Kが期日に出頭しなかったことに何ら合理的な理由がないものであり、また、同(イ)の事例においては、期日に間に合わないことが分かった段階で適切な電話連絡をするなど、裁判手続や支店の事務処理に混乱を来さないように努めるべきところを怠ったものであるから、補助参加人K以外の同僚に期日に出頭できない場合があったこと、あるいは右各事例において結果的に実害が生じなかったことによって、補助参加人Kの過誤が否定されるものではなく、被告及び補助参加人らの右各主張はいずれも失当である。

(2) 時効完成について

ア 証拠(甲二七の一、二、二八の一、二、二九、六六、乙一三一九、証人壬田)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 昭和五二年九月二六日、二〇〇万円を融資した案件で、債務者は呉服販売業を営んでいたが、昭和五四年一〇月店舗が火災にあい、これを機として長女が事業を引き継いだが、業況は不振で、昭和五五年四月に廃業した。

当該貸付けは、昭和五五年二月分まで入金があったが、その後支払がなく、昭和五五年五月末日に延滞口に編入された。以降、当該延滞口は補助参加人Kが担当し、断続的な管理を行ったが、解消のないまま時効完成時期(昭和六〇年三月二〇日)が近づいてきたので、甲野次長から昭和六〇年二月二七日に、「時効中断は訴訟又は承認で対処すること。」との指示を受けた。ところが、補助参加人Kは、この指示を実行しないまま放置し、消滅時効を完成させてしまった。

その後、補助参加人Kは時効が完成してしまったことに気付き、昭和六〇年三月二八日になって慌てて債務者から支払猶予願を徴求した。徴求した日付は、時効完成前の昭六〇年三月一〇日とした。また、その際、補助参加人Kは、本件の債権者は国民金融公庫であるにもかかわらず、誤って債権者を環衛公庫とした支払猶予願を徴求した。

(イ) 昭和五三年六月二二日、一五〇万円を融資した案件で、債務者は紳士服の販売修理業を営んでいたが、昭和五四年五月に、知人に手形(一八〇万円)を詐取され、これが街金融に出回ったことから資金繰りが悪化し、業況が行き詰まってしまった。当該貸付けの返済状況は、昭和五四年三月分まで入金はあったが、右経緯から支払が困難となり、債務者の申出により、昭和五四年五月二八日に、利息については昭和五四年七月から、元金は同年八月から支払額を少なくして支払う条件変更を行った。しかし、その後債務者は昭和五四年八月二七日に利息と遅延損害金の一部について支払っただけで、その後は支払を行わないまま昭和五四年九月二九日に延滞口に編入された。編入後補助参加人Kが担当し、以降断続的に管理をした。

しかし、補助参加人Kは時効完成期日(昭和五九年八月二七日)を看過して、消滅時効を完成させてしまった。以降、補助参加人Kはこのことに気付かないまま管理していたが、昭和六一年一月二〇日になってようやく時効の完成に気付き、債務者からあわてて支払猶予願を徴求した。その日付については、時効完成前の昭和五九年六月二五日とした。

(ウ) 昭和五五年一二月二四日、一〇〇〇万円を貸し付けた案件について、この貸付けは、当初保証人の所有する土地を担保とし、その後当該土地の上に建築される建物を担保とするとの条件で融資した案件であるが、債務者は、昭和五六年八月一五日まで支払った後、同年九月二一日に死亡してしまった。その後、建物を担保に入れるとの条件については関係者の協力が得られず、担保の設定ができないため、当該建物に仮差押えをすることになった。その時点で、当該債権は未入金口であったが、仮差押え等の法的手続は延滞係が担当していたので、支店ではこの仮差押えを補助参加人Kに指示した。指示を受けた補助参加人Kは、昭和五六年一二月四日に仮差押えを申請し、以降の管理は補助参加人Kに担当させていた。昭和五九年四月一六日に保証人が来店し、条件変更を認めてほしい旨の申出があり、補助参加人Kは、これに応じる旨の意見具申を行い、決裁を得た。

しかし、この条件変更での支払期間は長期間であり、債務者が死亡していることから時効の問題が生じ、補助参加人Kは、昭和六一年五月二一日、時効中断のため訴訟を提起する旨の意見具申を行い、決裁を得た。しかし、補助参加人Kは速やかに訴訟提起の手続に着手せずに放置したため、結局昭和六一年九月一五日に時効が完成してしまった。補助参加人Kの弁解によれば、時効の起算点を間違えたということであった。

この案件も、相続人から支払猶予願を徴求して時効中断を図らざるを得なかった。

ウ そこで検討するに、時効が完成すると、原告から偵務者等への支払請求権が消滅してしまうという債権回収上重大な事態となり、その過誤の重大性は明白であること、アの各事例はたまたま支払猶予願の徴求を行うことができたに過ぎず、右徴求を行うことができたことで右各事例の過誤が解消されるものではないこと、ア(ア)の事例においては、支払猶予願の徴求に際して債権者を誤っていること、同(ウ)の事例においては、自ら訴訟提起の意見具申を行い、その旨の決裁を受けたにもかかわらず、これを放置して時効を完成させてしまったこと、以上の各点に照らせば、右事実は、補助参加人Kに事務処理に当たってずさんな点があり、業務遂行に当たって責任感に欠ける点があることを示しているから、人事考課上低く評価される根拠となるというべきである。

被告は、原告において時効を完成させてしまう例は全国的にも少なくなく、また、後には、管理効果の乏しい債権については時効中断の措置を省略するようにもなったとの事情を挙げて、右各事例は過誤とはいえない旨主張するが、採用できない。

(3) 公印持ち出しについて

ア 証拠(甲三〇、三一、乙一三一九)によれば、原告の公印については、公印取扱規程で、公印である裁判所提出書類専用支店長印を支店外に持ち出して使用する場合、裁判所専用印持出簿によりその都度公印管理者等の承認を受け、持出使用を完了したときは直ちに当該提出簿に必要事項を記入し、返戻すること、また、公印は保管設備に格納して厳重に保管する旨定められていること、補助参加人Kは、このような定めに反し、昭和六一年四月二六日裁判所専用印を持出簿に記載せず、甲野次長の承認を得ないまま無断で裁判所に持ち出した上、同日当該印をそのまま自宅へ持ち帰ってしまったこと、以上の各事実が認められる。

イ 右の事実は、補助参加人Kの事務処理におけるずさんさを示すものであり、人事考課上低く評価する根拠となる。

補助参加人らは、この事例においては、公印がない状況でも、支店の実印で代用して対処することができたのであるから、実害が生じていない旨主張するが、仮に実害が生じなかったとしても、そのことによって右判断が左右されるものではないことは明らかであり、補助参加人らの右主張は失当である。

(4) その他の事務処理上の過誤について

ア 証拠(甲三二ないし三四、乙一三一九、証人壬田)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 補助参加人Kの担当で、昭和六一年三月一五日に時効が完成する案件について、時効中断のため同月一二日に訴えを提起したところ、同月一三日浜松簡易裁判所から、「昨日訴状の提出があったが、債務者には甲、乙二つの債権があり、「請求の原因」の記載で甲、乙逆の内容になっている、また、同原因中訴外会社の記載がなされているが、「株式会社」が欠落している。」との連絡があった。補助参加人Kは、一三日、一四日、一五日と連続して年休を取得しており、そのため、戊山課長が直接担当書記官と交渉し、訴状の受理日は三月一二日のままとし、同月一七日に補助参加人Kを補正に行かせることで了解を得た。

(イ) 昭和六一年三月一四日、浜松簡易裁判所からやはり補助参加人K担当の別案件について、「昭和五六年に支払命令を申し立てた案件について、保証人二名のうち一名については昭和五六年六月一四日に支払命令は送達されているが、債務者及び他の保証人には不送達のままとなっている。五年近くの経過があり、今後どうするのか。」との連絡があった。当該案件は既に昭和五九年六月七日に完済となっていることから、補助参加人Kは本来この時点で支払命令の取下げを行うべきであったが、このことを看過して放置していたことになる。

イ 右の事実は事務処理上の過誤に当たり、補助参加人Kが人事考課上低く評価される根拠となる。

被告は、ア(イ)の事例に関し、送達がされていないことの連絡を裁判所が失念していたものと認められる旨主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はなく、被告の右主張は理由がない。

なお、補助参加人らは、同(ア)の事例に関し、甲第三二号証のように、原告の職制が、訴状の記載に関する裁判所書記官からの電話の内容をわざわざ記録にとどめていること自体、原告の補助参加人Kに対する差別的な意図の表れである旨主張するが、同事例の過誤の性質、同号証の記載内容に照らせば、電話の内容を具体的に記録しておくことが不自然であるとは認められず、補助参加人らの右主張は採用できない。

ウ(ア) 次に、証拠(乙一三一九、証人壬田)によれば、ア(ア)及び同(イ)の件に関して、補助参加人Kと甲野次長との間で次のとおりのやりとりがあったことが認められる。

ア(ア)及び同(イ)の過誤に関し、甲野次長は、昭和六一年三月一八日、補助参加人Kに対して、事務処理上の単純な過誤を繰り返すことのないよう注意・指導した。これに対し、補助参加人Kは、同月一九日、甲野次長に対して、「三月一三日の件については、経費節減を考えて二口同時に訴訟手続をしたが、一部記載ミスにより裁判所から連絡のあったもので、全くの事務上のミスである。また、同月一四日の件については、これも全く事務的なことで日常発生しているもの。このようなものを一々支店長まで報告することは、おかしいではないか。」と反論した。甲野次長は、「全く事務上のミスというが、ミスが度重なれば注意・指導することは当然であるし、事務上のミスといっても裁判所に対する信用上の問題もあり、注意指導したものである。また、これらについて上司に報告することも当然のことである。むしろ、こういった単純な事務ミスを調査役のあなたが繰り返していることが問題である。」と話した。

(イ) 原告は、このやりとりにつき、補助参加人Kは反抗的な態度を示した旨主張するが、補助参加人Kのこのような発言のみによって直ちにその態度が反抗的であるとまでいうことはできず、他にその態度が反抗的であったことを認めるに足りる証拠はない。

よって、右(ア)のやりとりを人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(5) V商工会議所との間のトラブルの件について

ア 証拠(甲三五の一、二、三七の一ないし三、乙一三一九、証人壬田)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 昭和六一年五月三〇日、V、W、Yの三商工会議所と浜松支店との経営改善貸付けに関する打合せ会が開催された。同支店からは壬田支店長、甲野次長、戊山課長ら五名の職員が出席した。その席上、V商工会議所の乙川課長から、「浜松支店のK調査役は、当会議所の経営改善貸付けに係る審査、推薦が十分な調査もしないで問題である旨当会議所の審査委員に発言したが、このことは極めて心外である。」、「このようなことでは当会議所は今後公庫の業務には協力できない。」との厳重な抗議があった。

この打合せ会には、V商工会議所のほか、右のとおりW商工会議所、Y商工会議所の関係者も出席していたため、原告にとっては重大な信用問題となった。

(イ) 右打合せ会に遅れて出席した壬田支店長は、甲野次長の報告でこのことを知り、打合せ会の席において、乙川課長から改めて事情を聞いた上で、とにかく事情を確認させてもらいたい旨述べた。翌日(昭和六一年五月三一日)、同支店長は甲野次長に指示して、事実関係を確認させることにした。そこで同次長は、補助参加人Kを呼び、管理課長同席で事実関係をただした。これに対し補助参加人Kは、一週間以上前に、V商工会議所の癸田所長から同旨の抗議の電話があったと述べ、自分がそのような発言をしたことは明確には覚えていないが、自分の発言がそのように受け取られたのであれば申し訳ないと答えた。

(ウ) そこで、壬田支店長は、戊山課長を伴い昭和六一年六月四日V商工会議所を訪問し、審査委員長でもある同商工会議所の戊田副会頭及び戊川専務と面談し陳謝した。しかし、同商工会議所は、補助参加人Kの言動は経営改善貸付けに長年努力してきた同商工会議所を侮辱するものであり、断じて許されないと強硬な態度であった。そのため、壬田支店長は補助参加人Kの軽率な言動を深く謝罪し、審査に問題があるというのであれば、それは支店に問題があるということであり、支店長の責任であると考える旨説明してようやく了解してもらった。支店に帰った後、壬田支店長は、甲野次長に指示して、補助参加人Kに対して発言には慎重にするようにと厳重に注意した。また、支店は、V地区の担当を補助参加人Kから丁川副調査役に変更したが、このような措置は、V商工会議所関係者の反発があまりにも強かったため、補助参加人Kに同地区を担当させるのは適当でないとの判断に基づくものであった。

イ このように、補助参加人Kは、不用意な発言によって原告にとって良好な関係を保つべき団体との間の信頼関係を損ない、原告の信用を失墜させたものであるから、原告が補助参加人Kに重要な取引先との交際、交渉をゆだねることは危険であると判断したとしても無理はなく、人事考課上低く評価する根拠となる。

(6) 年休取得について

ア 証拠(甲二五、乙一三一九)によれば、補助参加人Kが、昭和六〇年五月二七日当日になって年休取得を届け出て、午後から退店したこと、同日は、支店長、次長、融資課長、管理課長が不在となる日であり、職員にもその旨周知されていたことが認められる。

イ 右の事実は、補助参加人Kが、直属の長を代理にして組織全体の業務遂行に支障がないように努める姿勢を示さず、より上位の等級、職位に伴う職務遂行に不安を抱かせるものであるから、人事考課上低く評価する根拠となる。

(7) 支店業務への非協力について

ア 証拠(甲三八、乙一三一九、証人壬田)によれば、昭和六〇年八月二二日、浜松支店において本店検査部検査が行われることになり、これに先立ち、同月一九日、支店の業務懇談会の場で壬田支店長が、検査当日の二二日の朝は支店役席は早めに出勤するよう指示したこと、当時は夏期健康管理の一環として業務に支障のない限り半数交替で三〇分の遅出が認められていたから、同支店長は、検査当日は支店の役席は本来の始業時刻である午前八時五五分までには全員出勤することを指示したことになること、ところが、補助参加人Kは、右同日には、午前九時二三分に出勤してきたことが認められる。

イ 右の事実は、補助参加人Kが上司の指示に従わなかった等の点で、人事考課上低く評価する根拠となる。

(8) 岡崎支店への抗議行動について

ア 証拠(甲四一、四二、乙一三一九)によれば、次の事実が認められる。

補助参加人Kは、昭和六一年九月二四日午前一〇時ころ、補助参加人Eの配転に関する抗議行動と称して外部の人員を含む約二〇名の人員を引き連れ、岡崎支店に押しかけた。補助参加人Kらは、「E職員の岡崎支店転勤について抗議する。」、「支店長を出せ、支店長に会わせろ。」と口々に叫び、応対に出た岡崎支店の総務課長が、支店長は面会しないことを告げて退店を促したが、これに応じず、約四五分間店内にとどまり、抗議文を大声で読み上げるなどして騒ぎを起こした。このとき岡崎支店は営業中であり、ロビーには来店客もおり同支店の業務に大きな支障を生じさせた。

壬田支店長は、岡崎支店からこの連絡を受けたので、翌日の九月二五日午後、補助参加人Kを呼び事実を確かめて注意した。これに対して、補助参加人Kは、「確かに岡崎支店へ行った。年休をとってやったことで問題ない。支店長が面会してくれればよいのに会わないからだ。」と反論した。

イ 右の事実、殊に、補助参加人Kらが、業務時間中に支店のロビーに入って抗議文を読み上げるなどして、業務に重大な支障を与えたことに照らせば、この行動が組合活動の一環であったとしても、そこに正当性を見出すことは困難であり、原告が、補助参加人Kが職場の秩序を乱す行為を行ったとして、これを人事考課上低く評価する根拠とすることは許されるというべきである。

(9) 指示実行遅延について

ア 証拠(甲二三八ないし二六〇、五〇一、乙一三一九、一三二五、証人壬田)によれば、次の事実が認められる。

① 貸付日昭和五五年五月八日貸付金額二五〇万円で、保証人の所有する建物に原告が抵当権を設定している案件について、昭和五九年一〇月一二日に抵当権の実行申立てを行うよう指示を受けているにもかかわらず、補助参加人Kは放置した。そこで、昭和六〇年二月二七日、六月一四日、一〇月二一日と繰り返し指示したが、それでも応じなかった。結局昭和六一年二月二〇日に静岡地方裁判所掛川支部に抵当権の実行申立てを行うまで、約一年四か月にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五二年七月五日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和五九年一〇月一五日に債務者及び保証人に対して、訴えの提起を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年三月八日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約五か月にわたり実行しなかった。

③ 貸付日昭和五七年八月三一日貸付金額五八〇万円の案件で、昭和五九年一二月一五日に保証人二名のうち一名について実訪し、実態調査を行うよう指示を受けているにもかかわらず、これを放置した。そこで、昭和六〇年二月四日に甲野次長が、同年六月一四日に戊山課長が、それぞれ右指示の未着手について注意した。しかし、補助参加人Kはこれらの注意を無視し、昭和六〇年七月二四日に保証人B田を実訪するまで約七か月にわたり実行しなかった。

④ 貸付日昭和五五年三月三日貸付金額五〇万円の案件で、昭和六〇年一月一六日に債務者を実訪し実態把握の上当該債権の管理の選別区分をするよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年七月二四日に債務者を実訪し選別区分の意見具申を行うまで約六か月にわたり実行しなかった。

⑤ 貸付日昭和五四年五月一四日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年二月二八日に債務者及び保証人に対し、訴えの提起を行うよう指示を受けていたにもかかわらず、昭和六〇年五月二四日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約三か月にわたり実行しなかった。

⑥ 貸付日昭和五二年一一月三〇日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月一一日に保証人二名のうち一名に対して実行していた給与債権差押えについて、整理のため取下げを行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年八月七日に取り下げるまで約一年四か月にわたり実行しなかった。

⑦ 貸付日昭和五四年一〇月一六日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月二六日に保証人に対して訴えの提起を行うよう指示を受けているにもかかわらず、補助参加人Kは放置した。そこで、昭和六〇年七月一一日に戊山課長が再度指示したが、補助参加人Kはそれにも応じなかった。結局、補助参加人Kは、昭和六〇年九月二五日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約五か月にわたり実行しなかった。

⑧ 貸付日昭和五四年三月三〇日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六〇年六月二〇日に債務者に対して訴えの提起を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年一〇月一七日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約四か月にわたり実行しなかった。

⑨ 貸付日昭和五七年七月三〇日ほか貸付金額計八五〇万円の案件で、昭和六〇年七月一七日に債務者及び保証人に対し、訴えの提起を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年一〇月一五日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約三か月にわたり実行しなかった。

⑩ 貸付日昭和五五年六月二六日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年八月一九日に保証人に対して訴えの提起を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年一一月五日に債務者の住所を照会し、同年一一月一九日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約二か月半にわたり実行しなかった。

⑪ 貸付日昭和五九年四月四日貸付金額一二〇〇万円で、競売申立てを行った後、競売続行申請をした案件について、昭和六〇年九月二日にその後の経過状況につき裁判所に照会するよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年二月一七日に静岡地方裁判所浜松支部に照会するまで約五か月にわたり実行しなかった。

⑫ 貸付日昭和五五年四月一六日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六〇年一〇月一四日に債務者及び保証人二名に対し、訴えの提起を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年四月一日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約六か月にわたり実行しなかった。

⑬ 貸付日昭和五八年七月一五日貸付金額七〇〇万円の案件で、昭和六一年七月二九日に保証人に対して実態調査を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年三月一二日まで約七か月半にわたり実行しなかった。

⑭ 貸付日昭和四九年六月一三日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六一年七月三〇日に保証人及び債務者の相続人のうちの一人に対し、実態把握を行うよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年三月五日に母親と信用保証協会に連絡するまで約七か月にわたり実行しなかった。

⑮ 貸付日昭和五六年六月一九日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年一一月一二日に、昭和六二年三月三一日にまでに債務者を実訪し、生活実態を把握するよう指示を受けていたにもかかわらず無視して放置し、さらに昭和六二年三月一二日に注意を受けたがこれも無視して実行せず、右期限に遅れて同年四月二四日に債務者を実訪した。

⑯ 貸付日昭和五五年三月一九日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年一一月一四日に債務者を実訪し、実態把握を行うよう指示を受けているにもかかわらず無視して放置し、さらに昭和六二年七月二八日に注意を受けたがこれも無視して実行せず、昭和六二年一〇月一九日に債務者を実訪するまで約一一か月にわたり実行しなかった。

⑰ 貸付日昭和五五年一一月二八日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六一年一一月一四月に免責的債務引受人と直接交渉を行うよう指示を受けていたが無視して放置し、さらに昭和六二年一月三一日、同年二月一八日に指示を受けたが無視して実行せず、昭和六二年四月六日に免責的債務引受人と面談して交渉するまで約五か月、また、昭和六二年九月四日に抵当権実行の申立てを行うよう指示を受けていたにもかかわらず、同年一一月二七日に静岡地方裁判所V支部に抵当権実行の申立をするまで約三か月にわたり実行しなかった。

⑱ 貸付日昭和五五年七月二五日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年四月八日に、同年六月末日までを期限として債務者の生活実態、勤務先を確認するよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年一〇月一四日に憤務者を実訪するまで実行せず、右期限に約三か月半遅れた。

⑲ 貸付日昭和五三年二月六日貸付金額一八〇〇万円の案件で、昭和六二年五月一二日に債務者法人代表者について、江東支店に管理依頼を行うよう指示を受けていたにもかかわらず、昭和六二年八月五日まで約三か月にわたり実行しなかった。

⑳ 貸付日昭和五四年一一月二六日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年六月五日に債務者の実態調査を行い、当該債権の選別区分を再検討するよう指示を受けていたにもかかわらず、昭和六二年一一月二〇日に選別区分の意見具申をするまで約五か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五六年九月八日ほか貸付金額計一三五〇万円の案件で、昭和六二年七月三日に、同年九月末日までを期限として保証人に対して実訪を行い、現況確認を行うことの指示を受けていたにもかかわらず無視して放置し、さらに昭和六二年一〇月二八日に注意を受けたがこれも無視して実行せず、昭和六三年三月一八日に保証人を実訪するまで実行せず、右期限に約五か月半遅れた。

貸付日昭和五〇年七月一七日ほか貸付金額計三〇〇万円の案件で、昭和六二年七月三〇日に債務者に対して実訪を行い、実態を把握するよう指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年一月八日に債務者を実訪するまで約五か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五五年八月一四日貸付金額二三〇万円の案件で、昭和六二年一一月九日に債務者に対して実訪を行い、実態把握を行うよう指示を受けていたにもかかわらず無視して放置し、さらに昭和六三年二月一六日に注意を受けたがこれも無視して実行せず、結局壬田支店長が昭和六三年三月に浜松支店を離任するまでに実行しなかった。

貸付日昭和六〇年一一月一三日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六二年一二月一六日に債務者及び保証人に対して訴えの提起を行うよう指示を受けていたにもかかわらず、昭和六三年二月一二日に浜松簡易裁判所に提訴するまで約二か月にわたり実行しなかった。

イ これら二四の事例が、約三年二か月の間(指示のあった日を基準とする。)に順次引き起こされていること、右各事例において補助参加人Kが指示の実行を遅延させるに当たり合理的な理由があったと認めるに足りる証拠がないこと、この遅延により債権回収等の管理面に間接的、場合によっては直接的に影響を及ぼしたこと(なお、ア⑲の事例については、管理カードが証拠として提出されていないため、いかなる経緯で指示が出されたのか、あるいは、補助参加人Kが指示を受けてから実行するまでに何らかの管理を行っていたかなど、具体的な事情が不明であるが、他支店への管理依頼という指示内容の性質に照らせば、補助参加人Kが指示の実行を遅延させるにつき合理的な理由があったとは到底考え難く、したがって、右判断は⑲の事例にもそのまま当てはまるというべきである。)、ア①、③、⑦、⑪、⑯、⑰及びの各事例については、当初の指示の後、上司から、管理カード上で、指示事項が実行されていないことの注意を受けているにもかかわらず、なお実行を遅延させていること、同⑤ないし⑩、⑰及びの各事例にあっては、補助参加人Kが自ら意見具申して、その内容に従った実行の指示を受けているにもかかわらず、指示の実行を遅延させていることが認められることに照らせば、これらの各事例は、補助参加人Kの原告の職員としての基本的な能力や業務遂行に対する意欲に欠けることを示すものであり、人事考課上低く評価する根拠となる。

ウ これに対し、被告は、ア③の事例については、当該債権は回収困難なものであったこと、同④及び⑦の各事例については、当該指示はいずれも延滞口に編入されてから長期間経過した段階のものであることをそれぞれ挙げて、補助参加人Kの指示実行遅延にも合理的な理由があるかのように主張する。

しかし、同③の事例に関しては、証拠(甲二四〇)によれば、当該指示は、保証人は一応事業を継続しているようなので、実地調査により実情把握をするように、との内容となっていることが認められるから、上司は、回収の可能性を念頭に置いて指示を出しているということができる。そして、仮に補助参加人Kがこれと異なり、回収が困難であると判断していたのであれば、担当者としてその旨意見を具申して右上司の再考を促すなどの対応を取るべきであると考えられるところ、同証拠をみても、補助参加人Kがそのような意見を具申した形跡は認められない。そうすると、この件に関する補助参加人Kの対応は、自らも回収の可能性があると判断していたにもかかわらず、右指示を実行しなかったか、あるいは、回収困難であると判断していたが、その旨意見を具申しないまま、約七か月にわたって指示を無視し続けていたかのどちらかであったということができるのであって、結局、指示を実行しなかった点につき合理的な理由があったとは到底認め難い。

また、同④及び⑦の各事例に関する被告の主張は、延滞口債権として長期化している債権については、具体的な管理は不要であることを前提としているものとうかがわれるところ、証拠(乙五八七、五八八)によれば、原告において、延滞口債権が長期化した場合でも、そのことのみで直ちに管理が不要となるわけではないものと認められる。

被告の右主張はいずれも失当である。

(10) 管理放置について

ア 証拠(乙一三一九、一三二五、証人壬田)によれば、次の事実が認められる。

① 貸付日昭和五五年三月三日貸付金額五〇万円の案件で、昭和五九年一〇月一日から昭和六〇年七月二四日まで約九か月半の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五四年八月三一日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和五九年一一月五日から昭和六〇年七月九日まで約八か月の間、一切管理を行わなかった。

③ 貸付日昭和五七年八月三一日貸付金額五八〇万円の案件で、昭和六〇年二月五日から同年七月九日まで約五か月の間、一切管理を行わなかった。

④ 貸付日昭和五五年五月八日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六〇年四月一三日から同年一一月一八日まで約七か月の間、一切管理を行わなかった。

⑤ 貸付日昭和五四年一〇月一六日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月二七日から同年九月二五日まで約五か月の間、一切管理を行わなかった。

⑥ 貸付日昭和五六年六月一九日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年五月一六日から同年一〇月一一日まで約五か月の間及び昭和六〇年一〇月一二日から昭和六一年四月一四日までの約六か月の間、一切管理を行わなかった。

⑦ 貸付日昭和五八年八月八日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六〇年八月一日から同年一二月一〇日まで約四か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑧ 貸付日昭和五五年四月一六日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六〇年一〇月一五日から昭和六一年四月一日まで約五か月半の間及び昭和六一年一〇月七日から昭和六二年三月二日まで約五か月の間、一切管理を行わなかった。

⑨ 貸付日昭和五三年四月一八日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年一〇月一七日から昭和六一年四月四日まで約五か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑩ 貸付日昭和五九年四月一六日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年六月一七日から昭和六二年六月三〇日まで約一年の間、一切管理を行わなかった。

⑪ 貸付日昭和五七年一二月一七日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六一年八月二日から同年一二月五日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑫ 貸付日昭和五五年一一月二八日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六一年九月一日から昭和六二年三月三一日まで約七か月の間、一切管理を行わなかった。

⑬ 貸付日昭和六〇年六月二八日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年一一月二〇日から昭和六二年四月二三日まで約五か月の間、一切管理を行わなかった。

⑭ 貸付日昭和六〇年二月二〇日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六二年三月三日から同年一〇月一五日まで約七か月の間及び昭和六二年一二月二六日から昭和六三年四月二八日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑮ 貸付日昭和五五年七月二五日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年四月九日から同年九月一〇日まで約五か月の間、一切管理を行わなかった。

⑯ 貸付日昭和五三年五月三一日貸付金額七〇〇万円の案件で、昭和六二年七月四日から昭和六三年二月二九日まで約七か月の間、一切管理を行わなかった。

イ 右の事実によれば、約二年九か月の間(管理放置の始期を基準とする。)に一六件(ただし、ア⑥、⑧及び⑭の各事例の管理放置各二回を含めれば一九件)は、管理を放置していたに過ぎないが、ア⑦、⑪及び⑭以外はいずれも期間が五か月以上となっており、これら各事例に合理的な理由があったことを認めるに足りる証拠がないことに照らすと、これらの事例は、補助参加人Kの事務処理に問題があったことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(二) 結論

(1) 以上のとおり、補助参加人Kの勤務状況等に関する原告の主張(第三、一、5、(一))は、補助参加人Kが上司に対して反抗的な態度を示したことを除いては、いずれも理由があるものと認められる。

(2) 次に、右各年度の翌年度に当たる昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人K及びその同期中位者の格付は、第二、一、5のとおりであり、補助参加人Kの格付は、同期者一一三名ないし一〇七名中下から一二番目ないし一四番目に位置付けられていたことが認められる。

(3) そこで検討するに、昭和六〇年から昭和六二年にかけての補助参加人Kの勤務状況等は、基本的能力や事務処理に対する意欲に欠けるものであり、このことに照らせば、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人Kの格付は不当に低いとは認め難いから、原告が補助参加人Kの組合活動等を決定的動機として不利益に取り扱ったものとは認められず、本件命令中この点に関する部分は取消しを免れない。

(4) なお、被告は、昭和四九年度に調査役に任用された後、補助参加人Kは、業務上の通達や職員の相談事から意図的に隔離された状況にあり、このような状況等に照らせば、原告が補助参加人Kを調査役に任用した目的は、原告が同人を非組合員である調査役に棚上げして組合活動から遠ざけようとしたことにある旨主張して、原告の補助参加人Kに対する不当労働行為の成立を認める根拠の一つとする。しかし、右主張に係る事実を認めるに足りる証拠はなく、かえって、証拠(甲四〇、証人壬田)によれば、補助参加人Kは、昭和六〇年三月二九日に行われた浜松支店の役席会に出席していることが認められる。

2  補助参加人Aについて<省略>

3  補助参加人Jについて

(一) 補助参加人Jは、昭和五六年三月から川越支店に、昭和六一年三月から高崎支店に勤務し、川越支店において延滞係として、高崎支店において、昭和六二年九月まで延滞係、それ以降は審査係として、それぞれ勤務していた(甲四八四、四八六、四八九、四九一の一、二、乙九五五)昭和六〇年から昭和六二年当時の補助参加人Jの勤務状況等につき、第三、一、5、(三)のこの点に関する原告の主張に沿って検討する。

(1) 「管内経済金融動向」の作成について

証拠(甲四八四)によれば、昭和六〇年三月八日、補助参加人Jが、上司から本店総括室に報告する文書である「管内経済金融動向」を作成するように指示されたが、補助参加人Jは、他の仕事で手一杯であり、報告書は調査役が作成すべきであるとして、その作成を拒んだことが認められるが、補助参加人Jは同月一八日に融資相談係から延滞係への配置転換を控えていたから(争いのない事実)、通常時よりも多忙な状況にあったものと推認でき、そのような状況下で「管内経済金融動向」の作成を拒んだとしても、そのことのみで補助参加人Jが業務に対して消極的であると評価することはできない。

よって、右の事実をもって人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(2) 指示実行遅延について

ア 証拠(甲四八四、四八八、四八九、四九三)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 川越支店当時

① 貸付日昭和五七年一二月二九日貸付金額八四〇万円の案件で、昭和六〇年四月一六日に債務者法人、債務者法人代表者及び保証人に対する訴えの提起を行うことの指示を受け、約二か月後の同年六月一八日に実行した。

② 貸付日昭和五八年三月二九日貸付金額六〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月一八日に保証人所有の不動産に対する仮差押えの申立てを行うことの指示を受け、約一か月半後の同年五月二七日に実行した。

③ 貸付日昭和五七年一二月一六日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六〇年四月一九日に債務者法人の実態調査を行うことの指示を受け、約二か月半後の同年七月八日に実行した。

④ 貸付日昭和五三年四月二八日貸付金額一八〇万円の案件で、昭和六〇年四月二三日に債務者に対する訴えの提起を行うことの指示を受け、約二か月後の同年六月一八日に実行した。

⑤ 貸付日昭和五六年七月一三日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月二七日に債務者について動産執行を検討することの指示を受け、約三か月後の同年七月二五日に実行した。

⑥ 貸付日昭和五三年一二月二〇日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月三〇日に債務者及び保証人(二名)を実訪し実態調査を行うことの指示を受けたが、債務者と保証人二名のうち一名については同年一〇月一七日まで約五か月半、他の一名の保証人については昭和六一年三月に転出したことにより実行しなかった。

⑦ 貸付日昭和五二年九月二〇日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月三〇日に保証人の不動産調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年三月に転出したことにより実行しなかった。

⑧ 貸付日昭和五五年四月二一日ほか貸付金額計一四〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月三〇日に債務者法人、債務者法人代表者及び保証人に対する訴えの提起を行うことの指示を受けて、約一か月半後の同年六月一七日に実行した。

⑨ 貸付日昭和五八年一二月一九日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六〇年四月三〇日に債務者法人代表者所有の不動産仮差押えの申立てを行うことの指示を受け、約二か月後の同年六月二六日に実行した。

⑩ 貸付日昭和五三年八月二四日ほか貸付金額計八八〇万円の案件で、昭和六〇年七月一八日に保証人の不動産調査と実態調査をするとともに、返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、不動産調査については昭和六一年一月七日までの約六か月半にわたり、また、実態調査及び返済交渉については昭和六一年二月六日までの約七か月半にわたり、実行しなかった。

⑪ 貸付日昭和五三年五月一六日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六〇年八月二六日に保証人の動産に対する差押えを行うことの指示を受け、約二か月後の同年一一月一日に実行した。

(イ) 高崎支店当時

① 貸付日昭和五五年一一月一八日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年三月一六日に債務者の動産に対する差押えの申立てを行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年六月三〇日まで約三か月半にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五八年二月二二日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六二年三月三一日に債務者を実訪し、担保評価を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年六月二二日まで約三か月にわたり実行しなかった。

③ 貸付日昭和五五年一二月五日ほか貸付金額計七五〇万円の案件で、昭和六二年四月二二日に債務者法人代表者の動産に対する執行効果を検討することの指示を受けているにもかかわらず、同年九月に担当替えになるまで実行しなかった。

④ 貸付日昭和五五年三月六日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年四月三〇日に債務者に対し支店の顧問弁護士名による催告書を発送することの指示を受けているにもかかわらず、同年六月三〇日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑤ 貸付日昭和五七年二月一八日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六二年四月三〇日に債務者を実訪することの指示を受けているにもかかわらず、同年八月二七日まで約四か月にわたり実行しなかった。

⑥ 貸付日昭和五三年一一月二二日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六二年五月一二日に保証人に対し支店の顧問弁護士名による催告書を発送することの指示を受けているにもかかわらず、同年七月二一日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑦ 貸付日昭和五二年七月四日貸付金額一二〇〇万円の案件で、昭和六二年六月二二日に債務者法人代表者の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年九月に担当替えになるまで実行しなかった。

⑧ 貸付日昭和四八年四月一七日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六二年六月二二日に債務者について、管理依頼支店あてに近況報告及び返済額の増額交渉を依頼することの指示を受けているにもかかわらず、同年九月に担当替えになるまで実行しなかった。

⑨ 貸付日昭和五五年一一月二〇日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年六月二二日に債務者と具体的な返済方法について協議の上、管理方針案を具申することの指示を受けているにもかかわらず、同年九月に担当替えになるまで実行しなかった。

⑩ 貸付日昭和五四年一〇月二四日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六二年七月二日に債務者法人代表者及び保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年九月に担当替えになるまで実行しなかった。

イ しかし、ア(ア)①ないし⑨までの各事例は、補助参加人Jが昭和六〇年三月一八日に延滞係に配属となった直後の同年四月までに、訴えの提起三件、仮差押え及び差押え四件及び実態調査二件、以上合計九件を処理するよう集中的に指示を受けたものであるにもかかわらず、⑥及び⑦以外はおおむね三か月以内に処理されており、むしろ前任者の未処理の案件を迅速に処理したものといえる。また、同(イ)①ないし⑩の各事例を担当した当時の補助参加人Jの手持ち件数は一八九件であると認められ(丙八〇)、かつ、これらの事例のうち⑦から⑩までについては審査係への担当替えを控えて実行を差し控えたと考えられ、時期から見て不相当とはいえないし、①、②、④、⑤及び⑥については期間が四か月以内にとどまる。その余の事例((ア)⑥、⑦、(イ)③)は遅延していることを否定できないが、その頻度、期間は顕著なものとはいえない。したがって、右各事例をもって、補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(3) 管理放置について

ア 証拠(甲四八八、四八九、四九三)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 川越支店当時

① 貸付日昭和五四年一二月一四日貸付金額一〇〇万円の案件につき、昭和六〇年四月二〇日から同年七月二三日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五四年一二月二一日貸付金額七〇〇万円の案件につき、昭和六〇年七月二五日から同年一二月九日まで約四か月半の間、一切管理を行わなかった。

③ 貸付日昭和五三年一二月八日貸付金額三〇〇万円の案件につき、昭和六〇年七月二九日から同年一二月六日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

④ 貸付日昭和五一年七月二六日貸付金額一五〇万円の案件につき、昭和六〇年八月一日から同年一一月二九日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑤ 貸付日昭和五六年一二月一四日貸付金額五〇〇万円の案件につき、昭和六〇年八月一三日から同年一二月二八日まで約四か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑥ 貸付日昭和五〇年一一月二九日貸付金額三〇〇万円の案件につき、昭和六〇年一〇月二五日から昭和六一年一月三〇日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

⑦ 貸付日昭和五九年九月一八日貸付金額三五〇万円の案件につき、昭和六〇年一一月二日から昭和六一年二月二一日まで約三か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑧ 貸付日昭和五六年一月一九日他貸付金額計一〇〇万円の案件につき、昭和六〇年一一月一六日から昭和六一年二月一八日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

(イ) 高崎支店当時

① 貸付日昭和五五年一一月一八日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年三月一六日から同年六月二四日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五五年一〇月九日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六二年四月二〇日から同年七月二四日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

③ 貸付日昭和五四年四月二四日貸付金額一六〇万円の案件で、昭和六二年四月三〇日から同年八月二五日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

④ 貸付日昭和五七年二月一八日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六二年四月三〇日から同年八月二七日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑤ 貸付日昭和五六年一一月一六日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六二年五月二日から担当替えになる同年九月までの間、一切管理を行わなかった。

⑥ 貸付日昭和五五年一二月五日他貸付金額計七五〇万円の案件で、昭和六二年五月二六日から担当替えになる同年九月までの間、一切管理を行わなかった。

イ しかし、ア(ア)①の事例は、(2)で述べたとおり、補助参加人Jが延滞係に配属になった直後に集中的に指示された案件の処理に奔走していた時期に当たり、誠に無理からぬものがあったと思われる。また、この事例を含めて右各事例の期間はおおむね四か月(長くて四か月半)以内にとどまっている。それにもかかわらず、原告はこれらの事例が事例処理上不適切な事例であったと指摘するのであるが、この程度の期間放置していたことによって当該案件の事務処理にどの程度悪影響を及ぼしたのかについては明らかではないから、これら管理放置事例があったからといって、補助参加人Jの事務処理に問題があったことの表れとはいえず、これらをもって補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(4) 延滞口債権解消実績について

ア 証拠(甲四八四)によれば、川越支店延滞係当時の補助参加人J及び他の同係担当者の延滞口債権解消実績につき、昭和六〇年度の補助参加人Jの解消件数及び金額は、五〇件及び六九六三万円で、延滞係三名中最低であったこと、より具体的には、解消金額については、甲本調査役が一億一八六〇万円、補助参加人Jの二年後輩である乙田副調査役が一億二七九〇万円であったから、補助参加人Jはこの両名の半分程度の実績しか上げていなかったこと、また、法的手続を行った件数でみても、甲本調査役が八六件、乙田副調査役が八二件なのに対し、補助参加人Jは四七件と最も少なかったことが認められる。

イ しかし、証拠(丙八〇)によれば延滞係担当の他の二名は、補助参加人Jより早く川越支店において同係を担当していたと認められ、また、三名の手持案件が同等程度であったことを認めるに足りないことにかんがみると、単純に解消金額等を比較して優劣を判断するべきではない。

よって、アの事実をもって、補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(5) 出勤日の取違えについて

ア 原告は、補助参加人Jは、有給休暇を直前に申し出るなど、支店全体の業務の円滑な処理を考えないことが多く、また、自身の勤務管理にルーズであったため、出勤日を取り違え、昭和六〇年七月二七日(土曜日)については休務を指定されていないにもかかわらず、休務日を間違えた旨主張する。

イ しかし、仮に休務日に関して、昭和六〇年七月二七日にアのとおりの事実があったとしても、そのことのみで服務上問題のある行動であるとまでいうには足りない。ましてや、右の件をもって、補助参加人Jが常日ごろから身勝手な休暇取得や出勤日の取違えをしていたをしていたと推認することはできない。

よって、アの事実をもって、補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(6) 暴行事件について

ア 証拠(甲四八四)によれば、補助参加人Jは、昭和六〇年三月一四日、駅プラットホームにおいて、理由もなく女性を蹴る暴行を加えて現行犯で逮捕された上、同年五月二〇日に新宿簡易裁判所により罰金三万円に処されたことが認められる。

イ 原告は、(ア) この件自体服務上問題となる上、(イ) 丁山支店長が、同年四月八日に行われた支店の業務懇談会において、支店の職員に対し、補助参加人Jの名前を出さず一般的な形で、私生活上の不祥事でも公庫の信用にかかわることがあるから、日常の行動については原告の職員としての基本的心得に反することのないようにと注意を喚起したことに関し、補助参加人Jが、同支店長に対し、業務懇談会の席上であのような発言をされては困る、結局自分が不始末を起こしたということが支店のみんなにわかってしまうではないかと、自らの非を棚に上げて丁山支店長に抗議してきたことについても、同様に服務上の問題行動である旨主張する。

ウ そこで検討するに、まずイ(ア)の点については、このような刑事事件を惹起した場合、原告の信用を毀損したとして懲戒事由になる(乙五(労働協約二六条))が、勤務状況等を純粋に評価して評語や任用の選考を行う原告の人事考課制度の下では、このような事項を勤務評価の対象とすることは許されないというべきである。

また、イ(イ)の点については、同事件後、業務懇談会における丁山支店長の発言に関し、補助参加人Jが同支店長に対して抗議したことを認めるに足りる証拠はない。

結局、原告の右主張は採用の限りではない。

(7) 審査係当時の事務処理について

ア 証拠(甲四八九)によれば、次の事実が認められる。

(ア) プラスチック成型業を営む有限会社から運転資金として一〇〇〇万円の申込みのあった案件で、八〇〇万円を超える法人企業からの申込みについては「企業評価モデル得点票」の作成が必要であるにもかかわらず、これを怠ったまま貸し付けるとの意見具申を行ってきた。補助参加人Jの上司は、昭和六二年一〇月二日、補助参加人Jに対し、これを正すように指導した。

(イ) 美容院を新規に開業する者から店舗等の設備資金として環衛貸付け(四三〇万円)の申込みのあった案件で、設備の内容から消毒器、タオル蒸器、換気設備等については、特別利率(4.8パーセント、ただし三年経過後は5.3パーセント)を適用すべきにもかかわらず、利率の適用を誤り、5.65パーセントを適用するとの意見具申を行ってきた。補助参加人Jの上司は、昭和六二年一一月一〇日、補助参加人Jに対し、これを正すように指導した。

(ウ) 機械製造業を営む者(有限会社)から運転資金の申込みがあった案件で、保証人の保証意思確認をする必要があるにもかかわらず、これを怠ったまま融資する旨の意見具申を行ってきた。補助参加人Jの上司は、昭和六二年一〇月一一日、補助参加人Jに対し、これを正すように指導した。

イ しかし、アの各事例は、審査係に担当替えとなった直後のものであること、約一か月間に三件の誤りを犯したという程度であることに照らすと、右各事例が、補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠となるとは認め難い。

(8) 審査係当時の出張命令拒否について

ア 証拠(甲四八九)によれば、原告では、管内の遠隔地からの融資申込みについては、顧客の利便も考慮して一定の件数がそろった段階で、審査係担当者がその地域に出張して商工会等で顧客との面談を行っており、また、申込みの件数が多いときは、効率よく審査処理を行うために一泊での出張も命じていること、高崎支店では、補助参加人Jに対し、審査処理のために、昭和六二年一〇月二六日から二七日にかけて一泊で出張するよう命じたが、補助参加人Jは甲海課長に対して、同月二六、二七日ともに、日帰り出張することにすると申し出たこと、甲海課長は、他の審査係はみな宿泊で出張を行っており、補助参加人Jにだけ特別な取扱いはできないと説明して、出張命令に従うよう注意・指導したこと、これに対し、補助参加人Jは、自分を宿泊させるのが目的なのだろうなどと反論したことが認められる。

イ そこで検討するに、証拠(丙八〇)によれば、補助参加人Jは、病状及び私生活上の都合から、高崎支店転勤に関して原告に対して異議を述べていたこと、転勤後の昭和六二年四月にも、原告に対して都内への転勤希望を出し、その後この件について双方で交渉を行ったことが認められるから、甲海課長ら高崎支店の職制は、補助参加人Jが一泊の出張命令に対して拒否をするか、あるいはこれに異議を述べることは十分予想していたものと推認される。また、補助参加人Jに宿泊を伴う出張をさせることが業務上必要不可欠なものであったと断ずることはできず、補助参加人Jが宿泊を伴う出張命令を拒否する態度を示したことをもって、補助参加人Jの勤務状況等が劣悪であることを示す事情となるとまでは認められない。

よって、アの事実をもって、補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(9) 無断離席について

ア 原告は、補助参加人Jは上司の承認を得ないまま無断で外出することがあった旨主張し、具体例として、(8)アの出張から支店に帰った昭和六二年一〇月二七日、午後三時過ぎから無断で離席し、約一時間後に支店に戻ってきたことを挙げる。

イ しかし、事例としてはアの事実が指摘されているにとどまり、この事実をもって補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではないというべきである。

(10) 年休取得について

ア 原告は、補助参加人Jは、業務の都合を考えない直前の年休取得が度々あり、上司が注意・指導しても、この姿勢を改めなかった旨主張し、具体例として、昭和六二年四月二七日の午後二時ころ、補助参加人Jは、明日一日年休を取得すると申し出てきたが、この時期は、月末近くで債権管理は多忙であり、特に未入金係は連日残業している状況にあったため、甲海課長は、明日は出勤して未入金係を応援するように求めたが、補助参加人Jは、今月は自分が解消予定としている債権はすべて解決していると自分のことだけを取り上げて主張し、支店の業務運営に協力しようとする姿勢をみせず、結局四月二八日に年休を取得したことを挙げる。

イ しかし、事例としてはアの事実が指摘されているにとどまり、そのことのみで常日ごろから業務に支障を来す形で年休を取得していたと推認することはできない。

よって、アの事実をもって補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(11) 業務推進への消極性及び上司の補佐等について

原告は、補助参加人Jは、副調査役として支店業務の推進に関して積極的に提言し、率先して遂行する姿勢に欠け、また、上司の補佐、後輩の指導を行うという姿勢もみられなかった旨主張する。

しかし、具体的にどのような事実があったのか、原告における他の職員がそのような補佐、指導等をどの程度行っていたかについて明らかでない以上、補助参加人Jの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(二) 結論

(1) 以上のとおり、昭和六〇年から昭和六二年にかけての補助参加人Jの勤務状況等に関する原告の主張(第三、一、5、(三))は、いずれも理由がなく、取り立てて補助参加人Jを人事考課上低く評価する根拠は見出し難いというべきである。かえって、証拠(甲五一四(陳述書)、丙八〇(補助参加人J陳述書))によれば、補助参加人Jが高崎支店の延滞係を担当中、その解消金額が担当者三名中最高であったことが認められる。

(2) 一方、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人J及びその同期中位者の格付は、第二、一、5のとおりであり、同期者六四名あるいは六五名中最下位に位置付けられていたことが認められる。

(3) 以上の事実を併せ考えれば、補助参加人Jの格付は不当に低いものと認められるというべきである。

(4) 以上に加え、証拠(乙九四二ないし九四七、九五五、一三〇一、一三一三ないし一三一五)及び後記4における認定事実によれば、補助参加人Jは昭和五三年度以降一貫して同期者中最下位に位置付けられていること、補助参加人Jの同期同学歴である補助参加人Oは、その勤務状況等は補助参加人Jに比べて明らかに劣っているところ、補助参加人Jは昭和五〇年度以降Oと同じ等級・号俸に格付けられ、かえってOの方が先に副調査役に任用されていることが認められること、第四、二のとおり、原告は、補助参加人らの組合活動等に対して強く嫌悪していたこと、第四、二、2、(三)のとおり、補助参加人Jは昭和三九年入庫以来企業告発型の組合活動に積極的に取り組み、支店職制らがそのような活動に対する嫌悪を示す発言をしたこと、第四、二、3、(一)のとおり、原告は、支店の職制らを通じて組合対策等を実行していたことをも総合考慮すると、原告は、補助参加人Jに対し、その先鋭的な組合活動等に嫌悪して、処遇上の不利益を被らせようと企図し、前記のとおり取り立てて問題とする必要のない事例をあたかも過誤事例であるかのように装い、人事考課上殊更に低く評価をし、補助参加人Jを不当に低い位置に格付けしたものと推認することができる。

(5) 以上の事実は、原告が補助参加人Jの組合所属あるいは組合活動のゆえに不利益取扱いを行ったものとして、労働組合法七条一号の不当労働行為に当たり、また、そのことによって補助参加人Jが所属する全国活会あるいは発展会の組合活動等の弱体化を企図して支配介入を行ったものとして、同条三号の不当労働行為に当たる。

4  補助参加人Oについて

(一) 補助参加人Oは、昭和五六年三月から佐世保支店に勤務し、昭和六〇年三月までは未入金係、同年四月以降は延滞係として勤務していた(乙一三〇一、一三二六ないし一三二八、一三三〇ないし一三三五)昭和六〇年から昭和六二年当時の補助参加人Oの勤務状況等につき、第三、一、5、(四)のこの点に関する原告の主張に沿って検討する。

(1) 未入金係当時の管理交渉について

証拠(甲四五、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、補助参加人Oは、乙谷管理課長に対し、昭和六〇年二月二六日には、延滞口編入の可能性がある未入金口債権を報告したにもかかわらず、同月二八日になって、予定外に延滞口編入となる未入金口債権が一四件、一五〇〇万円もあるとの報告をしてきたこと、未入金係としては、延滞口編入が見込まれる債権を早い時期に課長等へ報告して延滞口編入を防止することが、その事務処理上肝要であるところ、右事例のように、課長に対し、いったん延滞口編入の可能性がある未入金口債権を報告したにもかかわらず、その直後、しかも月末になって、予定外に延滞口編入となる未入金口債権があるとの報告をすることは、事務処理に重大な支障を来す行為であることが認められる。

右の事実は、補助参加人Oが事務処理においてずさんな点があることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(2) 未入金係当時の業務処理について

証拠(甲四八、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、昭和六〇年二月二二日、根抵当権を設定して貸付けを行っている顧客から根抵当権の全部抹消の申出があり、補助参加人Oが対応したが、補助参加人Oは、その顧客への貸付残高、返済状況、営業内容、担保物件の内容、担保による回収依存度、債権保全の見通し等を調査した上で、顧客の申出についての可否を判断し、管理課長へ意見具申を行うという通常の手続を踏まず、顧客への貸付残高と返済状況を照会する以外必要な調査、判断を自ら行うことなく、乙谷課長に指示を仰いだこと、原告においては、このような場合、職員として必要な調査をした上で上司に意見具申を行うのが通常であることが認められる。

右事例は、補助参加人Oの事務処理上責任回避的であるなどと評価されてもやむを得ないものというべきである。

(3) 未入金係当時の送金確認登録事務について

ア 証拠(甲四三、四六、四七、四九、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、原告では月末時点で返済金が送金途中である場合には送金確認登録を行い、これにより延滞口編入が停止されること、佐世保支店においては、同登録は安易に行わないよう管理交渉に努め、やむを得ず同登録を行う場合にも、送金者、日時、送金方法等を確認することが取り決められていたこと、補助参加人O及びその他の未入金係の昭和五九年一一月末及び昭和六〇年一月末の各入金率は、他の未入金係が八五パーセントから一〇〇パーセントであったのに比べ、補助参加人Oは六一パーセントであり、また、昭和六〇年一月末の送金確認登録案件の入金率は補助参加人Oの場合六九パーセントであり、未入金係の中で最低であったことが認められる。

以上によれば、送金確認登録事務に関する補助参加人Oの事務処理状況はずさんであったと推認することができ、人事考課上低く評価する根拠となる。

イ 被告は、債務者や保証人からの申出を逐一銀行等に照会して確認することは、多忙を理由に断られることもあって、ほとんど行われておらず、債務者等からの申出を根拠にして登録していたのが実態であるから、補助参加人Oが送金を確認しなかったことは過誤ではない旨主張する。しかし、前記認定のとおり、補助参加人Oの入金率が他の未入金係に比べて最低であった点が、補助参加人Oの人事考課上の低評価につながる根本的な事情なのであるから、被告の右主張は理由がない。

また、補助参加人らは、丙第一四号証及び第一五号証(管理カード基本票)によれば、乙谷管理課長及び当時未入金係の同僚であった岩下にあっても、それぞれ送金確認登録したにもかかわらず実際には入金されていない案件があった旨主張するが、仮にそうであったとしても、そのことをもって、右判断が左右されるものではない。

(4) 延滞係当時の意見具申について

ア 証拠(甲五二、五三、五四、五五、二六四、二七七、二七八、二七九、二八〇、二八一、二八二、二八三、二八四、二八五、二八六、乙一三二六、一三二七、一三二八、証人乙谷太郎)によれば、補助参加人Oの延滞係当時の意見具申に関し、次の事実が認められる。

① 債務者は電気工事業者で、昭和五六年一月三一日に八〇〇万円を貸し付け昭和五六年九月三〇日に延滞口に編入された案件について、昭和六〇年六月以降乙谷課長が転出する昭和六一年七月までの一年二か月にわたり、補助参加人Oは一度も管理方針案を策定、具申しなかった。そのため、やむを得ず乙谷課長が昭和六〇年九月一九日、同年一二月七日、昭和六一年三月一三日、同年六月二四日の四回にわたり、保証人の実態調査と弁済交渉の継続を管理方針として決定し、補助参加人Oに指示せざるを得なかった。

② 債務者は建築工事業者で、昭和五四年一〇月三一日に二〇〇万円を貸し付け昭和五五年二月二九日に延滞口に編入された案件について、昭和六〇年四月以降補助参加人Oが管理方針を全く策定、具申しないため、やむなく乙谷課長が昭和六〇年六月一九日、同年九月二六日、同年一二月一〇日の三回にわたり、保証人への弁済交渉、顧問弁護士名の催告書の発送及び保証人の給与債権差押えの検討等の管理方針を決定し、補助参加人Oに指示した。

また、補助参加人Oは昭和六〇年一二月二〇日に来店した保証人と弁済交渉を行ったが、その後管理方針案を策定、具申することを怠っていたため、昭和六一年三月二六日乙谷課長が保証人の給与債権差押えの管理方針を決定し、支店長の決裁を得て補助参加人Oに指示した。

③ 債務者は生花小売業者で、昭和五二年九月二六日に八〇万円を貸し付け昭和五四年一月三一日に延滞口に編入された案件について、昭和六〇年四月以降乙谷課長が転出する昭和六一年七月までの一年四か月にわたり、補助参加人Oは一度も管理方針案を策定、具申しなかった。そのため、やむを得ず乙谷課長が昭和六〇年九月二五日、同年一二月一三日、昭和六一年三月二〇日の三回にわたり、債務者及び保証人の実態調査と返済交渉を管理方針として決定し、補助参加人Oに指示した。

④ 債務者(男性)は石材販売業者で、昭和五〇年五月一日に二〇〇万円を貸し付け昭和五一年四月三〇日に延滞口に編入された案件について、補助参加人Oは、昭和六〇年六月一四日債務者へ電話し、債務者の現況を聴取した。しかし、債務者の状況を踏まえた管理方針案の策定、具申を怠ったため、乙谷課長が保証人への弁済交渉の管理方針を決定し、補助参加人Oに指示した。

しかし、その後も補助参加人Oが管理方針を具申しないため、乙谷課長が昭和六〇年九月二六日、同年一二月一〇日の二回にわたり、債務者への実訪と債務者及び保証人への返済交渉の継続を管理方針として決定し、補助参加人Oに指示せざるを得なかった。

さらに、補助参加人Oは、昭和六一年二月二一日に債務者の妻が来店した際に実態調査と返済交渉を行ったが、管理方針の具申を怠り、放置していたので、同年六月二五日に乙谷課長が債務者からの返済の追及を管理方針として決定し、補助参加人Oに指示した。

⑤ 債務者は海運業者で、昭和五五年四月一〇日に一五〇〇万円を貸し付け昭和五九年六月三〇日に延滞口に編入された案件について、昭和六一年九月二二日に丁本課長が補助参加人Oに対し管理方針案を策定して具申するよう指示したが、補助参加人Oはこれを放置していた。丁本課長はその後同年一二月五日、昭和六二年三月六日の二回にわたり早急に管理方針案を策定するよう指導注意したが、補助参加人Oはこれも無視し、A水支店長の在任中の同年七月までは放置したままであった。

⑥ 債務者(男性)は畜産業者で、昭和五三年九月一三日に二〇〇万円を貸し付け昭和五四年五月三一日に延滞口に編入された案件について、昭和六一年一二月一七日に丁本課長が補助参加人Oに対し、債務者及び保証人の実態を調査して管理方針案を策定するよう指示した。しかし、補助参加人Oはこれを放置していたので、昭和六二年三月五日、同年六月一八日の二回にわたり同課長が補助参加人Oの怠慢を注意したが、補助参加人Oの姿勢は改まらず、放置したままであった。

⑦ 債務者は漁業を営む者で、昭和五四年二月二〇日に二〇〇万円を貸し付け昭和五五年六月三〇日に延滞口に編入された案件について、補助参加人Oは昭和六一年三月以来一年間管理方針案を全く策定・具申していなかった。そこで、昭和六二年三月六日丁本課長が補助参加人Oに対し管理方針案を早急に策定するよう指示した。しかし、その後も補助参加人Oは管理方針案を策定・具申せず、放置したままであった。

⑧ 債務者は土木建築工事業者で、昭和五〇年五月一三日に二〇〇万円を貸し付け昭和五一年八月三一日に延滞口に編入された案件について、補助参加人Oは昭和六一年三月から昭和六二年七月までの一年五か月にわたり管理方針案を全く策定しなかった。そのため、やむなく乙谷課長やその後任の丁本課長が昭和六一年六月二五日、同年九月一八日、同年一二月五日、昭和六二年六月一七日の四回にわたり、債務者の実態調査と返済交渉の継続を行う旨の管理方針を決定し、補助参加人Oに指示せざるを得なかった。

⑨ 債務者は家具小売業者で、昭和五四年八月七日に二〇〇万円を貸し付け昭和五六年六月三〇日に延滞口に編入された案件について、昭和六一年一月以降補助参加人Oが管理方針案を全く策定しないため、やむを得ず丁本課長が昭和六一年九月一八日、同年一二月六日、昭和六二年三月五日の三回にわたり、債務者との返済交渉の継続を管理方針として決定し、補助参加人Oに指示した。その後、昭和六二年六月二〇日に同課長が補助参加人Oに対し、管理方針案を自ら策定して具申するよう注意指導したが、補助参加人Oは、放置したままであった。

⑩ 債務者は船舶機器修理業者で、昭和五四年四月一七日に一〇〇〇万円を貸し付け昭和五五年三月三一日に延滞口に編入された案件について、補助参加人Oは昭和六一年六月一六日以来一年三か月にわたり管理方針案を策定せず、管理を放置していた。昭和六二年九月一七日に丁本課長から早急に債務者及び保証人の実態を調査して管理方針案を策定するよう注意を受け、同年九月二九日に至り、ようやく管理方針案を策定・具申した。

⑪ 債務者は家具卸売業者で、昭和五三年五月一五日に一五〇万円を貸し付け昭和五三年一一月三〇日に延滞口に編入後、昭和五七年二月二四日債務者所有の不動産に抵当権を設定した案件について、昭和六一年七月一〇日債務者が来店し、担保物件を任意売却して一部返済をした以後交渉が中断していたため、昭和六一年九月二二日、同年一二月九日、昭和六二年三月一〇日の三回にわたり、丁本課長が補助参加人Oに対して債務者及び保証人の実態を調査して管理方針案を具申するよう指示した。しかし、補助参加人Oはその後一年二か月にもわたり管理を怠り、昭和六二年九月二一日同課長から改めて注意を受けて、ようやく同年九月三〇日に本件を選別区分の「継続口」とするとの管理方針案を具申した。

⑫ 債務者は衣料品卸売業者で、昭和五八年六月二〇日に五〇〇万円を貸し付け昭和五九年一二月三一日に延滞口に編入された案件について、補助参加人Oは昭和六二年六月一八日に管理方針案を策定するよう指示を受けながら、これを怠っていた。その後、同年九月二一日改めて急ぎ実行するよう注意指導を受け、同年九月三〇日にようやく選別区分を「継続口」とする旨の管理方針案を策定、具申した。

⑬ 債務者は飲食店経営者で、昭和五七年五月二六日に三〇万円を貸し付け昭和六〇年二月二八日に延滞口に編入された案件について、補助参加人Oは昭和六二年八月四日から昭和六三年七月二七日までの一年間にわたり一度も管理方針案を具申しなかったため、やむを得ず丁本課長が昭和六二年一二月一一日と昭和六三年三月二五日の二回にわたり、債務者を実訪して実態調査と返済交渉を行う旨の管理方針を決定し、指示せざるを得なかった。

イ 補助参加人Oが延滞係の担当となった昭和六〇年四月以降昭和六三年三月までの約三年間(原告が意見具申の不足事例として取り上げた期間)に、管理方針を策定することなく放置していた事例は右一三の事例にとどまるが、証拠(甲五二、五三、五四、五五、二六四、二七七、二七八、二七九、二八一、二八二、二八三、二八五、二八六、乙一三二六、一三二七、一三二八、証人乙谷太郎)によれば、ア⑦及び⑩を除く右各事例において、補助参加人Oは、上司からの管理方針策定等の指示に即座には応じていないこと、右各指示内容は、各事例の管理の経過に照らし、適切か、少なくとも不適切なものではなく、また、補助参加人Oがこれを実行しなかったことにつき合理的な理由がなかったことが認められるから、補助参加人Oは、これらの事例に関して、上司の指示に適切に従わない職務上の懈怠があったというべきであり、この点で、人事考課上低く評価する根拠となる。

ウ 被告は、ア⑤、⑧、⑨の各事例につき、昭和六〇年三月一日に長期交渉口にされていた案件であることを挙げて、指示が不適切であったかに主張する。しかし、証拠(乙五八七、五八八)によれば、長期交渉口であっても管理が全く不要となるものではないことが認められるから、被告の右主張は理由がない。

エ 補助参加人らは、ア①の事例につき、乙谷の指示は適切ではなかった旨主張する。しかし、証拠(甲五二)によれば、この件は、昭和六〇年五月二〇日、補助参加人Oが自ら保証人の実態調査の意見具申を行い、その後乙谷はこの意見具申に則った指示を行ったものと認められるから、乙谷の指示が適切ではなかったとは認められない。この点、補助参加人らは、右補助参加人Oの意見具申の後、同保証人の支払能力の喪失が推測される状況に至った旨主張するが、仮に補助参加人Oが支払能力を喪失したものと考えていたのであれば、その旨乙谷らに意見具申を行うなど別途対応をすべきところ、右証拠及び弁論の全趣旨からすれば、補助参加人Oがそのような意見を具申したことはなかったものと認められる。よって、補助参加人らの右主張は採用できない。

また、補助参加人らは、同③の事例についても、生活保護を受けている者からの債権取立てを指示したものであって、その指示は不適切であった旨主張する。しかし、証拠(甲五四、丙一九の一)によれば、同事例の管理カードに生活保護を受給している旨の記載があるのは、昭和六二年一一月二六日の欄であると認められるところ、同事例の当該指示がこれ以前に行われていることは前記認定のとおりであるから、上司は生活保護の受給者であることを知り、又は知り得べき状況にはなかったというべきであり、補助参加人らの右主張は採用できない。

(5) 延滞係当時の延滞事務月間処理計画・実績表提出について

証拠(甲五九の一、六〇、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、昭和六〇年五月分の延滞事務月間処理計画・実績表(担当者用)につき、延滞係中補助参加人Oのみが作成、提出を遅延させ、このことについて乙谷課長から注意・指導を受けたことが認められるが、この一件のみで、原告主張のとおり補助参加人Oが度々同表の提出を遅延させることがあったことまでは認めることはできない。

(6) 延滞係当時の管理処理について

ア 証拠(甲五六、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、次の事実が認められる。

昭和五四年五月三一日に三五〇万円を貸し付け、昭和五六年一〇月三一日に延滞口に編入された案件について、建築業を営んでいた債務者は行方不明、保証人二名のうち古物商を営んでいた一名は居所不明であり、結局佐世保市内の自動車販売会社に勤務している保証人一名だけが管理交渉の対象という状況であった。この保証人は、毎月二万円の弁済を行う旨の約束をしていたものの、その履行は断続的にしかなされず、約束不履行が多い状態であったので、乙谷課長は昭和六〇年六月二一日補助参加人Oに対し、保証人の給与債権の差押えを検討するよう指示した。ところが、補助参加人Oは同課長の指示を無視し、二か月近く一切管理を行わず、保証人に対して昭和六〇年八月一二日と同年九月二六日に電話をし、それぞれ月一回分二万円の弁済を求める交渉しか行わなかった。しかも実際に保証人から弁済があったのは九月二六日付けの二万円のみという状況であった。

その後、保証人からの弁済の履行もないままに補助参加人Oは三か月近く管理を放置した。この間、同課長は補助参加人Oの怠慢を厳しく注意し、早急に保証人の給与債権の差押えを検討して意見具申するよう指示していたが、補助参加人Oは何らの理由もなく同課長の指示を実行しなかった。

補助参加人Oは、昭和六〇年一二月一六日に至り、保証人へ呼出状を郵送し、その中で法的手続へ移行する旨示唆したが、時既に遅く、保証人は同年一二月一五日に勤務先を定年退職していたことが判明した。この結果、給与債権差押えの機会を逃した。

イ 右の事実は、保全すべき給与債権が失われるという重大な事態に発展しており、補助参加人Oが事務処理において怠慢であったことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

ウ これに対し、被告及び補助参加人らは、右事例の保証人が勤務年数も短い上収入も少ない者であり、これに対して給与差押えを行えばすぐにでも退職することが予想される状況にあったから、給与差押えをする旨の指示は不適切であった旨主張する。

しかし、証拠(甲五六、乙一三二六、丙二一、証人乙谷太郎)によれば、補助参加人Oは同保証人の定年時期について調査していないこと、給与差押えの問題性について乙谷らに意見を具申するなどの対応を取っていなかったことが認められるから、補助参加人Oは右指示の当否について判断できる立場にすらなく、漫然とその管理を放置していたというに過ぎず、被告及び補助参加人らの右主張は失当である。

(7) 延滞係当時の指示実行遅延について

ア 証拠(甲五二、五三、五四、五六、五七、二六一、二六二、二六三、二六四、二六五、二六六、二六七、二六八、二六九、二七〇、二七一、二七二、二七三、二七四、二七五、五〇二、乙一三二六、一三三七、一三三八、一三三九、証人乙谷太郎)によれば、次の事実が認められる。

① 貸付日昭和五四年三月二六日貸付金額一〇〇万円、昭和五五年二月二九日延滞口に編入された案件について、昭和六一年三月二六日に保証人の町議会議員報酬の差押えを行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年一二月一六日まで八か月余にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五一年八月二日貸付金額二六〇万円の案件で、昭和六〇年四月一〇日に債務者及び保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、債務者については昭和六一年一月二三日まで、保証人については昭和六一年一月二二日まで、いずれも九か月半にわたり実行しなかった。

③ 貸付日昭和五五年三月一九日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年五月七日に債務者及び保証人に対し返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年九月二四日まで四か月半にわたり実行しなかった。

④ 貸付日昭和五二年一一月一四日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六〇年五月一七日に債務者に対し返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年一〇月二三日まで五か月余にわたり実行しなかった。

⑤ 貸付日昭和五六年一月三一日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六〇年六月三日に保証人の実態調査及び給与債権差押えの検討を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年五月一一日まで一年一一か月にわたり実行しなかった。

⑥ 貸付日昭和五三年一二月一四日ほか貸付金額計五五〇万円の案件で、昭和六〇年六月一九日に債務者及び保証人に対し支店の顧問弁護士名の催告書を発送することの指示を受けているにもかかわらず、同年一二月一二日まで約六か月にわたり実行しなかった。

⑦ 貸付日昭和五八年六月二〇日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年六月一九日に債務者を実訪し約束の履行を追及することや貸家の状況を把握することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年七月五日まで三年余にわたり実行しなかった。

⑧ 貸付日昭和五二年九月二六日貸付金額八〇万円の案件で、昭和六〇年九月二五日に債務者及び保証人の実態を調査するとともに返済交渉をすることの指示を受けているにもかかわらず、債務者については昭和六二年九月三〇日まで二年、保証人については昭和六二年六月一日まで一年八か月にわたり実行しなかった。

⑨ 貸付日昭和五五年二月八日ほか貸付金額計五五〇万円の案件で、昭和六〇年九月二五日に保証人について福岡西支店へ管理依頼することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年三月二六日まで二年六か月にわたり実行しなかった。

⑩ 貸付日昭和五五年一一月一一日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年九月二六日に、死亡した債務者法人代表者の相続人を調査することの指示を受けているにもかかわらず、平成元年二月一五日まで約三年五か月にわたり実行しなかった。

⑪ 貸付日昭和四八年三月二四日ほか貸付金額計一八五〇万円の案件で、昭和六〇年一〇月一日に保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年三月二六日まで約一年六か月にわたり実行しなかった。

⑫ 貸付日昭和五五年七月二一日貸付金額四五〇万円の案件で、昭和六〇年一二月一一日に保証人二名の相続人の実態を調査することの指示を受けているにもかかわらず、一名の保証人の相続人については昭和六三年二月一〇日まで二年二か月、もう一名の保証人の相続人については昭和六三年三月二八日まで二年三か月余にわたり実行しなかった。

⑬ 貸付日昭和五二年一〇月二五日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六〇年一二月二四日に保証人を実訪し実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年五月二〇日まで約五か月にわたり実行しなかった。

⑭ 貸付日昭和五六年一一月一八日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年二月一二日に債務者所有の不動産の競売を申し立てることの指示を受けているにもかかわらず、同年八月一三日まで六か月にわたり実行しなかった。

⑮ 貸付日昭和五二年一二月一五日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六一年三月一三日に債務者所有の不動産仮差押えの申立てと債務者及び保証人に対する訴えの提起を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年七月二二日まで四か月余にわたり実行しなかった。

⑯ 貸付日昭和五一年一一月一六日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年三月一五日に債務者を実訪し返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年六月一五日まで一年三か月にわたり実行しなかった。

⑰ 貸付日昭和五四年六月一一日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年三月二六日に根抵当権設定中の不動産の競売を申し立てることの指示を受けているにもかかわらず、同年一〇月二〇日まで約七か月にわたり実行しなかった。

⑱ 貸付日昭和五四年五月三一日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六一年四月二五日に保証人と弁済交渉を詰めることの指示を受けているにもかかわらず、同年一一月二〇日まで約七か月にわたり実行しなかった。

⑲ 貸付日昭和五二年一月一一日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年六月二四日に保証人の不動産の再評価を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年一二月一一日まで約五か月半にわたり実行しなかった。

⑳ 貸付日昭和五九年一〇月二九日貸付金額二八〇万円の案件で、昭和六一年五月三一日に債務者所有の不動産の仮差押えを検討することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年九月二二日まで約一年四か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五八年七月一四日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年六月二五日に債務者及び保証人に対して返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、債務者については同年一一月二五日まで、保証人については同年一二月一日まで、いずれも六か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五三年五月一五日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和六一年七月一〇日に債務者及び保証人と返済交渉を詰めることの指示を受けているにもかかわらず、債務者に対しては昭和六三年九月八日まで二年二か月、保証人に対しては平成元年六月二二日まで二年一一か月余にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五三年一二月一一日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六一年八月二八日に債務者の給与債権の差押えを行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年一一月一八日まで約三か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五四年八月七日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年九月一八日に債務者と返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年九月三〇日まで一年余にわたり実行しなかった。

貸付日昭和四八年一〇月二日ほか貸付金額計五〇〇万円の案件で、昭和六一年九月一八日に保証人二名の実態を把握し弁済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、一名の保証人については昭和六三年五月一一日まで、他の一名の保証人については同年五月一二日まで、いずれも約一年八か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和四八年一二月一三日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年九月二二日に債務者の返済約束の不履行について継続して交渉することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年九月二五日まで一年にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五五年七月二一日貸付金額四五〇万円の案件で、昭和六一年九月二二日に死亡した保証人の不動産及び相続人を調査するとともに、債務者を実訪し返済交渉することの指示を受けているにもかかわらず、不動産調査については一年六か月余、相続人調査については昭和六二年一〇月一日まで一年余、債務者への実訪、交渉については昭和六三年三月二三日まで一年六か月にわたり、これを実行しなかった。

貸付日昭和五三年一二月二一日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年九月二二日に債務者及び保証人を実訪し返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年一一月一一日まで約一年二か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五三年三月二日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年九月二二日に根抵当権設定中の不動産の現況を確認することの指示を受けているにもかかわらず、平成元年一月二五日まで二年四か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五五年一一月一一日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年一〇月三一日に債務者法人代表者の実態調査と返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年六月一七日まで七か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五三年一一月一四日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年一一月一五日に債務者について船橋支店へ管理依頼することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年五月一日まで五か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和四九年七月九日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年一二月六日に債務者及び保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年五月二五日まで約六か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五二年一〇月一四日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六一年一二月六日に債務者と返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年七月二七日まで約一年八か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五八年一一月一六日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年一二月九日に保証人との交渉状況を管理依頼先の松戸支店へ照会することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年五月一九日まで五か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五三年六月一三日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六一年一二月九日に債務者の動産の差押えを検討することの指示を受けているにもかかわらず、平成元年八月三一日まで約二年九か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五三年九月一三日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年一二月一七日に債務者及び保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六二年八月二〇日まで八か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和四九年一二月一六日他貸付金額計九五〇万円の案件で、昭和六二年四月三〇日に債務者及び保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年八月一九日まで約四か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五六年一月三一日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六二年五月一一日に保証人と弁済交渉することの指示を受けているにもかかわらず、同年八月一九日まで三か月余にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五三年一二月一五日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六二年六月一七日に債務者及び保証人の実態を調査し管理方針案を具申することの指示を受けているにもかかわらず、同年一〇月一日まで三か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五二年一二月一五日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六二年六月二四日に債務者所有の不動産の競売を申し立てることの指示を受けているにもかかわらず、同年一一月一九日まで約五か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和六一年八月二九日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和六二年七月三一日に保証人(二名)の実態調査と弁済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、一名の保証人については昭和六三年四月一二日まで八か月半、もう一名の保証人については昭和六三年九月八日まで一年一か月余にわたり、これを実行しなかった。

貸付日昭和四八年八月二日貸付金額二一二万円の案件で、昭和六二年九月一日に債務者の実態調査と返済額の増額交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年七月三〇日まで一一か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五四年一月一九日貸付金額一〇〇〇万円の案件で、昭和六二年九月八日に抵当権設定中の不動産の現況を調査し、競売申立ての方向で管理することの指示を受けているにもかかわらず、A宮支店長が離任した平成元年七月の時点までに実行しなかった。

貸付日昭和五四年九月五日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日に保証人との交渉状況を管理依頼先の長崎支店に照会するとともに、継続交渉を依頼することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年四月六日まで六か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五一年四月九日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日に債務者と返済交渉を継続することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年五月六日まで七か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五四年八月一三日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六二年九月三〇日に債務者法人の代表者について宮崎支店へ管理依頼することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年二月二九日まで五か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五八年七月一四日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六二年一〇月一二日に保証人に対し弁済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年一一月二五日まで一年一か月余にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五二年六月二三日貸付金額二三九万円の案件で、昭和六二年一二月一〇日に債務者について管理依頼先の福岡支店に状況照会するとともに、保証人の実態調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、債務者については昭和六三年三月一七日まで、保証人については昭和六三年三月二四日まで、いずれも三か月半にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五六年一一月二〇日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六二年一二月一〇日に債務者及び保証人について実訪により実態調査することの指示を受けているにもかかわらず、債務者については昭和六三年八月二五日まで八か月半、保証人については平成二年一月二五日まで二年一か月余にわたり、これを実行しなかった。

貸付日昭和五〇年五月一三日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六二年一二月一一日に債務者の実態調査と返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年五月一二日まで五か月にわたり実行しなかった。

貸付日昭和五二年一〇月一四日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六二年一二月一一日に債務者及び保証人を実訪し、実態調査と返済交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、債務者については昭和六三年七月二日まで約七か月、保証人については昭和六三年一一月一五日まで一一か月にわたり、これを実行しなかった。

貸付日昭和五八年七月一四日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六二年一二月一九日に保証人所有の不動産の評価と競売申立ての検討を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年一一月二五日まで一一か月余にわたり実行しなかった。

イ ア④、⑤、⑦ないし⑩、⑫ないし⑭、⑯及び⑱ないし⑳の各事例(一三例)においては、管理カード上上司から複数回実行指示を受けていること、同①、⑭、⑮及び⑰の各事例の指示内容は、その手続を遅延させてしまうと債権の保全、回収の機会を失うおそれのある法的手続の申立て(債権差押え、不動産競売、不動産仮差押えの申立て)であったにもかかわらず、その実行を遅延させていること(なお、同⑮の事例については、当初法的手続の指示があったが、指示の後保証人から支払猶予の申出があったため、右指示内容の実行は昭和六一年六月上旬まで延期させることとなったが、結局補助参加人Oが不動産仮差押えの申立て等の法的手続を実行したのは同年七月二二日になってからであるから、やはり法的手続の実行遅延の事例であると認められる。)、以上五二の事例における指示の不実行は、昭和六〇年四月から六二年一二月までの約二年九か月の間に相次いで発生していることが認められる。

また、証拠(甲五八、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、昭和六一年六月一一日の定期検照において、法的手続に関する指示の未着手の案件が九件あったことが認められる(ただし、うち一件は同①の事例である。)。

以上に照らせば、右各事例は、補助参加人Oが事務処理に関する基本的な能力及び意欲に欠けていることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

ウ これに対し、被告及び補助参加人らは、ア①の事例につき、補助参加人Oが、昭和六〇年一二月一八日、管理カード上で、当面債務者の履行を待つのが適当である旨の意見を提出しており、その意見は適切であったから、その後昭和六一年三月二六日に出された乙谷の指示は、補助参加人Oの右意見に反する不適切なものであった旨主張する。しかし、丙第二二号証によれば、右管理カード中昭和六〇年一二月二〇日の欄に、補助参加人Oが保証人と面談した際、保証人は、町議報酬は全額他の債権者から差押えを受けているが、原告にも支払いたいので差押えをしてほしい旨要望したとの記載があること、乙谷は、その記載を前提に保証人の債権の差押えを指示していることが認められるから、乙谷の指示が不適切なものとはいい難い。被告及び補助参加人らの右主張は採用できない。

エ なお、補助参加人らは、補助参加人O以外の従業員が担当した案件につき、以下のとおり乙谷が不適切な指示等を行っている旨主張する。

(ア) 丙第二四号証の管理カードに係る案件につき、乙谷は昭和六〇年五月一六日に、死者に対する仮差押えの申立てという非常識な指示をしていること

(イ) 丙第二五号証の管理カードに係る、訴訟係属中に保証履行があった案件につき、このような場合には当事者参加の申立てを行うべきなど、管理事務便覧(丙二六)に従った処理を行うべきところ、乙谷はその点の指示を怠っていること

しかし、(ア)の件については、右丙第二四号証によれば、乙谷は、死亡した債務者の所有していた不動産に対して仮差押えを行うことを指示したに過ぎず、仮差押え申立ての債務者を死者とすることを指示したものとまでは認められない。また、(イ)の件については、このような処理が延滞係担当者あるいは乙谷の業務上の懈怠であると評価すべきであるとしても、そのことで補助参加人Oの指示実行遅延や管理放置に関する前記認定が左右されるものではない。

補助参加人らの右主張は採用できない。

(8) 延滞係当時の管理放置について

ア 証拠(乙一三二六ないし一三二八、一三三七ないし一三三九)によれば、次の事実が認められる。

① 貸付日昭和五三年九月二九日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月一日から昭和六一年二月五日まで一〇か月の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五九年七月一七日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月四日から昭和六二年四月三日まで二年の間、一切管理を行わなかった。

③ 貸付日昭和五〇年五月一日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六〇年六月一四日から昭和六一年一月二八日まで七か月半の間、一切管理を行わなかった。

④ 貸付日昭和五二年六月二三日貸付金額二三九万円の案件で、昭和六〇年八月一二日から昭和六一年九月一二日まで一年一か月の間、一切管理を行わなかった。

⑤ 貸付日昭和五四年四月二五日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六〇年八月一三日から昭和六一年三月二六日まで七か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑥ 貸付日昭和五三年六月二〇日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六〇年一〇月一七日から昭和六一年九月一日まで一〇か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑦ 貸付日昭和五四年六月一一日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年一一月三〇日から昭和六一年九月一〇日まで九か月の間、一切管理を行わなかった。

⑧ 貸付日昭和五五年一月二五日他貸付金額計一〇〇〇万円の案件で、昭和六〇年一二月一七日から昭和六二年九月二一日まで一年九か月の間、一切管理を行わなかった。

⑨ 貸付日昭和五五年二月二六日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年二月四日から同年九月二六日まで七か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑩ 貸付日昭和五〇年一〇月一三日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和六一年二月一四日から同年八月一一日まで六か月の間、一切管理を行わなかった。

⑪ 貸付日昭和五〇年五月一三日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年三月一日から昭和六二年九月一八日まで一年六か月の間、一切管理を行わなかった。

⑫ 貸付日昭和五六年一一月二〇日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六一年三月二六日から昭和六二年七月一日まで一年三か月の間、一切管理を行わなかった。

⑬ 貸付日昭和五五年二月八日他貸付金額計五五〇万円の案件で、昭和六一年四月二五日から昭和六二年五月二〇日まで一年一か月の間、一切管理を行わなかった。

⑭ 貸付日昭和五四年四月一七日貸付金額一〇〇〇万円の案件で、昭和六一年六月一七日から昭和六二年九月二五日まで一年三か月の間、一切管理を行わなかった。

⑮ 貸付日昭和五〇年一月二二日貸付金額一〇〇万円の案件で、昭和六一年七月八日から昭和六二年六月一日まで一一か月の間、一切管理を行わなかった。

⑯ 貸付日昭和五六年一月二六日貸付金額二五〇万円の案件で、昭和六一年八月二五日から昭和六二年五月一九日まで約九か月の間、一切管理を行わなかった。

⑰ 貸付日昭和五五年四月一〇日貸付金額一五〇〇万円の案件で、昭和六一年九月一〇日から昭和六二年四月一四日まで七か月の間、一切管理を行わなかった。

⑱ 貸付日昭和四九年七月九日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年一〇月二二日から昭和六二年五月二五日まで七か月の間、一切管理を行わなかった。

⑲ 貸付日昭和五三年九月一三日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年一二月一七日から昭和六二年八月一七日まで八か月の間、一切管理を行わなかった。

⑳ 貸付日昭和四九年一一月五日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六二年三月二五日から同年九月二九日まで六か月の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五二年七月二六日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六二年五月二〇日から同年一一月一二日まで約六か月の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五一年四月九日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和六二年五月二九日から昭和六三年四月六日まで一〇か月の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五三年五月一五日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和六二年六月二日から昭和六三年八月一九日まで一年二か月の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五八年六月二〇日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六二年七月一七日から昭和六三年三月二九日まで八か月半の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五四年九月五日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年七月二〇日から昭和六三年四月六日まで八か月半の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五四年二月二〇日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六二年八月一〇日から昭和六三年三月二九日まで七か月半の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五九年一〇月二九日貸付金額二八〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から昭和六三年四月六日まで六か月半の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和六〇年二月二七日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六二年一〇月二九日から昭和六三年四月六日まで五か月の間、一切管理を行わなかった。

貸付日昭和五七年五月二六日貸付金額三〇万円の案件で、昭和六二年一一月二六日から昭和六三年七月二七日まで八か月の間、一切管理を行わなかった。

イ そこで検討するに、約二年八か月の間(管理放置の始期を基準とする。)に二九件について管理放置が認められ、期間がいずれも五か月以上であり、うち八件は一年以上に及んでいるのであって、これら各事例に合理的な理由があったことを認めるに足りる証拠がないことからすると、右各事例は補助参加人Oの事務処理に問題があったことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(9) 選別区分の見直し作業について

ア 証拠(乙五八七、一三二七、一三二八、一三三四)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 原告においては、昭和六二年、それまでの延滞口債権の選別区分を見直して新しい基準で延滞口債権の選別区分を行うことにし、佐世保支店においても、延滞係のミーティング等により、昭和六二年九月末までに作業を完了させるとの前提で処理計画を決定した。

(イ) この作業の遂行に関し、昭和六二年五月末では、同係のもう一名の後輩職員である甲谷は、その担当件数二一七件のうち一一三件完了、進ちょく率52.1パーセントに達していたのに対して、補助参加人Oは、担当件数二二七件のうち七九件しか完了しておらず、進ちょく率は34.8パーセントに過ぎなかった。同様に、同年六月末においては、甲谷の進ちょく率55.3パーセントに対し、補助参加人Oのそれは37.7パーセント、同年七月末においても、甲谷の進ちょく率59.0パーセントに対し、補助参加人Oのそれは46.1パーセントであった。

イ 右の事実は、補助参加人Oが事務処理能力が劣ることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

補助参加人Oは、その陳述書(乙八四二)において、選別区分の見直しに関しては、延滞係と丁本課長との間では、必ず実訪して債務者らの実態を正確に調査した上で選別を行い、安易に継続口には選別しないことを最重点に置くとの確認がされており、処理をできるだけ早く行うとか九月末には見直し作業を完了させることには重点は置かれていなかった旨陳述する。しかし、前記認定のとおり補助参加人Oの作業の進ちょく率は同じ延滞係の甲谷のそれに比べて低いものであったことに照らすと、補助参加人Oの右陳述をもってしても右判断を左右するに足りない。

(10) 出張命令簿の作成について

ア 証拠(甲五九の二、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、補助参加人Oは、延滞口の債務者及び保証人を実訪するため昭和六〇年五月一六日から同月一七日までの一泊二日で長崎県松浦市北松浦郡へ出張する予定になっていたこと、原告では、出張命令を受けるため事前に職員が旅行命令簿を作成して課長を通して支店長に提出することになっており、その作成要領は、実訪先の名称、所在地、貸付番号等を列挙することとされており、このことは、出張命令を受けるための基本的かつ初歩的なことで、原告の職員であれば当然のこととして行っていること、これに対し補助参加人Oは、出張前日の昭和六〇年五月一五日、旅行命令簿に単に「松浦市、北松浦郡」と記入したのみで乙谷課長に提出してきたことが認められる。

イ しかし、証拠(甲五九の二、乙八四二)によれば、審査係においては出張に際して必ずしも行き先、件数等を具体的に記入しない運用であったこと、補助参加人Oが延滞係を担当したのは、この件のあった直前の昭和六〇年四月からであり、かつ、補助参加人Oには、それ以前は同係を担当した経験がほとんどなかったことが認められるから、この件で指導を受けた後にも同様の記入不備が見られたとの事実が認められるのであれば格別、そうでない以上、この件をもって補助参加人Oが職員として基本的な事務手続すら処理できない状態であったとまでは認めることはできない。

よって、アの事実をもって、補助参加人Oの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(11) 勉強会への取組み意欲の欠如について

ア 証拠(甲六三、六四、六五、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、佐世保支店管理課では、未入金係及び延滞係の職員で輪番制により講師を担当して、課の勉強会を月一回行っており、昭和六一年四月二四日は、補助参加人Oを講師とする貸金債権の消滅時効をテーマに勉強会を行うことになっていたこと、乙谷課長は、補助参加人Oに対して、貸金債権の消滅時効とその中断方法についてわかり易くまとめたペーパーを作成して説明するよう指示していたこと、これに対し補助参加人Oは、勉強会の席上、原告が職員に配布されているマニュアルである「管理事務の基礎知識」から時効に関する部分を単純にコピーしたものを配り、それを読み上げるだけの説明に終始したこと、同様の勉強会において講師となった他の職員は、自ら手書きで整理したメモを準備するなどしていたことが認められる。

イ 右認定の事実からすると、補助参加人Oは、勉強会の講師として期待された役割を十分果たすところがなかったとともに、この点に関する上司の指示に対して適切に対応していなかったことが認められ、人事考課上低く評価する根拠となる。

(12) 事務上の過誤について

証拠(乙一三二七)によれば、補助参加人Oは、昭和六一年七月二八日、原告が提起した貸金請求訴訟の費用を仮払金として出金したが、その仮払金の出金の記録を管理カードの仮払金明細欄に記載することを失念していたことが認められる。

しかし、この事実のみによって、補助参加人Oが事務上の過誤を繰り返していたことまでは認められず、人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(13) 支店業務への非協力等及び上司に対する補佐等について

原告は、佐世保支店では、支店全体で月一回実施する業務懇談会、各課のミーティングなどの各種会議を開催しており、そういう機会には、副調査役である補助参加人Oには、支店全体あるいは課における業務の推進について、積極的に提言や発言を行うことが期待されるところ、補助参加人Oにはそうした積極的な取組み姿勢はみられず、建設的な提言や発言はなかった、また、同様に、補助参加人Oには、上司の補佐や後輩職員に対する指導が求められていたが、補助参加人Oにはそのような姿勢がみられなかった旨主張する。

しかし、原告における他の職員がそのような取組みないし補佐及び指導をどの程度行っていたかを含めて具体的事実が明らかでない以上、人事考課上低く評価する根拠となるということはできない。

(14) マーケティングの指示不実行について

証拠(甲六一、六二、乙一三二六、証人乙谷太郎)によれば、乙谷課長は、昭和六〇年八月一九日、補助参加人Oに対し、同課長の出張中である八月二〇日から同月二三日までの間に、マーケティング活動の一環として顧客への実訪を一〇件ほど行うことを指示したが、補助参加人Oは、このうち二件しか行わなかったことが認められる。この事実は、補助参加人Oが業務に対する積極性に欠けるなど、人事考課上低く評価する根拠となる。

この点、補助参加人Oは、その陳述書(乙八四二)において、担当件数が処理能力の限界を超えている状態にあったのであるから、マーケティングを行う旨の指示は適切なものではなかった旨陳述するが、証拠(甲六一)によれば、補助参加人Oは、乙谷の指示に対して異議を唱えることなく承諾し、その上で指示事項を遂行していないことが認められるから、右陳述は採用することができない。

(二) 結論

(1) 以上のとおり、昭和六〇年から昭和六二年にかけての補助参加人Oの勤務状況等に関する原告の主張(第三、一、5、(四))は、月間処理計画・実績表提出を遅延させたこと、出張命令簿の作成がずさんであったこと、事務上の過誤、支店業務について非協力的であったこと及び上司、後輩に対する補佐等に欠けていたことの各事実を除いては、いずれも理由があるものと認められる。

(2) 次に、右各年の翌年度に当たる昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人O及びその同期中位者の格付は、同期者である補助参加人Jに関する3、(二)、(2)と同一であると認められる。

(3) そこで検討するに、昭和六〇年から昭和六二年にかけての補助参加人Oの勤務状況等は、事務処理に当たってずさんであり、事務処理能力も劣っているのであり、このことに照らせば、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人Oの格付は不当に低いとは認め難いから、原告が補助参加人Oの組合活動等を決定的動機として不利益に取り扱ったものとは認められず、本件命令中この点に関する部分は取消しを免れない。

5  補助参加人Rについて<省略>

6  補助参加人Gについて

(一) 補助参加人Gは、昭和五七年三月から水戸支店に勤務し、延滞係として勤務していた(甲四九四、四九五、四九七の一ないし三、乙一三〇二)昭和六〇年から昭和六二年当時の補助参加人Gの勤務状況等につき、第三、一、5、(六)のこの点に関する原告の主張に沿って検討する。

(1) 指示実行遅延について

ア 証拠(甲四九四、四九五、四九九、五〇〇)によれば、次の事実が認められる。

① 貸付日昭和五四年三月一五日ほか貸付金額計八〇〇万円の案件で、昭和五九年一一月一日、保証人所有の不動産調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年五月一六日まで約六か月半にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五三年六月二九日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和五九年一二月一九日、債務者法人代表者について、管理依頼を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六〇年二月二一日まで約二か月にわたり実行しなかった。

③ 貸付日昭和五五年一月二一日ほか貸付金額計一六〇〇万円の案件で、昭和六〇年一月三〇日、保証人に対し連帯保証責任を追及することの指示を受けているにもかかわらず、同年五月一四日まで約三か月半にわたり実行しなかった。

④ 貸付日昭和五七年四月一五日貸付金額五五〇万円の案件で、昭和六〇年二月五日、保証人を実訪することの指示を受けているにもかかわらず、同年六月二五日まで約四か月半にわたり実行しなかった。

⑤ 貸付日昭和五三年四月二一日貸付金額一六〇万円の案件で、昭和六〇年三月二七日、保証人を実訪することの指示を受けているにもかかわらず、同年五月一六日まで約一か月半にわたり実行しなかった。

⑥ 貸付日昭和五三年四月二七日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月一六日、保証人に対し弁済の増額交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年六月一二日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑦ 貸付日昭和五六年一一月二八日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六〇年一一月二一日、債務者について、管理依頼を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年一月二九日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑧ 貸付日昭和五三年六月二九日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年一一月二七日、保証人の住所照会を行うことの指示を受けているにもかかわらず、昭和六一年一月一七日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑨ 貸付日昭和五七年六月二九日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年三月二四日、債務者法人代表者について、管理依頼を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年五月二二日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑩ 貸付日昭和五三年一二月一日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六一年三月二四日、債務者について、管理依頼を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年六月一二日まで約二か月半にわたり実行しなかった。

⑪ 貸付日昭和五三年七月一七日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年三月一九日、保証人について管理依頼を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年七月一四日まで約四か月にわたり実行しなかった。

⑫ 貸付日昭和六〇年一二月三〇日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六二年六月二日、保証人と交渉を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年七月一六日まで一か月半にわたり実行しなかった。

⑬ 貸付日昭和五七年七月一九日貸付金額四五〇万円の案件で、昭和六二年六月三〇日、債務者及び保証人の動産執行を申し立てることの指示を受けているにもかかわらず、同年八月二五日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑭ 貸付日昭和五二年二月一四日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年七月三〇日、債務者の相続人を調査することの指示を受けているにもかかわらず、昭和六三年二月二六日まで約七か月にわたり実行しなかった。

⑮ 貸付日昭和五五年一二月二三日ほか貸付金額計七〇〇万円の案件で、昭和六二年七月三一日、保証人所有の不動産の換価価値を検討することの指示を受けているにもかかわらず、平成元年二月一日まで約一年六か月にわたり実行しなかった。

⑯ 貸付日昭和六〇年一二月三〇日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六二年八月一二日、保証人の亡父の相続関係を調査することの指示を受けているにもかかわらず、同年一〇月一日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑰ 貸付日昭和六一年一月一三日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年八月一三日、債務者法人の代表者所有の不動産について、仮差押えを行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年一〇月二六日まで約二か月半にわたり実行しなかった。

⑱ 貸付日昭和五二年一月五日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六二年八月二一日、保証人所有の不動産の調査を行うことの指示を受けているにもかかわらず、同年一〇月一二日まで約二か月にわたり実行しなかった。

イ ア①、⑭及び⑮については実行に至るまでの期間が長く、遅延について合理的な理由があったことを認めるに足りる証拠がないから、人事考課上低く評価する根拠となるが、その余の事例については実行に至るまでの期間がさほど長くなく、そう頻繁に繰り返されているわけでもないから、補助参加人Gの事務処理に問題があったことの表れとなるとまではいえない。

(2) 管理放置について

ア 証拠(甲四九四、四九五、四九九、五〇〇)によれば、補助参加人Gの管理放置につき、次の事実が認められる。

① 貸付日昭和五六年一二月二四日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六〇年二月二五日から同年六月一三日まで約三か月半の間、一切管理を行わなかった。

② 貸付日昭和五七年四月一二日貸付金額五〇万円の案件で、昭和六〇年三月一二日から同年六月二一日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

③ 貸付日昭和五二年六月二〇日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月二日から同年八月二九日まで約五か月の間、一切管理を行わなかった。

④ 貸付日昭和五三年五月二五日貸付金額一五〇万円の案件で、昭和六〇年四月一二日から同年七月一五日まで約三か月、昭和六〇年七月一五日から同年一〇月二五日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

⑤ 貸付日昭和五四年九月一三日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六〇年四月二五日から同年七月二九日まで約三か月の間、昭和六〇年一一月一日から昭和六一年三月四日まで約四か月の間、昭和六一年一〇月二二日から昭和六二年二月一〇日まで約三か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑥ 貸付日昭和五六年一月二〇日貸付金額一〇〇〇万円の案件で、昭和六〇年五月一四日から同年九月一七日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑦ 貸付日昭和五三年三月三一日貸付金額二〇〇万円の案件で、昭和六〇年六月一〇日から同年一〇月一八日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑧ 貸付日昭和五五年一一月二五日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六一年二月一〇日から同年九月一一日まで約七か月の間、一切管理を行わなかった。

⑨ 貸付日昭和五七年七月一九日貸付金額四五〇万円の案件で、昭和六一年六月六日から同年一〇月二九日まで約五か月の間、一切管理を行わなかった。

⑩ 貸付日昭和五一年八月一二日貸付金額八〇万円の案件で、昭和六一年六月七日から同年一〇月一六日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑪ 貸付日昭和五五年一一月一四日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六一年六月一八日から同年一二月一二日まで約六か月の間、一切管理を行わなかった。

⑫ 貸付日昭和五六年一二月二五日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六一年一〇月一五日から昭和六二年二月一〇日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑬ 貸付日昭和五五年一二月二三日ほか貸付金額計七〇〇万円の案件で、昭和六一年一二月二日から昭和六二年四月一〇日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑭ 貸付日昭和五四年九月一三日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六二年三月七日から同年七月二四日まで約四か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑮ 貸付日昭和五七年七月一九日貸付金額四五〇万円の案件で、昭和六二年三月二五日から同年六月三〇日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

⑯ 貸付日昭和五一年八月一二日貸付金額八〇万円の案件で、昭和六二年三月二七日から同年七月九日まで約三か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑰ 貸付日昭和五五年一二月二三日ほか貸付金額計七〇〇万円の案件で、昭和六二年七月三一日から同年一一月二〇日まで約四か月の間、一切管理を行わなかった。

⑱ 貸付日昭和五五年一一月一八日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年八月五日から同年一一月一九日まで約三か月半の間、一切管理を行わなかった。

⑲ 貸付日昭和五三年五月二二日ほか貸付金額計四八〇万円の案件で、昭和六二年一二月三〇日から昭和六三年五月一九日まで約四か月半の間、一切管理を行わなかった。

イ ア③、⑧、⑨、⑪については管理を放置していた期間が五か月以上となっており、そのことに合理的な理由があったことを認めるに足りる証拠がないので、人事考課上低く評価する根拠となるが、その余の事例については期間がさほど長くなく、その遅延によって当該案件の事務処理にどの程度の悪影響を及ぼしたのか明らかでないから、これらの事例があったからといって、補助参加人Gの事務処理に問題があったことの表れとなるとまではいえず、これらの事実をもって補助参加人Gの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(3) 知識・能力について

ア 時効の期日管理放置について

証拠(甲四九五、五一六)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 時効の期日管理について

連帯保証人に対する確定判決がある場合、当事者である連帯保証人との関係では時効期間は一〇年であるが、このことは主債務の時効期間には影響を及ぼさないとする判例があることから、原告の実務においては、連帯保証人に対する確定判決を得ていても、主債務の時効期間は判決確定後五年として取り扱うこととしている。

ところで、債務者(株式会社)はプラント関係製造業で、昭和五三年五月一七日に四〇〇万円を貸し付け、昭和五五年八月三〇日に延滞口に編入した案件で、債務者法人代表者は行方不明であるため、保証人に対し提訴し、昭和五六年一〇月二六日勝訴判決を得たという案件につき、昭和六〇年から補助参加人Gが担当し、管理を続けていたが、関係者からは弁済がなかった。ところが、昭和六二年九月七日に、戊本課長が当該管理カードの検照を行ったところ、保証人に対する勝訴判決の後五年を経過しているにもかかわらず、補助参加人Gが主債務について時効の中断措置を取っていないことが判明した。

戊本課長が補助参加人Gに対して注意すると、補助参加人Gは「その場合は一〇年ではないのか。」と返事し、時効についての原告の取扱いを理解していなかった。

(イ) 配当要求の終期の無理解

債務者や保証人の不動産について、他の債権者から競売申立てがなされている場合は、一般債権者は配当要求を申し立てることができる。この配当要求は、執行裁判所が定めた配当要求の終期までに行うことになるが、配当要求の終期から三か月以内に売却許可決定がされないときは、期間が更新される。

ところで、債務者(株式会社)はサービス業で昭和五七年一二月二七日に八〇〇万円を貸し付け、昭和五九年八月三一日に延滞口に編入となった案件につき、補助参加人Gが担当していたが、代表者の不動産が信用保証協会から競売申立てがされていた。代表者については既に債務名義を取得していたので配当要求の是非について検討すべきところ、補助参加人Gは昭和六二年一二月一〇日に、「配当要求の終期が経過したため配当要求はできない。」と意見具申してきた。戊本課長は、「配当要求の終期から三か月以内に売却許可決定がされないときは、期間は更新される。」と指摘したところ、補助参加人Gは納得がいかないような顔をしていた。そこで裁判所に確かめるよう指示したところ、補助参加人Gは、水戸地方裁判所に照会し、その結果、同課長の指摘が正しいことを認めた。

イ 右認定の事実によれば、補助参加人Gは、昭和六〇年当時、ア(ア)のような案件の時効に関する取扱いについて理解していなかったこと、また、昭和六二年当時、ア(イ)のような案件につき、配当要求の終期から三か月以内に売却許可決定がされないときは期間が更新されることを理解していなかったことが認められる。

そうすると、補助参加人Gは、原告入庫後一〇年以上を経過しているにもかかわらず、延滞係として、債権の消長に重要な影響をもたらす点に関する取扱いあるいは法的知識を有していなかったことが認められるのであって、このことはその人事考課上低く評価する根拠となる。

ウ これに対し、丙第七七及び第八六号証(補助参加人G陳述書)には、ア(ア)の件につき、「その場合は一〇年ではないのか。」との発言は、確定判決を得た債権の時効は一〇年であり、連帯保証人に対しても同様であるとする学説があることを指摘したものであり、取扱いを理解していなかったということではない旨の陳述があるが、ここでの事例では、連帯保証人に対して確定判決を得た場合の主債務に対する時効期間が問題となっているのであるから、右陳述は採用することができない。

また、丙第七七号証(補助参加人G陳述書)には、同(イ)の件につき、配当要求の期間更新については十分理解しており、本件の意見具申には何らかの特殊事情があったはずである旨の陳述があるが、配当要求の期間更新に関して理解をした上で、「配当要求の終期が経過したため配当要求はできない。」との意見具申をするに至るべき特殊事情は想定できず、右陳述は採用することができない。

(4) 記章不着用について

証拠(甲四九四、四九五、五一五、丙七七、八六)によれば、原告において着用を義務付けられている記章を補助参加人Gが着用しないことがあったことが認められる。記章を原告の職員が全員必ず着用しているのか否かについては明らかでなく、また、補助参加人Gがこれを着用していないことに対して上司が明確に注意・指導をした事実はこれを認めるに足りる証拠はないが、一方で、丙七七号証によれば、補助参加人Gは、上司らから、一、二回、「決まった背広に(公庫の記章を)付けているのですか。」と言われたことがあることが認められるから、この上司らの発言が着用に対する注意・指導に当たるかどうかはともかく、この発言によって、補助参加人Gは、上司らが記章を着用していないことを問題視していることを認識し、又は認識し得たということができ、それにもかかわらず補助参加人Gは記章を着用しなかったということになる。

このように、本来着用すべき記章を着用していなかった点につき、補助参加人Gにはこれを正当化すべき事情はないというべきであり、結局、この点に関する補助参加人Gの行動は、原告の職場内の規律を乱すものであったと評価され、人事考課上低く評価する根拠となる。

(5) 本店への電話について

ア 証拠(甲四九四、丙七七)によれば、補助参加人Gは、昭和六〇年一月一七日、丙谷調査役と総務課長に対し、応接コーナーが寒いので改善するよう申し入れたこと、翌一八日、右申入れに対して支店において対応がされないため、本店人事部に電話をかけて、応接コーナーが寒い旨の申入れを行ったことが認められる。

イ この点に関し、原告は、支店管理者に施設の改善を前日に申し入れられても、即座に対応することはできないし、また、支店における職場環境の問題はまず組織上の上司である課長なり次長・支店長に申し出て支店内で解決を図るのが組織としてのルールであるから、補助参加人Gの右の言動は、組織を無視した非常識なものである旨主張する。

確かに、補助参加人Gが、前日に実際に調査役と課長に対して改善を申し入れただけで本店へ電話したことは性急である感を否めないものの、課長以上の上位の職位への任用の際に考慮することは相当であるとしても、特四等級に格付けされている補助参加人Gの人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(6) 無断離席について

証拠(甲四九五)によれば、昭和六二年一〇月一五日、補助参加人Gは、業務時間中、来店した茨城争議支援共闘会議のメンバーとの面会に同席し、課長から席に戻って仕事をするようにと指示を受けたにもかかわらず、合理的な理由もなくこれに従わなかったことが認められる。

以上の事実は、補助参加人Gが上司の指示に従わず、職務専念義務に反していることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(7) ダイレクトメール発送について

ア 証拠(甲四九四、五一五、丙七七、八六)によれば、昭和六〇年六月一四日、同年九月一三日の両日、水戸支店においては、業務推進活動の一環として顧客へのダイレクトメールの発送作業を実施することにしたこと、補助参加人Gは、右両日、それぞれ上司等から発送作業の割り当てを指示されたが、突然指示されても、他の仕事が入っているから作業を行うことはできないなどと言って、作業を行うことを拒否したこと、右両日、右作業の指示を拒否したのは、同支店において補助参加人Gのみであったことが認められる。

イ 右の事実は、補助参加人Gが上司等の指示に従わず、かつ、支店の業務推進に非協力的であることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(8) 和解案作成について

ア 原告は、代表者と保証人に対し訴えを提起した案件の和解案について顧問弁護士事務所を訪問して打合せを行った際、補助参加人Gは事前に何の和解案も作成していなかったため、結局その場で顧問弁護士と丙中課長が協議しながら、一から和解案を作成することになったとして、補助参加人Gには常日ごろから管理方針の重要な事項につき自ら判断する能力がなかった旨主張する。

イ しかし、仮に原告の右主張のとおりの事実があったとしても、これをもって補助参加人Gが常日ごろから管理方針の重要な事項につき自ら判断する能力がなかったことまで認めることはできない。

(9) 年休取得について

ア 証拠(甲四九五)によれば、補助参加人Gの年休取得に関し、次の事実が認められる。

(ア) 昭和六二年五月一日、始業時刻後の午前九時三〇分ころ、補助参加人Gから戊本課長に「本日のメーデーに参加するために、午前一〇時から一二時まで二時間の年休を取得したい。」と、突然の申出があった。

戊本課長は、「予め予定が分かっている年休の取得について、なぜ当日突然に申し出るのか、支店の業務も考えるべきである。」と注意した。

ところが、補助参加人Gは反省するどころか、「それは課長の判断ですか。完全な年休制限と受け取ります。」などと反抗してきた。戊本課長は、「年休の取得を制限するつもりは毛頭ない。業務に支障が出ないよう早めに申し出よと注意しているのである。」と改めて注意・指導した。

(イ) 昭和六二年一〇月三〇日の終業時刻後残業中の午後六時に、補助参加人Gから戊本課長に、翌同月三一日に午後一時間年休を取得するとの申出があった。同月三一日は土曜日で、当時は午後一時一〇分までの勤務であり、最後の一時間について年休を取るというのが補助参加人Gの申出の内容であった。

管理課にとって月末は、債務者、保証人からの入金の締め日であり、債権管理交渉の詰め、入金の有無の確認、入金処理等、月内で最も忙しい日であり、かつ、直前に年休を申し出ることは、仕事の分担等について混乱をもたらすものであることから、「月末のましてや土曜日は管理課にとって最も忙しい日であり、突然の年休取得の申出は常識外である。一生懸命やっている他の職員にも悪影響を与えることになる。」と注意した。ところが補助参加人Gは、「常識外とはひどい。これでも遠慮して午後の時間帯とした。」と発言し、結局翌日一時間の年休を取得した。

イ 右認定の事実は、補助参加人Gが業務の都合を考えず、協調性に欠けることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(10) 延滞口の解消実績について

ア 証拠(甲四九五、乙一三六七、丙七七)によれば、昭和六二年度及び六三年度の補助参加人Gの延滞口解消実績及び各年度の他の延滞係担当者のそれとの比較は、昭和六二年度においては、補助参加人Gの解消金額七八七五万円、同解消件数四一件、kの解消金額一億九五一万円、同解消件数四七件、lの解消金額五八一八万円、同解消件数三〇件、mの解消金額五二二五万円、同解消件数四六件であり、昭和六三年度においては、補助参加人Gの解消金額五二二〇万円、同解消件数二四件、kの解消金額七八五八万円、同解消件数四一件、nの解消金額六五一一万円、同解消件数三一件であることが認められる。

イ この点に関し、原告は、補助参加人Gの昭和六二年度の延滞口の解消実績は可もなく不可もないといった程度であったが、補助参加人Gの解消実績は当時次第に低下しており、昭和六三年度についていえば最下位の実績しかあげていなかった旨主張する。

しかし、ア掲記の各証拠によれば、昭和六〇年度の補助参加人Gの延滞口解消実績は、解消金額一億二七九〇万円、解消件数五三件で、延滞係担当者三名中最高であり、昭和六一年度のそれは、解消金額八六〇六万円、解消件数三七件で、延滞係担当者四名中、金額では第二位、件数では第三位となっていることが認められる。以上のとおり、補助参加人Gの実績は年度を経るにつれて次第に低下しているとはいえ、昭和六〇年度には最高の実績を残している上、昭和六三年度の実績をみても他の担当者に比べて極端に低い実績とまではいえないから、補助参加人Gは、延滞口解消実績に関して、昭和六〇年度から六三年度にかけて、人事考課上低い評価を受けるべき状況にあったとは認められない。

(11) 支店業務の推進への姿勢及びに上司の補佐、後輩の指導について

原告は、補助参加人Gは、支店全体の業務の推進に関して積極的に取り組む姿勢はなく、また、上司の補佐や後輩の指導という役割を果たしたこともなかった旨主張する。

しかし、原告における他の職員がそのような指導、補佐、提言等をどの程度行っていたかを含めて具体的事実は明らかでない以上、人事考課上低く評価する根拠とすることはできない。

(二) 結論

(1) 以上のとおり、昭和六〇年から昭和六三年にかけての補助参加人Gの勤務状況等に関する原告の主張(第三、一、5、(六))のうち、指示に対して実行を遅延させたことの一部、管理を放置したことの一部、本店へ電話したこと、和解案の作成を怠ったこと、延滞口解消実績が上がっていなかったこと、業務推進への積極的な姿勢及び上司、後輩の補佐等の欠如の点は、いずれも理由がなく、その余の点はいずれも理由があるということになる。

(2) 次に、右各年の翌年度に当たる昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人G及びその同期中位者の格付は、第二、一、5のとおりであり、補助参加人Gの格付は、同期三三名中最下位に位置付けられていたことが認められる。

(3) そこで検討するに、補助参加人Gは上司の指示に従わなかったり、協調性に欠ける面があったりして、その勤務態度に一定の問題があったことは否定できないが、昭和六〇年度及び昭和六二年度の延滞口解消実績は平均以上であったことを考えると、同期者中最下位の格付は不当に低いものと認められる。

以上に加え、証拠(乙九四二ないし九四七、一三一三ないし一三一五)によれば、補助参加人Gは、昭和五〇年度以降一貫して同期者中最下位に位置付けられているものと認められること、第四、二のとおり、原告は、補助参加人らの組合活動等に対して強く嫌悪していたこと、第四、二、2、(六)のとおり、補助参加人Gは昭和四四年入庫以来支部レベル及び本部レベルでの企業告発型の組合活動に積極的に取り組み、支店職制らがそのような活動に対して嫌悪を示す発言をしたこと、第四、二、3、(一)のとおり、原告は、支店の職制らを通じて組合対策等を実行していたことをも総合考慮すると、原告は、補助参加人Gに対し、その先鋭的な組合活動に嫌悪して、処遇上の不利益を被らせようと企図し、その勤務実績をあえて無視して人事考課上殊更に低く評価し、補助参加人Gを不当に低く格付したものと推認することができる。

以上の事実は、原告が補助参加人Gの組合所属あるいは組合活動のゆえに不利益取扱いを行ったものとして、労働組合法七条一号の不当労働行為に当たり、また、そのことによって補助参加人Gが所属する全国活会あるいは発展会の組合活動等の弱体化を企図して支配介入を行ったものとして、同条三号の不当労働行為に当たる。

7  補助参加人Nについて<省略>

8  補助参加人Lについて

(一) 補助参加人Lは、昭和五六年三月から東大阪支店に勤務し、延滞係として勤務していた(乙九五九、九六一ないし九六四)昭和六〇年から昭和六二年当時の補助参加人Lの勤務状況等について、第三、一、5、(八)のこの点に関する原告の主張に沿って検討する。

(1) 業務に対する態度について

原告は、補助参加人Lの業務に対する態度が消極的であったとして、第三、一、5、(八)、(1)のとおり主張する。

そこで検討するに、右原告の主張には、これに沿う証拠(乙九六一、九六九、一四〇二)もある。

しかし、右各証拠をみても、補助参加人Lが会議等においてどの程度消極的であったかについては、他の出席者との比較等において客観的・具体的に明らかではなく、観察する者の主観によって評価が大きく異なること、乙第四五六号証ないし第四七二号証(「管理課業務運営状況表」中の「日程表」欄)からすれば、原告が前記のとおり主張する各ミーティングの開催頻度が原告の前記主張のとおりであるかどうかにつき疑問があることからすると、右各証拠は必ずしも採用することができず、このほかに原告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

なお、第三、一、5、(八)、(1)、カの原告の主張は、極めて抽象的である上、補助参加人Lのそのような姿勢によって管理課内等に対して何らかの悪影響を及ぼしたことまでいうものではないから、補助参加人Lの業務に対する消極的な態度の例示としては失当である。

よって、補助参加人Lが消極的であったとして、これを人事考課上低く評価する根拠とすることはできない。

なお、被告は、補助参加人Lは、業務運営方針アンケートを支店に対して提出し、業務運営等について積極的に提言を行っている旨主張する。しかし、証拠(乙四五一、四五二)及び弁論の全趣旨からすれば、このアンケートは、業務上の指示に基づき支店全職員が提出するものであることが認められること、その他右提言の内容に照らせば、右提言をもって補助参加人Lの業務推進に対する積極的な態度の表れであるとはいい難く、被告の右主張は採用できない。

(2) 自己啓発に対する姿勢について

原告は、補助参加人Lの自己啓発に対する姿勢につき、次のとおり主張する。

そこで検討するに、一般に、労働者が自己啓発のために積極的に努力している場合、また、労働者が自己啓発を怠った結果業務に支障を来したような場合には、使用者として、このような点を人事考課上の評価の対象とすることは許されると考えられるが、就業時間外の自己啓発の姿勢に欠けること自体に関して、使用者として低い評価を加えることは、使用者に与えられている裁量権の範囲を逸脱するものと考えられる。

そうすると、原告の前記主張事実をもって人事考課上低く評価する根拠とすることはできない。

(3) 規律上問題のある言動について

ア 証拠(甲九六一、一三九三、一四〇二)によれば、補助参加人Lは、原告において着用を義務付けられている記章及びネームプレートを着用していなかったこと、上司からこれを着用するように注意を受けたことがあることが認められる。

イ そこで検討するに、本来着用すべき記章等を着用していなかった点につき、補助参加人Lにはこれを正当化すべき事情はないというべきであり、結局、この点に関する補助参加人Lの行動は、原告の職場内の規律上問題のある行動であったということができる。

(4) 後輩に対する指導・助言について

原告は、補助参加人Lは、昭和六〇年四月に四等級に昇格したのであるから、後輩に対して助言・指導を行うことが求められるのに、五等級者に業務上助言を与えるとか、指導をするということは全くなかった旨主張する。

しかし、原告における他の職員がそのような指導、補佐、提言等をどの程度行っていたかを含めて、具体的な事実は明らかでなく、人事考課上低く評価する根拠とすることはできない。

(二) 結論

(1) 以上のとおり、昭和六〇年から昭和六二年にかけての補助参加人Lの勤務状況等に関する原告の主張(第三、一、5、(八))は、規律上問題のある言動があったことの点を除き、いずれも理由がないというべきである。

(2) 次に、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人L及びその同期中位者の格付は、第二、一、5のとおりであり、補助参加人Lは、同期者七一名ないし六九名中最下位に位置付けられていたことが認められる。

(3) そこで検討するに、補助参加人Lの昭和六〇年から六二年にかけての勤務状況等は記章の不着用の点のほかは取り立てて問題とすべきものがなく、かえって、証拠(乙四四七)によれば、昭和六一年度において、補助参加人Lの延滞口解消実績は、同年度を通じて延滞係を担当した者六名中、年間処理計画件数と実際の処理件数の割合は第二位(第一位は管理役)、実訪件数は第一位であったと認められ(この点に関し、原告は、昭和六一年度及び昭和六二年度の補助参加人Lの解消実績はむしろ低いほうであった旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。)、優れた勤務実績を上げているのであって、このことにも照らすと、右各格付はいずれも不当に低いものと認められる。

以上に加え、第四、二のとおり、補助参加人Lは、昭和五七年度以降一貫して同期者中最下位に位置付けられているものと認められること、第四、二のとおり、原告は、補助参加人らの組合活動等に対して強く嫌悪していたこと、第四、二、2、(八)のとおり、補助参加人Lが昭和五四年のスキーツアーに関して抗議した一件があって以降、支店の職制らが補助参加人Lの組合活動に対して嫌悪を示す発言をしたこと、その後も、補助参加人Lは国金労の活動方針に反する行動を行うなどしたこと、第四、二、3、(一)のとおり、原告は、支店の職制らを通じて組合対策等を実行していたこと、以上の各点を総合考慮すると、原告は、補助参加人Lに対し、その先鋭的な組合活動等に嫌悪して、処遇上の不利益を被らせようと企図し、人事考課において補助参加人Lの優れた勤務実績を無視し、殊更に低く評価し、その結果補助参加人Lと同期中位者との間に等級・号俸における格差が生じたことを推認することができる。

以上の事実は、原告が補助参加人Lの組合所属あるいは組合活動のゆえに不利益取扱いを行ったものとして、労働組合法七条一号の不当労働行為に当たり、また、そのことによって補助参加人Lが所属する全国活会あるいは発展会の組合活動等の弱体化を企図して支配介入を行ったものとして、同条三号の不当労働行為に当たる。

9  補助参加人Bについて<省略>

10  補助参加人Iについて<省略>

11  補助参加人Qについて<省略>

12  補助参加人Sについて<省略>

13  補助参加人Cについて<省略>

14  補助参加人Eについて

(一) 補助参加人Eは、昭和四八年七月から浜松支店に、昭和六一年三月から岡崎支店に勤務し、浜松支店では審査係、岡崎支店では、昭和六二年九月まで未入金係、それ以降は延滞係として勤務していた(甲一〇四、一三三、乙八一三の一、一三一一)昭和六〇年から昭和六二年当時の補助参加人Eの勤務状況等につき、第三、一、5、(一四)のこの点に関する原告の主張に沿って検討する。

(1) 浜松支店当時の投げ返しの件数及び審査事務の問題事例について

ア 証拠(甲一〇四、一〇七の一、二、一〇八の一ないし三、一〇九の一、二、一一〇の一、二、一一一の一、二、一一二の一ないし四、一一三の一、二、一一四の一、二、一一五の一、二、一一六の一、二、一一七の一ないし三、一一八の一ないし三、一一九の一、二、一二〇の一、二、一二一の一、二、一二二の一、二、一二三の一、二、一二四の一、二、一二五の一ないし四、一二六の一、二、一三〇の一、三〇二、三〇三、三〇五、三〇六、三〇七、三六四の一ないし四、三六五の一、二、三六六の一ないし三、三六七の一ないし五、三六八の一ないし三、三六九の一、二、三七〇の一、二、三七一の一、二、三七二の一ないし四、三七三の一ないし五、三七四の一ないし三、三七五の一ないし四、三七六の一ないし三、三七七の一ないし三、三七八の一ないし四、三七九の一ないし三、三八〇の一、二、三八一の一ないし三、三八二の一、二、三八三の一ないし五、五〇四、証人乙原五郎)によれば、補助参加人Eの浜松支店勤務当時の審査事務処理に関し、次の事実が認められる。

① 一般区域貨物自動車運送業者から貨物自動車購入のための設備資金として一〇〇〇万円の申込みのあった案件で、前年度の昭和五八年度損益が五八六〇万円の大幅な損失を計上しており、また、負債の項に四四五二万円の多額の雑勘定が計上されていた。したがって、財務内容の慎重な検討や保証人予定者の不動産の有無等の資産状況の把握等を行って保全面の確保を図るなど融資の可否を慎重に判断する必要がある。それにもかかわらず、これを怠ったまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年三月二六日に注意・指導を受けた。

② スナックを新規に開業する業者から既存店舗の買取り資金として二五〇万円の環衛貸付けの申込みのあった案件で、環衛貸付けにおいて新規開業のために既存の店舗等を買い取る資金については、近代化又は衛生面で一定水準以上のものに改装する場合における当該店舗等の改装及び買取り等に要する資金が対象になるにもかかわらず、これを看過し改装の有無を確認しないまま意見具申を行い、昭和六〇年三月二九日に注意・指導を受けた。

③ 縫製業者から運転資金と設備資金として七〇〇万円の申込みのあった案件で、初回申込みのため基本調査を要し、申込人の商品(技術)の調査が必須であるにもかかわらず、これを看過し、信用調査票の技術商品欄における主な取扱品の記入を怠ったまま貸し付けるとの意見を出してきたため、昭和六〇年三月二八日に注意・指導を受けた。

④ 根抵当権を設定し融資している研磨業者から研磨盤購入のための設備資金として七〇〇万円の申込みのあった案件で、前回調査時点よりも固定資産が約六割減少し、自己資本は約九割減少して財務内容が著しく悪化しており、過去の調査内容との比較を行った上で企業の信用力を判断する必要があるにもかかわらず比較検討を怠り、また、根抵当を設定している担保不動産の評価額を見直した場合にはその根拠を明示する必要があるにもかかわらずこれを看過し、貸し付けるとの意見を出して、昭和六〇年五月九日に注意・指導を受けた。

⑤ 板金加工業を新規に開業する業者から機械購入の設備資金として六〇〇万円の申込みのあった案件で、新規開業のための申込みで、生活費等への補填が可能かどうかといった観点から、勤務者である妻の収入を調査する必要があり、また、申込人にこれといった資産がなく、保証人予定者二名の勤務歴も浅い(約三年)ため、両名の不動産の所有状況等について調査する必要があるにもかかわらずこれらを怠り、貸し付けるとの意見を出してきたため、昭和六〇年五月二一日に注意・指導を受けた。

⑥ 段ボール製造業者から工場、倉庫建築のための設備資金として一三〇〇万円の申込みのあった案件で、浜松支店で策定している審査処理の取決め事項では、八〇〇万円以上の設備資金の申込みについては補助票の使途分析票を使用して設備効果を検討することになっているにもかかわらず、これを看過して補助票を使用せず、また、一〇〇〇万円(基準金利)を超える設備資金を融資する場合、融資後の資金使途の確認が必要であるにもかかわらず、これを不要として貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年五月二四日に注意・指導を受けた。

⑦ ダクト製造業者から支払手形等の決済資金として四五〇万円の申込みのあった案件で、面接時には法人代表者の妻が来店して面接に応じていたため、借入申込人本人である法人代表者に対して、借入意思の確認をする必要があるにもかかわらず、これを怠ったまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年六月一三日に注意・指導を受けた。

⑧ 畜産業者から買掛金決済等の運転資金として一〇〇〇万円の申込みのあった案件で、融資金額を減額査定したにもかかわらず、所要運転資金額についての検討を怠り、減額査定する理由を明示しないまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年六月五日に注意・指導を受けた。

⑨ うなぎ料理店を営む業者から店舗の新築等の設備資金として一八〇〇万円の申込みのあった案件で、新店舗の立地条件、収容能力、競合店の有無、顧客層の見込みや確保方法、現在の店舗の営業継続の有無等については、設備効果や今後の見通しを判断する上で当然検討すべき事項であるにもかかわらず、こうした点を一切検討せず、また、不動産担保の評価にあたっては、時価の評価についての根拠を明示して適正な価格で算出する必要があるにもかかわらず、これを怠り何の根拠もなく算出して意見具申を行い、昭和六〇年七月二日に注意・指導を受けた。

⑩ 自動車ゴム部品製造業者から工場増築、機械購入等の設備資金として二〇〇〇万円の申込みのあった案件で、設備資金の投資効果について、いかなる要因で売上げが増加する見込みがあるのか、その根拠を調査検討しておらず、その関連で必要な、過去二年間の業績について検討を怠り、また、不動産担保の場合、算出された担保価格により債権保全に与える影響が大きいため、担保価格のもととなる時価の把握についてはもちろん、先順位債権額の把握についても慎重に行う必要があるにもかかわらず、担保不動産調査票の先順位債権額の欄に誤った金額を記入し、さらに、売上に比較して現金預金の蓄積が乏しい理由を記載しないまま意見具申を行い、昭和六〇年七月一八日に注意・指導を受けた。

⑪ 菓子小売業者から運転資金として申込みのあった案件で、大幅な経常損失であったにもかかわらず、欠損原因と今後の改善策についての検討を怠った上に、無担保債権額が八〇〇万円を超える貸付け(今回の融資金額三〇〇万円と既往取引分五八〇万円とを合わせて八八〇万円)を、本店申請が必要であるにもかかわらず支店長決裁だけで行う意見具申をし、昭和六〇年七月二四日に注意・指導を受けた。

⑫ 既往貸付けのある家具の製造業者から運転資金と設備資金として五五〇万円の申込みのあった案件で、当該業者は既往貸付け分の返済が度々遅延しているにもかかわらず、延滞原因や今後の返済の見通しについて検討が不十分なまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年七月二七日に注意・指導を受けた。

⑬ 環衛貸付けを利用中の飲食店を営む業者から買掛金決済等の運転資金として国民金融公庫の普通貸付け一二〇万円の借入申込みがあった案件で、国民金融公庫の貸付金で別法人である環衛公庫の貸付金を決済処理(現貸決済)することはできないにもかかわらず、これを看過して現貸決済するとの意見具申を行い、昭和六〇年八月一五日に注意・指導を受けた。

⑭ 居酒屋を営む業者から支店開設の設備資金として環衛貸付け六三〇万円の申込みのあった案件で、既存の店舗の近くに支店を開設するといった計画であるにもかかわらず、顧客の確保方法や客層の見込みなどについて一切検討しないまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年八月二八日に注意・指導を受けた。

⑮ 勤務先の営業を譲り受けて損保代理店を開業する者から設備資金として三〇〇万円の申込みのあった案件で、営業譲渡人の公庫取引状況を確認しないなど、調査・検討が不十分なまま、また、信用調査票における財政状態の欄の記載を完成させないまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年九月一三日に注意・指導を受けた。

⑯ 土木建築業者から運転資金と設備資金として一三〇〇万円の申込みのあった案件で、担保不動産建物の火災保険請求権に質権を設定するとしながら、火災保険金額の確認を怠り、また、申込法人の代表者及び家族が所有する不動産について、消費者金融からの差押登記の経緯があるにもかかわらず、差押えの原因や他の負債の有無等についての検討を怠ったまま貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年一〇月七日に注意・指導を受けた。

⑰ 織物業者から一〇二八万円の設備資金の一部として、一三〇万円の申込みのあった案件で、高額の設備導入資金の一部としての借入れにもかかわらず、設備導入後の売上見込み等の設備効果についての検討を一切行わないで貸し付けると意見具申し、昭和六〇年一一月一三日に注意・指導を受けた。

⑱ 美容業を新規に開業する者から店舗等の設備資金として環衛貸付け五〇〇万円の申込みのあった案件で、不動産担保を徴求の上貸し付ける意見を出しながら、担保不動産調査票を未完成のまま意見具申し、昭和六〇年一一月二七日に注意・指導を受けた。

⑲ 理容業を営む業者で環衛公庫の振興事業施設貸付けの貸付対象者から理容電動椅子等の設備資金として二〇〇万円の申込みのあった案件で、特別利率年6.8パーセントを適用すべき設備であるにもかかわらず、その適用を誤り、基準利率の7.0パーセントで貸し付けるとの意見具申を行い、昭和六〇年一一月二八日に注意・指導を受けた。

⑳ 過去に網戸と化粧品の販売業者として取引のある顧客から、今回は化粧品とサッシ・ガラスの販売業者として四〇〇万円の運転資金の申込みのあった案件で、申込法人が一時期休業状態にあったことを知りながら、休業の理由、事業内容を変更し再開した経緯や今後の見通しについて一切検討しない上、既に設定済みの根抵当権を継続するにもかかわらず、担保不動産調査票を未完成のまま意見具申を行い、昭和六〇年一二月一六日に注意・指導を受けた。

イ 次に、証拠(甲一〇四、一〇六、三〇一、証人乙原五郎)によれば、浜松支店において、昭和六〇年四月から昭和六一年三月までの一年間で乙原課長が各審査担当者に投げ返しを行った申込案件数は、oが三件、pが一四件、qが三七件、補助参加人Eが六七件、rが一六件、sが七二件となること、この投げ返し案件数を同期間で処理した審査案件数に対する割合でみてみると、補助参加人Eが10.6パーセントであるのに対し、p職員が1.9パーセント、q職員が6.2パーセント、r職員が1.9パーセントとなること、右sは、昭和五八年に入庫して三年目の昭和六〇年に初めて審査を担当した者であり、審査事務に習熟していなかったこと、昭和六〇年一月ないし一二月までの一年間においても、補助参加人Eは右一年間で八二件の投げ返しを受けていることが認められる。

ウ 右認定の事実のとおり、補助参加人Eは、審査係の事務処理に関する基本的かつ重要な事項の調査、記載等について、度々漏れがあった上、投げ返しを受けた件数も他の審査係担当者職員に比べて多かったことからすれば、補助参加人Eは、原告における規定に対する理解に欠け、事務処理に関する基本的な能力が低いことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

これに対し、補助参加人らは、右アの各事例中、再調査等連絡票上再提出日が再調査指示日当日であるもの、再提出日の記載がなく、補正が即座に行われたものが合計一六例あるところ、このことは、これらの事例の過誤は極めて軽微なものであったことを示すというべきである旨主張する。しかし、当日あるいは即座に補正がされたからといって、直ちにその過誤が軽微であることにはならないし、仮に右各事例における過誤が軽微であっても、事務処理における基本的な事項について過誤を犯すこと自体が人事考課上低く評価する根拠となることは前記のとおりであるから、補助参加人らの右主張は理由がない。

(2) 浜松支店当時の事務処理状況について

ア 証拠(甲一〇四、一二七の一ないし三、証人乙原五郎)によれば、補助参加人Eの浜松支店における事務処理状況につき、次の事実が認められる。

(ア) 建設業を営む法人からコンクリート破砕設備の購入資金として、すでに設定済の根抵当権のほかに土地四筆に普通抵当権を設定することを希望しての借入申込みがあった案件について、補助参加人Eは昭和六〇年三月二二日に申込み法人の代表者と面接し、担保に徴求する不動産について調査及び評価を行った上で、八〇〇万円を貸し付ける旨の意見具申をした。これに対し、乙原課長は、債権保全を強化する趣旨から保証人を一名追加する条件を付した上で、補助参加人Eの意見どおり八〇〇万円を貸し付けることを決定した。

この決定に従い、法務局の担保設定登記の受理証明の確認をもって、昭和六〇年三月三〇日に八〇〇万円の融資を実行した(原告では、通常、担保設定の登記が完了した後に融資金を交付しているが、年度末においては資金需要に対処するための特例として、担保設定登記について法務局の受理証明を確認した時点で融資金を交付することとして差支えないという取扱いをしていた。)。

(イ) ところが、昭和六〇年四月に入り、登記完了後の不動産登記簿謄本から、普通抵当権を設定した土地四筆のうち一筆について、原告の担保設定前に第三者による所有権移転の仮登記が設定されていることが判明した。原告では、このような所有権移転の仮登記が設定されている物件を担保に徴求することは避けるか、あるいは、担保に徴求するにしても、原則として所有者を通じて仮登記の抹消を交渉し、抹消が不可能な場合は担保評価をゼロとして担保に徴求することとしているが、補助参加人Eが作成した本件に係る信用調査票においては、当該仮登記の設定については全く触れられていなかった。

(ウ) 乙原課長は、昭和六〇年四月一七日補助参加人Eにてん末を報告させ、また、法人の代表者に電話して事情を質した。その結果、以下の事情が判明した。

すなわち、本件審査の面接時において法人代表者は審査担当者である補助参加人Eに、提出した登記簿謄本には載っていないが、所有権移転の仮登記が設定されているかもしれない旨話をした。そこで、補助参加人Eは、仮登記が設定されている場合には抹消することを融資の条件とすると説明したところ、法人代表者は、万一仮登記があっても抹消することは可能であると答えた。しかし、その後補助参加人Eから何の話もなかったし、原告から届いた融資決定の通知には仮登記を抹消することが融資の条件に付されていなかったので、法人代表者は、この仮登記抹消の問題はなくなったものと理解していた。一方、補助参加人Eは、この仮登記は契約時までに抹消可能との説明を受けたのみで、信用調査票には記載せず、その際、改めて仮登記の件を法人代表者に確認したり、登記簿謄本で確認することもしなかった。

イ 右認定の事実、殊に、所有権移転の仮登記の有無は、担保評価及び債権保全上極めて重要なことであることに照らすと、この事例は、補助参加人Eは審査事務の処理がずさんであることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

これに対し、補助参加人らは、年度末の特例として、受理証明の段階で貸付金を交付するとの原告における運用は、登記簿謄本の確認に時間差が生じ、この間に第三者らによる登記や仮登記が設定される危険をはらんでいるものであって、その運用自体に問題があった旨主張する。しかし、右事例では、補助参加人Eは、審査を行った時点で、既に債務者代表者から、仮登記の設定があることの示唆を受けていたのであるから、補助参加人らの右主張は失当である。

(3) 浜松支店当時の自己啓発について

ア 証拠(甲一〇四、一二八、証人乙原五郎)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 浜松支店融資課では、審査事務を円滑かつ適正に処理するとの観点から「審査処理の取決め事項」を定めていた。審査担当者にはこの取決め事項を冊子にして配付し、その内容について周知徹底していた。

昭和六〇年五月二四日、補助参加人Eから製造業者からの申込みについて、設備資金として一三〇〇万円を融資する旨の意見具申があったが、「審査処理の取決め事項」では八〇〇万円以上の設備資金の申込みについては、原則として補助票(使途分析票(設備用))を使用して資金使途を分析することになっているにもかかわらず、補助参加人Eは単に通常の信用調査票の資金使途欄を使って資金使途の内容を記載していることから、乙原課長は「再調査等連絡票」に「高額設備の場合、補助票を使用して(設)効果検討のこと」と指摘して投げ返すとともに、併せてその旨を口頭で補助参加人Eに指示した。

(イ) ところが、補助参加人Eは乙原課長に「設備資金の金額がいくらから補助票を使用するのか。」と質問してきた。乙原課長が「あなたは取決め事項に定めていることを知らないのか。」と問い返すと、補助参加人Eは「知りません。」と答えた。乙原課長は補助参加人Eに対し、「あなたのようなベテラン職員が審査処理の取決め事項を理解していないようでは困る。あなたはこれまで審査事務を行うに当たって、どのような問題意識をもって取り組んでいたのか。」と注意するとともに、取決め事項における該当箇所を示し、適正に審査事務をすすめるように注意指導した。

イ 右認定の事実は、補助参加人Eは審査処理における基本的な取決めを理解する能力が低く、また、これを理解するための努力もしていないことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(4) 浜松支店当時の顧客との応対について

ア 証拠(甲一〇四、一三〇の一、二)によれば、補助参加人Eの浜松支店当時の顧客との応対につき、次の事実が認められる。

(ア) 浴場業を営む業者から店舗建築資金として借入申込みがあった案件について、補助参加人Eは昭和六〇年五月一五日に申込人と面接し、同年五月一八日に申込人の営業所所在地を実訪し、その後、最初の面接から八日経過した同年五月二三日に再度申込人と面接を行い、同年五月二七日に借入依存の設備投資であり先行きの不安が大きいなどとして融資を否決する旨の意見具申を行った。そして、翌日の五月二八日に正式に本案件について融資を否決することが決定され、申込人へその旨の通知がなされた。

融資を否決する旨の通知を受けた申込人は、同年五月二九日浜松支店に来店し、審査担当者である補助参加人Eに対して「融資できない問題点は何か。」、「あなたの話ぶりでは融資に希望が持てるものと思っていた。なぜ、そのような期待を抱かせるいい加減な話をしたのか。」などと苦情を申し立ててきた。

これに対し、補助参加人Eはほとんど無言で対応していた。そのため、やむなく乙原課長が補助参加人Eに代わって申込人に説明を行い、納得してもらった。申込人が帰った後、乙原課長は補助参加人Eに対し、「申込人からの苦情に対しては、あなたのようなベテラン職員であれば申込人を納得させるような的確な説明を行うべきである。」と注意した。

(イ) 建設業を営む法人から車両購入及び外注費の支払等の資金として一〇〇〇万円の借入申込みがあった案件について、補助参加人Eは昭和六〇年九月三〇日に申込法人の代表者と面接した。この法人が申込みに当たって届け出てきた保証人予定者は、申込法人の外注先で、代表者の父親とともにタイル工事業を営む法人の経営に当たっていた。ところで、この保証人予定者が経営に関与していた法人は原告と取引があり、その内容は返済が常時遅延しており、昭和六〇年九月時点においても、同法人への融資債権は遅延し未入金口として取り扱われているという状況にあった。

こうしたことから、補助参加人Eは、申込法人が届け出てきた保証人予定者は保証人としては不適当であると判断し、融資するに当たって保証人となる人物を変更することを条件とする旨の意見具申を行ってきた。その後、この申込案件は補助参加人Eの意見具申どおりの内容で融資することが決定した。

ところが、昭和六〇年一〇月七日、右保証人予定者から電話があり、乙原課長が応対したところ、① 昭和六〇年九月三〇日、補助参加人Eは申込法人の代表者と面接した際に、保証人予定者の会社の公庫取引に関して、その返済状況がよくないことを申込法人の代表者に漏らしたため、今後受注がストップするおそれがある、② 同日、補助参加人Eは申込法人の代表者に右の話をしておきながら保証人予定者のところにも電話をかけて、同人に対して保証意思の確認を行ってきた、といった点を指摘し、なぜ保証人予定者の会社と原告との取引状況を申込法人に漏らしたのか、そのために申込法人との取引に支障が出たら、原告はどのように責任を取るのか、また、保証人予定者が保証人として不適当であることを申込法人の代表者に話しておきながら、なぜ保証意思の確認を行ってきたのかと苦情を申し立ててきた。

乙原課長は右電話の後、直ちに補助参加人Eを自席に呼び、事実関係を確認したところ、右①及び②の事実を認めた。そこで、乙原課長は苦情の相手方に改めて電話をかけ、補助参加人Eの取った行動について謝罪した。

乙原課長は、補助参加人Eに対して、「今回のような保証人予定者のみならず、申込関係者と原告との取引状況を他の関係者には絶対に話さないこと。」、「保証人としては不適当であると判断していたのであれば、その保証人予定者に対して保証意思の確認をするのは適切でない。」と注意・指導した。

イ 右認定の事実は、補助参加人Eは事務処理に当たって責任感や注意力が低いことを示しており、人事考課上低く評価する根拠とする。

ウ これに対し、補助参加人らは、ア(ア)の事例につき、融資の否決を伝えた職員が、苦情等を述べるために来店した当該顧客に対し直接対応すると、感情の問題が生じて適切でなく、このような場合には、事務処理に直接携わっていない上司が冷静に対応して説明することが必要であって、このことは、契約係に関する「契約事務マニュアル」(丙三二)において、借入申込人からの否決理由等の問い合わせに対しては、審査事務担当役席が応対することと規定されていることに照らしても明らかであり、このような見地からすれば、右事例における補助参加人Eの対応は極めて適切なものであった旨主張する。

しかし、来店した当該顧客に対して、担当した職員が対応することが適切でないとは必ずしもいえず、かえって、審査に関する事情を把握している者が対応するのが適切である場合も多いものと考えられる。もとより、このように対応した上で、首尾良く納得させることができなかった場合には、上司に対応を任せるべき場合もあろうが、右事例の補助参加人Eの対応のように、顧客に対してほとんど無言でいるというのは、担当職員としての処理として適切を欠くとの評価を受けてもやむを得ないものというべきである。

また、証拠(丙三二、三三の一、二)及び弁論の全趣旨によれば、「契約事務マニュアル」における右規定の趣旨は、融資審査には直接関与せず、融資審査後の借用証書の作成等を担当する契約係担当者において、独自の判断で否決の理由を説明してトラブルに発展することを防止することにあると認められるから、右規定を審査係における対応に援用することは相当でないというべきである。

よって、補助参加人らの右主張は理由がない。

(5) 浜松支店当時の審査処理実績について

ア 証拠(甲一〇四)によれば、補助参加人E及びその他の担当職員の審査処理実績等につき、担当した審査案件のうち申込人又は保証人予定者について不動産の有無、所有不動産の内訳、権利関係の内容等を調査(不動産調査)した件数は、昭和六〇年四月から昭和六一年二月までの一一か月間で、補助参加人Eが七六件であるのに対し、副調査役のp職員が二二三件、副調査役のq職員が一二五件、五等級のr職員が四四一件であったこと、実訪を行った件数は、昭和六〇年四月から昭和六一年二月までの一一か月間で、補助参加人Eが一六四件であるのに対し、p職員が一六二件、q職員が一八二件、r職員が二三一件という状況であったことが認められる。

イ そこで検討するに、以上認定の事実のうち、実訪件数については、補助参加人Eは他の職員に比べて少ないとまでは認められないこと、不動産調査及び実訪の件数が、原告の主張するように、審査案件を処理に関する積極性の反映であるとまでは認められないこと、証拠(丙二九ないし三一)及び弁論の全趣旨によれば、補助参加人Eはこの当時気管支拡張症にり患していたことが認められることを総合考慮すれば、右の補助参加人Eの審査処理実績がそのまま人事考課上低く評価する根拠となるとは認め難い。

(6) 岡崎支店未入金係当時の業務意欲等について

ア 証拠(甲一三三)によれば、補助参加人Eは、岡崎支店未入金係当時、未入金口の「非対象口」の債権の管理を担当していたが、この担当職務は、未入金口債権の中でも遅延に陥ったばかりの債権のいわば初動管理であり、遅延原因がそれほど深刻ではない債権であることも多く、その主な事務処理は返済を求めて、督促文書を送付したり、電話をかけるという比較的定型的な事務であって、このような「非対象口」の債権管理は迅速かつ効率的に事務を行っていくことが求められていること、岡崎支店では、遅延直後の督促に始まり、一定の日数をおいて二回目の督促(二督)、三回目の督促(三督)を繰り返し、このパターンをきちんと実行することによって、弁済をさせようという方針であったこと、補助参加人Eは、このパターンどおりに督促することを怠ることがしばしばあったため、丙井課長はその都度注意・指導を繰り返していたが、同課長が岡崎支店を離任するまでこれが改善されなかったことが認められる。

イ 右認定の事実に、補助参加人Eが決まりどおり督促を行うことを怠るに当たって合理的な理由を認めるに足りる証拠がないことを併せれば、補助参加人Eが業務に対する意欲が低いことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(7) 岡崎支店未入金係当時の債権管理の実績について

ア 証拠(甲一三三、一三四の一、二)によれば、補助参加人Eが担当する直前の昭和六〇年度における「進度1」(返済期日を一〇日経過した未入金口債権)の岡崎支店の入金率は、ブロック及び全支店の平均値にほぼ近い、70.05パーセントであったこと、補助参加人Eが担当していた昭和六一年四月から昭和六二年九月までの間における岡崎支店の「進度1」の入金率は、72.65パーセントであり、ブロック平均に比べ4.01パーセント、全支店平均に比べ5.16パーセントも下回ったこと、補助参加人Eが担当替えとなった昭和六二年九月二一日以降については、その直後の昭和六二年一〇月から同年一二月(昭和六二年度第三・四半期)こそ、対ブロック比較でマイナス5.22パーセント、対全支店比較でマイナス4.90パーセントであったが、その後の昭和六三年一月から同年三月(昭和六二年度第四・四半期)には対ブロック比較でマイナス1.71パーセント、対全支店比較でマイナス0.76パーセントとマイナス幅が急速に縮小したこと、このような推移は、補助参加人Eの債権管理実績の水準が低かったことに原因があることが認められる。

イ 右認定の事実は、補助参加人Eは業務に対する意欲が低いことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(8) 岡崎支店未入金係当時のオペレーターキーの持ち帰りについて

ア 証拠(甲一三三)によれば、補助参加人Eは、昭和六一年三月から昭和六二年九月までの期間においてオペレーターキー(顧客との取引内容等を端末機を使用して入出力するために端末機にセットする必要がある物)の指定担当者となっていたが、この間に二度(昭和六一年三月二九日及び同年一〇月一三日)オペレーターキーを総務課長に返還することを怠り、持ち帰ってしまったこと、原告では、「端末機の役席キー及びオペレーターキー管理規則」において、オペレーターキーの保管等について厳格に取り扱うべき旨が明記されていること、二度目の持ち帰りの際には、翌日、補助参加人Eがオペレーターキーを返還してきたときに、乙岡次長が補助参加人Eを呼び、オペレーターキーを返還せず店外に持ち出したのはこれで二度目であり、職員として無責任であると厳重に注意し、補助参加人Eに反省を促す意味で今回の件についててん末を文書にまとめ提出させたことが認められる。

イ 以上のとおり、補助参加人Eがオペーレーターキーを二度にわたって店外に持ち出した事実は、補助参加人Eは業務遂行に当たって責任感が低いことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(9) 岡崎支店未入金係当時の入金処理の誤り等について

ア 証拠(甲一三三)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 昭和五九年五月二二日に飲食店を営む業者に対して環衛貸付けの設備資金として一四〇万円(以下「A債権」という。)と二一〇万円(以下「B債権」という。)の計三五〇万円を融資した案件(割賦元金の返済期日はいずれも毎月二五日、割賦元金はA債権が二万円、B債権が三万円)について、A債権は昭和六一年七月二五日返済期日分の入金がなく、未入金口債権となった。B債権については返済に遅滞がない上に一万七六一円の剰余金があることから、補助参加人Eは債務者に対して、A債権の昭和六一年七月分の返済については、B債権に計上されている剰余金一万七六一円を合わせて充当するから、それを差し引いた金額を入金するよう昭和六一年八月六日連絡した。そして、債務者からは同年八月一九日付けで一万五九三六円の送金があった。

(イ) ところが、補助参加人Eは回収係に対して、債務者の入金分とB債権に計上されている剰余金一万七六一円を合わせてA債権に充当するとの指示を一切行っていなかった。そのため、同年八月二一日回収係は債務者から送金があった一万五九三六円のみを、A債権に充当する入金処理を行っただけで、B債権に計上されている剰余金をA債権に充当する処理は行われなかった。その結果、債務者から送金のあった一万五九三六円はA債権の割賦元金二万円に満たないことから、昭和六一年七月分の入金とはならず、剰余金として計上されてしまった。そして、この一万五九三六円の未入金処理の記録(ジャーナル)は回収係から未入金係へ回付されたが、入金処理を行った昭和六一年八月二一日は本来の担当者である補助参加人Eがたまたま年次有給休暇を取得し休んでいたため、同じ未入金係の甲寺職員が回収係からジャーナルを受け取った。そして、甲寺職員は受領したジャーナルに基づき、未入金口債権を列挙した帳表である未入金口債権一覧表のA債権の欄に、昭和六一年七月分の入金がされた旨の記載をした。ところが、担当の補助参加人Eがその後この入金処理について全くチェックを行わなかった結果、A債権は昭和六一年七月分の入金がされていないにもかかわらず、未入金口債権一覧表上は昭和六一年七月分が入金済みであるということになってしまった。そして、A債権は次の返済期日である昭和六一年八月二五日において返済がされず、昭和六一年九月末をもって延滞口編入となる、いわゆる対象口の未入金口債権となった。しかし、対象口債権を担当する丙崎職員は、昭和六一年七月分の入金記録があるので昭和六一年九月末には延滞口編入とはならない、すなわち対象口ではないと判断し、債務者に対しては連絡をしなかった。その結果、A債権については未入金係が気付かないまま昭和六一年九月末に延滞口編入となってしまい、このことに未入金係が気付いたのが、延滞口残高一覧表が事務部から送付されてきた同年一〇月四日のことであった。

その結果、A債権についてはその後延滞係の担当者が債務者を訪問し延滞口に編入となった経緯を説明し、了解を得た上で、支払条件の変更を行い、延滞口債権から除外し正常な債権に復するという手順を踏む必要が生じた。

イ そこで検討するに、この過誤の最大の原因は、甲寺職員が未入金口債権一覧表のA債権の欄に入金がされた旨安易に記載した点にあると認められ、かつ、仮に補助参加人Eが回収係に対して、剰余金をA債権に振り替えて充当するよう指示していれば、過誤を防ぐことができたと認めるに足りる証拠はないから、右事実は人事考課上低く評価する根拠となるとは認め難い。

原告は、このような事態を招いたのは、補助参加人Eが、A債権の昭和六一年七月分の返済について、回収係に対してB債権計上の剰余金をA債権に振り替えて充当するよう指示をしていなかったこと、A債権の入金処理結果をチェックすることを怠ったことが主要な原因である旨主張するが、右の認定判断に反し採用できない。

(10) 岡崎支店未入金係当時の管理カードの保管について

ア 証拠(甲一三三)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 昭和六一年八月一三日から一八日までにかけて、岡崎支店において本店検査部による検査が行われ、そのうち未入金係に対する検査は同月一三日から一五日に行われた。なお、これらの日程についてはすべて、前月の七月下旬に検査部から支店あてに通知があり、この検査スケジュールについては職員にも周知していた。また、検査が始まってからでも、補助参加人Eは未入金係検査初日の同月一三日は平常通り出勤していたので、初日の検査の状況や、同月一四日以降、未入金口の管理カードを必要に応じて検査官に提示する必要があることは十分承知していた。

(イ) 同月一四日の検査当日、補助参加人Eは、始業直前になって電話をかけてきて、微熱が出たとして夏期休暇を申し出て休んでしまった。そのため、補助参加人E担当の案件で、検査官から説明を求められたり、管理カードの提示を求められたときは、他の未入金係が抽出することになったが、補助参加人Eが担当している管理カードの整理は乱雑で、どこにどのような管理カードを保管しているか見当がつかない状況であった。そのため、管理カードを一通り見なければ抽出できないといった事態となった。

イ しかし、審査係の担当案件の管理カードが、他の職員等の抽出の便利を考慮して保管、管理されなければならないことを認めるに足りる証拠はない上、右事例は、本店検査と補助参加人Eの急病による休暇が偶然重なった特殊な状況にあったために生じた問題であるから、人事考課上低く評価する根拠とするのは相当ではない。

(11) 岡崎支店未入金係当時の条件変更の報告及び事務処理の状況について

ア 証拠(甲一三三)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 条件変更を実施する際には、貸付金元帳の変更のために、「貸付条件・充当順序の変更等依頼・修正票」に、変更後の返済条件、条件変更の原因、貸付期間の延長の有無、保証人追加の有無などの必要事項を記入する必要がある。しかし、昭和六一年九月二二日、丙井課長が同票を検印していたところ、補助参加人E担当の案件で、貸付期間が延長となるにもかかわらずその記入がなされておらず、また、条件変更原因についての記入が漏れているものがあった。

(イ) 補助参加人Eは、債務者からの申し出に応じて条件変更を行った案件について、昭和六一年九月二二日、当該管理カードの提出をした。丙井課長がその記事を見たところ、保証人が「六一年一一月から債務者に期日入金させる。」と答えたとの記載になっていたが、利息については六一年九月から開始となっていたので、補助参加人Eに対し、利息の返済開始月について保証人にきちんと説明したか確認したが補助参加人Eは、元金の返済開始月である一一月のことしか説明していない旨返答した。

イ 右いずれの事例においても、報告や説明を懈怠するに当たって何らかの合理的な理由があったことを認めるに足りる証拠がないことに照らせば、補助参加人Eは的確な事務処理を行う能力が低いことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(12) 岡崎支店延滞係当時の指示の実行遅延について

ア 証拠(甲一三三、一三九)によれば、次の事実が認められる。

① 貸付日昭和五九年七月一九日ほか貸付金額計一〇八〇万円の案件で、昭和六二年八月三一日に債務者、債務者法人代表者及び保証人に対して訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、同年一二月三日まで約二か月半にわたり実行しなかった。

② 貸付日昭和五六年一二月二二日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年九月四日に債務者及び保証人に対して訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、管理を放置し、実行しなかった。

③ 貸付日昭和五八年八月三一日ほか貸付金額計三〇〇万円の案件で、昭和六二年九月四日に債務者に対する債務名義の取得後の管理方針を策定することの指示を受けていたにもかかわらず、管理を放置し、実行しなかった。

④ 貸付日昭和五九年一二月一七日貸付金額二八〇万円の案件で、昭和六二年九月四日に債務者及び保証人に対する債務名義の取得後の管理方針を策定することの指示を受けていたにもかかわらず、管理を放置し、実行しなかった。

⑤ 貸付日昭和五九年一〇月三〇日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六二年九月四日に債務者、債務者法人代表者及び保証人に対して訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、同年一二月二三日まで三か月余にわたり実行しなかった。

⑥ 貸付日昭和五二年七月二九日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年九月四日に保証人を実訪し、実態把握を行うことの指示を受けていたにもかわらず、管理を放置し、実行しなかった。

⑦ 貸付日昭和五八年六月三〇日ほか貸付金額計一〇五〇万円の案件で、昭和六二年九月七日に債務者及び保証人に対して訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、管理を放置し、実行しなかった。

⑧ 貸付日昭和五五年九月九日他貸付金額計四〇〇万円の案件で、昭和六二年九月八日に保証人について住所調査を行うことの指示を受けていたにもかかわらず、同年一二月一八日まで約三か月にわたり実行しなかった。

⑨ 貸付日昭和五五年七月九日貸付金額一三〇万円の案件で、昭和六二年九月九日に債務者及び保証人に対して訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、同年一一月一三日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑩ 貸付日昭和五八年一二月二八日貸付金額五〇〇万円の案件で、昭和六二年九月九日に債務者を実訪し、実態把握を行うことの指示を受けていたにもかかわらず、同年一二月四日まで約二か月半にわたり実行しなかった。

⑪ 貸付日昭和六〇年九月一九日貸付金額五五〇万円の案件で、昭和六二年九月一一日に原告からの一括弁済の催告に対し、保証人からの反応がなければ訴えを提起することの指示を受けていたにもかかわらず、同年一一月一三日まで約二か月にわたり実行しなかった。

⑫ 貸付日昭和五八年七月二九日貸付金額三五〇万円の案件で、昭和六二年九月一四日に債務者及び保証人を実訪し、実態把握を行うことの指示を受けていたにもかかわらず、管理を放置し、実行しなかった。

⑬ 貸付日昭和五三年三月一〇日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六二年九月一四日に債務者の勤務先の法人登記簿謄本を徴求することの指示を受けていたにもかかわらず、同年一二月一八日まで約三か月にわたり実行しなかった。

イ しかし、証拠(甲一三三、一三九)及び弁論の全趣旨によれば、右いずれの事例においても、指示を受けたのは補助参加人Eの前任者であり、補助参加人Eは指示の出された後から当該案件を担当することとなったこと、補助参加人Eは右各事例における案件をいずれも昭和六二年九月二一日から担当したが、昭和六三年一月八日には豊橋支店に転出したことが認められる。すなわち、補助参加人Eが指示の実行を遅延させた右一三の事例の案件は、いずれも前任者から引き継いだものである上、補助参加人Eはその三か月半ほど後には担当から外れたというのであるから、前任者から引き継いだ案件の総数が極少ないなどの特段の事情がない限り、補助参加人Eが指示の実行を遅延させたことをもって事務処理において無責任であるなどの評価をすることは相当ではないと解される。そして、証拠(甲一三三、一三九)及び弁論の全趣旨からすれば、前任者から引き継いだ案件の総数は、右一三件のほかに相当数あるものと認められるから、結局、右各事例は人事考課上低く評価する根拠とするのは相当ではない。

⑬ 岡崎支店延滞係当時の管理放置について

ア 証拠(甲一三三、一三九)によれば、次の事実が認められる。

(ア) 貸付日昭和五九年一〇月三〇日貸付金額八〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一八日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

(イ) 貸付日昭和五二年七月二九日貸付金額三〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一七日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

(ウ) 貸付日昭和五三年一〇月九日ほか貸付金額計五〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一七日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

(エ) 貸付日昭和五三年三月一〇日貸付金額四〇〇万円の案件で、昭和六二年九月二一日から同年一二月一八日まで約三か月の間、一切管理を行わなかった。

イ しかし、右いずれの事例も、その管理放置の始期は、補助参加人Eが延滞係を担当するようになった当日に当たり、また、昭和六二年一二月一八日までには管理を開始していて、放置した期間は顕著であるとまではいえないことに照らすと、人事考課上低く評価する根拠となるとはいえない。

(14) 岡崎支店延滞係当時の時効への注意について

ア 証拠(甲一三三)によれば、原告の融資で営業資金の場合の債権については、消滅時効は五年で完成するため、保証人が弁済する約束で返済条件の変更を行う場合などには、債務者について時効が成立することのないよう、返済期間を五年以内にすることとしていること、ところが、補助参加人Eは、昭和六二年一〇月二一日、保証人が弁済することを条件に条件変更する案件について、今後の返済期間が五年を超える条件変更を具申してきたことが認められる。

イ 右認定の事実は、補助参加人Eの事務処理に関する理解が乏しいことを示すものであり、人事考課上低く評価する根拠となる。

(15) 岡崎支店延滞係当時のマーケティング活動について

ア 証拠(甲一三三)によれば、岡崎支店では、昭和六一年の支店の重点目標に「継続的かつ計画的なマーケティング活動による実効ある融資の展開」と掲げており、全支店的にマーケティング活動に取り組んでいたこと、昭和六一年九月、原告と取引のある顧客のうち、借入残高が少なくなった顧客に対し、電話による業務推進活動を実施することになり、未入金・延滞係においても、同月一六日から一九日にかけて電話をすることとし、補助参加人Eを始め未入金・延滞係の職員に対し、各々案件を割り当て、実施結果を報告するよう指示したこと、ところが、同月一八日になって報告を求めたところ、補助参加人Eだけが全く実施していないことが判明したことが認められる。

イ 右認定の事実によれば、他の職員に比べて補助参加人Eの業務に対する消極的な姿勢が顕著であるというべきであるから、人事考課上低く評価する根拠となる。

(16) 岡崎支店延滞係当時の土曜日の年休の変更について

ア 証拠(甲一三三)によれば、原告では、土曜日については、毎月第二土曜日が固定の休日となっていたほかに、交替制で月に一度休務できることとされていたこと、この休務に当たっては、職員の要望も聞くが、原則として、原告が業務上の必要性に基づき、前月の二五日に翌月分について指定をしていたこと、補助参加人Eが昭和六二年一月二二日から同月二八日まで病気休暇を取得していたので、原告は、補助参加人Eの健康面も考慮し、昭和六二年二月、第一土曜日である同月七日を休日に指定したところが、補助参加人Eは同月二日になって突然、同月七日に指定されている休日を同月二一日に変更して欲しい、もし変更してもらえなければ同月二一日当日は年休を取得する旨申し出たこと、補助参加人Eが同月七日に休務するということで既に課内の調整も済ませていたので、仮に補助参加人Eの休務日を変更しないまま、補助参加人Eが同月二一日に年休を取得すれば、当日、未入金係はだれも出勤しないことになる状況にあったため、丙井課長は補助参加人Eにその旨説明し、協力を依頼したが、これに応じなかったこと、このため、丙井課長は、やむを得ず補助参加人Eの申出を認め、補助参加人Eの休務日を同月二一日に変更するとともに、他の職員の休務日を同月七日に変更して対応したことが認められる。

イ しかし、休務日の指定について原告の職員がその要望を述べることができることは右認定のとおりであるから、この件に関して原告の人員調整に一定の支障を来したとしても、これのみをもって人事考課上低く評価する根拠とすることは相当ではない。

(17) 岡崎支店延滞係当時の業務状況について

ア 証拠(甲一三三、丙二九ないし三一)によれば、岡崎支店当時、補助参加人Eは気管支拡張症による欠務(病気休暇)を繰り返していたこと、そのため、同支店においては、補助参加人Eが休む都度同人担当の仕事を他の職員に応援させるなどの対応をして、最低限業務が回るよう配慮したこと、また、補助参加人Eは、業務の必要により残業を指示されても、「都合がつかない。」、「今日はちょっと。」、「体調が良くない。」などと言って、これに応じないことがあったことが認められる。

イ そこで検討するに、欠務や残業拒否については健康上の理由からやむを得なかったというべきであって、このことで、補助参加人Eにつき業務に対する意欲を欠いているなどという評価につながるということはできない。しかし、一方で、この欠務や残業拒否によって支店の業務に度々支障を来していていた以上、原告が、その原因となった補助参加人Eの勤務状況等に照らして人事考課を行い、低い評価をすることも許されるというべきである。

結局、右事実は、人事考課上低く評価する根拠となるというべきである。

(18) 浜松支店及び岡崎支店における業務推進に対する姿勢、上司や後輩に対する補佐等について

原告は、補助参加人Eは、浜松支店及び岡崎支店それぞれにおいて、支店の業務推進に対する積極的な取組み姿勢はほとんどなく、提言や発言を行うこともなかった上、課長や調査役の補佐及び後輩職員に対する指導を積極的に行う姿勢にも欠けていた旨主張する。

しかし、原告における他の職員がそのような補佐、指導、提言等をどの程度行っていたかを含めて具体的事実が明らかでない以上、人事考課上低く評価する根拠とはならない。

(二) 結論

(1) 以上のとおり、昭和六〇年から昭和六二年にかけての補助参加人Eの勤務状況等に関する原告の主張(第三、一、5、(一四))は、審査処理実績が低調であったこと、業務推進に対する積極性に欠けること、後輩に対する指導等に欠けること、入金処理の誤り等があったこと、管理カードの保管がずさんであったこと、指示の実行遅延があったこと、管理放置があったこと及び土曜日の年休変更を行ったことの点は、いずれも理由がなく、その余の点はいずれも理由があるということになる。

(2) 次に、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人E及びその同期中位者の格付は、第二、一、5のとおりであり、同期者五四ないし五一名中下から一二あるいは一三番目に位置付けられていたことが認められる。

(3) そこで検討するに、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人Eの格付は、同期中位者のそれとの間で等級上は差がなく、号俸上も三号俸から五号俸程度の差に過ぎないのであって、このことと、昭和六〇年から昭和六二年にかけての勤務状況等とを勘案すれば、右各格付は不当に低いとは認め難い。

したがって、原告が補助参加人Eの組合活動等を決定的動機として不利益に取り扱ったものとは認められず、本件命令中この点に関する部分は取消しを免れない。

(4) なお、補助参加人らは、昭和六〇年度における補助参加人Eの勤務状況が原告の主張のとおりであったなら、特四等級の職務を遂行する能力に達していなかったのは明らかであるというべきところ、実際には補助参加人Eは昭和六一年度に特四等級に昇格しているのであって、原告の主張に沿う証拠は信用することができない旨主張する。

しかし、第二、一、2、(三)、(4)、アのとおり、特四等級の昇格基準は、「四等級にある者で、高度な判定的業務を行うとともに、必要に応じ課長、調査役を補佐して下級者の指導に当たる職務を遂行する能力に達していると認められる者」とされているところ、(一)(1)ないし(6)(浜松支店当時(昭和六〇年)の勤務状況等)における認定・判断からすれば、昭和六〇年度において、補助参加人Eの勤務状況等から推し量ることができる能力が右基準に相当しないとはいえないから、同年度において補助参加人Eの能力が特四等級の職務を遂行する程度に達していないということはできない。そして、確かに、(一)(1)ないし(6)における認定・判断のとおり、原告の主張事実には一部認定することができないものもあるが、そのことで、原告の主張に沿う証拠の信用性がすべて否定されるわけではないというべきである。

よって、補助参加人らの右主張は採用できない。

15  補助参加人Mについて<省略>

16  補助参加人Dについて<省略>

17  補助参加人Hについて<省略>

18  補助参加人Fについて

(一) 補助参加人Fは、昭和五二年一〇月から豊橋支店に、昭和六二年七月から浜松支店に勤務し、豊橋支店においては、昭和六〇年四月から恩給・契約係、同年七月から融資課未入金係、昭和六一年七月から融資相談・委託業務係として、また、浜松支店においては、恩給係として勤務していた(甲四七八、四八〇の一ないし五、四八二、四八三、乙八一四の一、一三〇八)昭和六〇年から昭和六二年当時の補助参加人Fの勤務状況等につき、原告は、第三、一、5、(一八)のこの点に関する原告の主張に沿って検討する。

(1) 証拠(甲四七八、四八二、五一一)によれば、次の事実が認められる。

ア 豊橋支店、恩給・契約係当時について

原告は、昭和六〇年四月一日から、恩給係と契約係を兼務させることにし、t課長は補助参加人Fに対し、それまで担当していた委託業務と庶務の事務の引継ぎを右同日までに終了しておくように指示したが、補助参加人Fは、係替えの当日の右同日になっても残務を完了させることができず、事務の引継ぎを終了することができなかった上、t課長に対し、恩給係と兼務することになっている契約係の仕事は当面できないと申し出てきた。t課長は、補助参加人Fに対し、同月六日までには引継ぎを完了するよう厳しく注意・指導した。

また、その後の補助参加人Fの恩給、契約係における勤務振りは、契約事務について他の職員の応援で対応せざるを得ないことが度々あるという状況であった。

イ 豊橋支店、未入金係当時について

(ア) 効率的な債権管理ができなかったこと

豊橋支店当時の昭和六〇年七月から昭和六一年三月まで、補助参加人Fには主に「非対象口」の未入金口債権の管理を担当させていた。

「非対象口」の未入金口債権の管理というのは、未入金口債権の中でも遅延に陥ったばかりの債権を対象にするもので、遅延原因もそれほど重大なものではないことが多く、その事務処理は督促の電話をかけたり文書を送付するといった比較的定型的な事務が大半を占めている。したがって、迅速かつ効率的な事務処理を行っていく必要がある。

しかし、補助参加人Fは、度々督促を間延びさせたり、パターンどおり進めることができず、二回目、あるいは三回目の督促を遅らせることが多くあった。また、債務者の約束が不履行の場合でも、債務者へ違約の追及を行わず、放置することも多くあった。

そのため、u課長は、その都度補助参加人Fに対し注意・指導した。

(イ) 管理カードの作成と役席への回付が遅れたこと

豊橋支店では、貸付けを実行してから間もなく返済遅延が発生し、かつ貸付残高が多いため債権保全について速やかに検討する必要があると判断される未入金口債権を「初期・高額口」として、特に重点的に管理していた。

このような初期・高額口の未入金口債権については、早期に履行遅延の原因を把握するとともに、債務者、保証人の実態や保全の状況を調査して今後の回収の見通しを把握し、速やかに管理カードを作成して、役席に提出の上今後の管理方針等について指示を仰ぐ必要がある。

ところが、補助参加人Fは、初期・高額口の債権について、管理カードの作成を怠り役席への提出を遅らせることがしばしばあった。そのため、u課長は、その都度注意・指導を繰り返した。

(ウ) 絶えず他の職員の応援を受けていたこと

補助参加人Fは、返済交渉等を的確に行うことができず、また、常に担当案件の事務処理が停滞する状況にあった。補助参加人Fが時間外勤務にほとんど応じないこともあって、補助参加人Fが積み残した仕事は他の係から時間外勤務により応援を受けて処理をすることとなった。補助参加人Fが未入金係として従事した昭和六〇年七月から昭和六一年七月までの間に、他の係の担当者が時間外勤務によって応援した時間は、延べ五〇人で八五時間に及んだ。

(エ) 無責任な勤務態度

昭和六一年四月、u課長と調査役、未入金係の補助参加人Fと松岡副調査役の計四名で、「未入金口対象口検討会」を開催した。この検討会は、各担当者の事務処理の進行具合を確認し、また、個別の案件についての対応などを協議する目的で毎月開催されていた。

補助参加人Fには昭和六一年四月から「対象口」の一部を担当させており、そこで、「昭和六一年四月二五日の「未入金口対象口検討会」で補助参加人Fの担当案件について検討したところ、返済交渉の不十分なものが多く認められ、u課長は席上補助参加人Fに注意・指導した。

また、u課長は、その場でこれらの交渉の不十分な債権について同月二八日に交渉を詰めることを指示した。しかし、補助参加人Fは、二八日に都合があるといって超勤を拒否して帰った。やむを得ず、もう一名の未入金係であるv副調査役と他の係の職員一名が二時間の時間外勤務で債務者との交渉を詰める仕事をせざるを得なかった。

ウ 豊橋支店、融資相談係当時について

(ア) 顧客への対応に問題があったこと

昭和六一年九月八日、豊橋支店管内の田原町商工会の関係者からu課長あてに電話で、「先程、当商工会が融資の申込みを取り次いだ案件について進行状況を電話で照会したが、電話に出た女性の応対が非常に無礼で、原告の職員とは思えないものであった。応対した職員はだれか。」と抗議があった。

u課長が、融資相談係の補助参加人Fに確かめたところ、田原町商工会からの照会を受けたことを認めたので、u課長は「あなたの電話での応対で商工会から苦情がきている。日ごろから商工会の職員やお客様には丁寧に応対すること」と注意・指導した。

(イ) 秘密保持の配慮が欠けていたこと

原告職員は、顧客の秘密保持に留意しなければならないが、昭和六一年九月一八日、補助参加人Fは融資相談の窓口で顧客が目の前にいるにもかかわらず、代理店からの既往取引照会(民間の金融機関が業務委託契約に基づき原告業務の一部を行うに当たって、顧客の取引状況等の情報を原告に照会してくるもの)に対し、その場で電話による回答を行った。

(ウ) 業務推進活動に対する取組みが消極的であったこと

① 貸付金残高が減少している顧客と、原告を未利用の企業に対してダイレクトメールを送付するため、昭和六一年九月二日、u課長は補助参加人Fに対してダイレクトメールの文書を立案するように指示した。ところが、補助参加人Fから九月八日になっても報告がなかったので、改めて、u課長は「ダイレクトメールの文書の立案を指示してから四日も経つ。急ぐように。」と指示した。しかし、補助参加人Fは速やかに実行せず、結局、補助参加人Fが報告をしてきたのは、同年九月一七日のことで、当初の指示から二週間も後のことであった。

② 昭和六一年九月三〇日には、ダイレクトメールを発送することとし、全店的に時間外勤務で対応することとしていた。融資相談係の補助参加人Fは率先して取り組むべき作業であったが、同日の時間外勤務に応じず帰ってしまった。

③ 原告が周知活動を行う業者団体等には、税理士事務所も含まれている。これは税理士が抱えている関与先の中で、資金需要のある企業に対しては、税理士を通じて原告の融資制度を周知してもらう目的によるものである。

昭和六一年一〇月四日に、税理士に対して年末資金の申込みの取次ぎを依頼するため、u課長が補助参加人Fに、この周知依頼文を立案するよう指示したところ、補助参加人Fは「来週一杯は委託業務も含めて手一杯なので再来週にしてほしい。」と発言してきた。結局、提出があったのは一〇月二〇日になってからであり、そのため周知文の発送は予定より大きく遅れることとなった。

④ 昭和六一年一〇月二七月に、u課長は補助参加人Fに対して、立案の遅れから予定よりも大分遅れることとなった税理士あて周知依頼文二〇〇通と、完済後取引が途絶えている顧客あてのダイレクトメール二七通を早急に発送するよう指示した。しかし、補助参加人Fは、今手が一杯で忙しいと口実を構えて実行しなかった。やむなく完済後の顧客あてのダイレクトメールは翌日u課長が自ら行い、税理士あてのダイレクトメールは同月二九日に補助参加人Fに再度指示をして、実行させた。

⑤ ダイレクトメールを発送した場合、資金需要の有無等について、後日、分担して顧客あてに電話することになっていた。u課長は、昭和六一年一一月七日に、補助参加人Fに対して右のような電話による作業を分担するよう指示した。また、これと併せて、進学貸付けの周知ポスターを関係団体あて発送するよう指示した。ところが、補助参加人Fはu課長に対し「いろいろやることが多くて手が回らない。」と言い訳をするため、u課長が「周知活動の中心的役割を果たすべき融資相談係のあなたが、手が回らないとはどういうことか。」と注意した。

エ 豊橋支店当時の代理店協議会の報告書の提出について

昭和六一年一〇月二四日、豊橋支店において、代理店協議会(代理店として原告業務の一部を委託している民間の金融機関との間の協議会)を開催した。同協議会には委託業務係の補助参加人Fも出席しており、同協議会の終了後、議事内容や意見交換の概要等を支店長あてに文書で速やかに報告することになっていた。しかし、いつになっても補助参加人Fから報告書が提出されないため、一〇日以上経過した同年一一月六日、x課長は早急に提出するよう指示した。しかし、この指示に対して大幅に遅れてこれを提出してきた。

オ 豊橋支店当時の業務概況の作成について

当時豊橋支店においては、定期的に支店の「業務概況」を作成し、管内の概況や業務の概況などを取りまとめていた。そこで、x課長は昭和六一年八月二八日補助参加人Fに対して、「業務概況」に掲載するため、「代理店の現状」(管内の五代理店の委託業務貸付残高、業務区域などを決まった書式に記入する書面)についてまとめて、同年九月二日までに提出するよう指示した。しかし、期限になっても補助参加人Fは指示された「代理店の現状」を提出しなかった。x課長が至急提出するよう注意したところ、補助参加人Fは、翌日である同月三日になって提出してきた。

カ 豊橋支店当時、支店の一人前の戦力になっていなかったこと

当時、補助参加人Fは頚肩腕症候群により長年にわたって通院治療を続けており、豊橋支店においても、病気休暇を原則として毎月一回は全一日、また毎週一回は午後三時以降二時間取得していた。そのため、日常の勤務は大幅に制限されており、時間外勤務も最低限の範囲でしか命じ得ない状況であった。

原告が業務上の必要に基づき、最低限の範囲の時間外勤務を命じた場合でも、補助参加人Fはこれに応じなかった。

キ 岡崎支店での抗議行動の件

昭和六一年九月二四日、補助参加人Fは他支店の職員や外部支援者と共に岡崎支店へ押しかけ、補助参加人Eの転勤の件で同支店店頭でビラを配布した上支店内に立ち入って支店長への面会を強要するなどした。

ク 浜松支店当時、単純な過誤を繰り返し、一向に改善されなかったこと

(ア) 貸付報告書の作成にあたっては、正確なデータを事務センターあてに報告しないと事後に多大な支障が生じるため、誤記入等がないように十分注意する必要がある。しかし、補助参加人Fは、報告区分欄の記入しない過誤を度々起こした。例えば、共済年金等の支給期である昭和六二年八月についての誤記入の件数は、同月四日に一件、同月二一日に一件、同月二四日に三件といった状況であった。(原告は、借入申込書の処理欄の貸付番号の記入がないことも過誤として挙げて主張するが、これは通常意見具申の段階では記入していないことが認められるから(丙七九)、右主張は採用できない。)

(イ) 保証人の保証能力を判断する際、原告との取引があればその取引状況が審査に当たっての有力な判断材料になるため、浜松支店では原告取引の有無をコンピューターの端末で照会するように取り決めていた。しかし、補助参加人Fはこれを度々怠った。昭和六二年八月五日にも、補助参加人Fはこれを怠り、貸し付けるとの意見具申をしてきた。そこで、z課長が保証人の原告取引の有無を照会するよう指示したところ、当該保証人については原告の既往取引が遅延していることが判明した。同課長は補助参加人Fに対し、保証人については必ず原告との取引の有無を照会するよう注意・指導した。

(ウ) 恩給係は、申込みのあった案件について審査を実施し、貸し付ける旨の意見具申を行う場合、借入申込書にある処理欄に、貸付番号、貸付日、貸付利率等を記入し、担当者印を押してから課長に回付して決裁を受けることになる。しかし、補助参加人Fは、処理欄の記入もれや誤記入といった不備のまま決裁に回付することがしばしばあった。例えば、国の恩給の支給期である昭和六二年一〇月の不備件数について述べると、同月八日に三件、同月一二日に二件、同月二六日に六件といった状況であった。

ケ 浜松支店当時、他の係との連携を怠っていたこと

恩給担保貸付けの借入れを申し込む顧客の中には、別途、事業資金として原告の普通貸付けを利用している場合もある。このような場合、債務者は窓口に来店するわけであり、未入金係とすれば債務者と交渉することができる良い機会である。したがって、恩給係は未入金係に申込みがあった旨の情報を提供するなど、連携して債権管理に取り組む必要がある。

しかし、補助参加人Fは、未入金係との連携を怠ることが度々あった。そのため、z課長は、昭和六二年八月五日と同年一〇月八日に、補助参加人Fに対し、申込者の普通貸付けが未入金口となっている場合は必ず未入金係と連携し、債権管理に十分留意するようにと注意・指導した。

コ 浜松支店当時、重要書類を放置したこと

恩給担保貸付けは、受給者が死亡するなど何らかの事由で受給権が失権した場合、担保とした恩給等の支給金を原告が顧客に代わって受け取ることができなくなるため、事故口債権として管理を行うことになる。事故口債権になると、管理カード基本票を作成し、貸付金元帳などの書類とともに保管することになる。

しかし、補助参加人Fは、昭和六二年八月七日、このような事故口関係の書類の保管を怠り、机上に放置したまま帰宅した。このため、z課長は、補助参加人Fに対して、責任を持って保管するよう注意・指導した。

サ 浜松支店当時、事務処理が遅く度々応援を受けていたこと

国や共済組合などから支給される恩給や共済年金等については、それぞれ支給期が年に四回定められている。この支給期になると、借入れを希望する顧客が増え、処理件数が増加することになる。

補助参加人Fは、事務処理に手間取ることが多く、そのため、自然と窓口で待機させられる顧客が増え、他の係が応援を余儀なくされることが度々あった。例えば、昭和六二年一〇月(国の恩給の支給期)についてみてみると、月間の貸付件数が一〇二件のうち応援で処理した件数は三三件と三割を超えており、さらに、このうち一〇月六日から一〇月八日までの三日間については、三二件の貸付けのうち半分の一六件を応援で処理せざるを得なかった。

シ 浜松支店当時、窓口での応対が悪く顧客からの苦情があったこと

(ア) 昭和六二年八月三日、恩給担保貸付けを受けている顧客から電話があり、z課長が対応したところ、顧客は、「九時過ぎに来店し窓口で借入れ相談をした。Fという職員はベテランに見えたが対応が悪い。言葉使いもいんぎんで失礼である。十分注意・指導してもらいたい。」と申し入れた。

四日後の同月七日に当該顧客は書類を持参して来店し、応対した同課長に、補助参加人Fはぶっきらぼうで丁寧さがない、ベテランと見受けるがてきぱきと事務処理をしてくれず客を待たせる、親切さがなく、客の話を親身に聞いてくれないと指摘した。

(イ) 昭和六二年一〇月一二日、借入れの相談に来店した顧客から、補助参加人Fの対応が丁寧さに欠け不親切であるとの苦情があった。

z課長は補助参加人Fに対し、「八月にもお客様とのトラブルが発生し、課長の面談で解決したことがある。本日も同様で遺憾である。客の応対が悪い。」と注意した。

(2) (1)ア(豊橋支店における恩給・契約係当時の勤務状況)、同イ(ウ)(他の職員の応援)、同(エ)(無責任な勤務態度)、同ウ(ウ)(業務推進活動に対する取組みの消極性)、同エ(報告書の提出遅延)、同オ(業務概況の作成の遅延)及び同カ(一人前の戦力になっていなかったこと)について

(1)ア、同イ(ウ)、同(エ)、同ウ(ウ)、同エ、同オ及び同カについては、証拠(丙七九)によれば、補助参加人Fは、頸肩腕症候群の治療のため、この当時週一回二時間の休暇が必要であり、実際にもそのように休暇を取得する状況にあった上、超過勤務を行うことも困難であったことが認められ、このことに照らせば、右の各問題性が即補助参加人Fに事務処理能力や業務意欲の低劣さにつながるものと認めることは困難である。

しかし、更に翻って考えるに、原告にとって、休暇取得が多く、超過勤務も行うことができないという勤務状況にある職員については、必要な場合に適時に業務を担当させることができる職員との対比で、その勤務成績が劣るとの評価を加えることはやむを得ないというべきである。このような観点からすれば、補助参加人Fの勤務時間に制約があることを主たる原因として生起したと考えられる右の各問題性は、やはり人事考課上低く評価する根拠となるというべきである。

(3) (1)イ(ア)(効率的な債権管理ができなかったこと)及び同(イ)(管理カード作成等の遅れ)について

(1)イ(ア)及び同(イ)のとおり、未入金係当時の補助参加人Fは、ある時期、効率的な債権管理を行うことができず、また、管理カードの作成と役席への回付が遅れたことが認められる。しかし、証拠(丙七九)によれば、昭和六〇年七月の段階で、補助参加人Fは、未入金係の業務を初めて担当することになったことが認められ、初めて担当する業務においては、一定の期間は順調に事務処理を行うことができない場合があるものというべきであり、証拠上効率的な債権管理等を行うことができなかった時期を特定することができないことにもかんがみると、(1)イ(ア)及び同(イ)の事実によっては、人事考課上低く評価する根拠とすることはできない。

(4) (1)ウ(ア)(顧客への対応の問題)、同(イ)(秘密保持の配慮の欠如)及び同シ(顧客への対応の問題)について

(1)ウ(ア)、同(イ)、同シ(ア)及び(イ)によれば、補助参加人Fが顧客との応接に丁寧さを欠き、また、秘密保持の配慮を欠くような勤務態度であったものと認められ、人事考課上低く評価する根拠となる。

(5) (1)キ(抗議行動)について

(1)キの事実、殊に、補助参加人Fらが業務に重大な支障を与えたことに照らせば、この行動が組合活動の一環であったとしても、そこに正当性を見出すことは困難であり、原告が、補助参加人Fは職場の秩序を乱す行為を行ったとして、人事考課上低く評価する根拠とすることは許されるというべきである。

(6) (1)ク(単純な過誤の繰り返し)について

(1)ク(ア)ないし(ウ)の事実、殊に、これらの過誤は単純なものであり、過誤を犯すについての合理的な理由がないことは明らかであること、同(ア)及び(ウ)においては、同様の過誤が短期間に相次いで繰り返されていることに照らせば、補助参加人Fが事務処理に当たって注意力や責任感に欠けることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(7) (1)ケ(他の係との連携懈怠)について

(1)ケの事実は、補助参加人Fが業務の円滑な運営について意を払うような責任感に欠けることを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

これに対し、補助参加人Fは、その陳述書(丙七九)において、この件に関して注意・指導を受けたのは昭和六二年八月五日のみである上、同日は、同年七月二五日に浜松支店に転勤した直後に当たる旨陳述するが、前記認定のとおり、補助参加人Fは同様の注意・指導を同年一〇月八日にも受けているから、右陳述は採用できない。

(8) (1)コ(重要書類の放置)について

(1)コの事実については、日常の業務における瑣末な出来事であるというべきであるから、人事考課上低く評価する根拠とすることはできない。

(9) (1)サ(事務処理が遅く度々応援を受けていたこと)について

(1)サの事実は、補助参加人Fは事務処理が遅く、その処理能力が低いことを示しており、人事考課上低く評価する根拠となる。

(10) 後輩に対する指導等について

原告は、補助参加人Fは後輩に対する指導、自己啓発への努力、支店の業務推進に対する積極的な姿勢に欠けていた旨主張する。

しかし、原告における他の職員がそのような指導等をどの程度行っていたかを含めて具体的事実が明らかでない以上、人事考課上低く評価する根拠とはならない。

(三) 結論

(1) 以上のとおり、昭和六〇年から昭和六二年にかけての補助参加人Fの勤務状況等に関する原告の主張(第三、一、5、(一八))は、効率的な債権管理ができなかったこと、管理カード作成等の遅れ、重要書類の放置、後輩に対する指導等の点を除き、いずれも理由があるものと認められる。

(2) 次に、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人F及びその同期中位者の格付は、第二、一、5のとおりであり、同期者四九名あるいは四八名中下から二番目に位置付けられていたこと、同期最下位者との号俸上の差も三号俸程度に過ぎないことが認められ、このことに照らせば、補助参加人Fは右各年度において同期者中最下位と実質上同視できる格付に位置付けられていたものと認められる。

(3) そこで検討するに、昭和六〇年ないし昭和六二年にかけての補助参加人Fの勤務状況等は、勤務時間の制約から支店業務に支障を来した上、業務上の注意力、責任感が欠ける点があったのであり、昭和六一年度ないし昭和六三年度における補助参加人Fの格付が不当に低いとまでは認め難いから、原告が補助参加人Fの組合活動等を決定的動機として不利益に取り扱ったとは認められず、本件命令中この点に関する部分は取消しを免れない。

19  補助参加人Pについて<省略>

五  同期中位者の等級・号俸の決定における男女の区別について

以上の検討に関連し、被告は、原告における人事給与面での男女間の差別は、少なくとも昭和五〇年代半ばころまでは実際に存在しており、昭和五九年度の時点においてもそのような人事上、賃金上の格差は残存しているとみるのが相当であるから、高卒男子の補助参加人らのうち、補助参加人B、同Q、同S及び同Cに関し、女子を除いた同期者のうちで中位者の等級・号俸を決定して認定・判断し、また、女子の補助参加人ら(補助参加人D、同H、同F及び同P)に関しても、女子のみで中位者の等級・号俸を決定して認定・判断している。

しかし、前記認定のとおり、右の高卒男子の各補助参加人らについては、関係する諸年度の勤務状況等に照らしいずれもその格付は不当に低いとは認め難く、不当労働行為の成立は認められないから、同期中位者の格付の認定に際して女子を除くのが正当であったとしても、結論に影響はないというべきである。また、前記の女子の各補助参加人に関して、女子のみで中位者の格付を認定するのが正当であったとしても結論に影響がないことは、右と同様である。

六  争点3(補助参加人の勤務状況等と本件命令の救済措置との関係等)について

1  以上認定のとおり、補助参加人らのうち、補助参加人J、同G及び同Lについては、労働組合法七条一号の不利益取扱い及び同条三号の支配介入の不当労働行為が成立する。

そこで、右不当労働行為事実と、被告が本件命令において命じた救済措置との関係を検討する。

2  一般に、昇格・昇給に関する差別の不当労働行為が認定される場合、労働委員会が採り得る救済措置としては、使用者に対して再査定を命ずる方法と是正すべき格付を具体的に命ずる方法とが考えられる。このうち、後者の方法に関しては、使用者の査定権(裁量権)との関係が問題となるが、本件の三等級への昇格についていうと、原告が人事考課において勤務実績等の事実を無視し、あるいは虚偽の事実を根拠として補助参加人らを殊更に低く評価している事実が疎明され、勤務実績等の無視又は事実の虚構の態様及び程度と他の具体的事実とを併せて考えると、原告が補助参加人らを三等級へ昇格させないために意図的にそのように低く評価していると推認できるときには、補助参加人らを三等級へ昇格させるべき時期及び格付に関し、比較の対象となる同期、同学歴の職員の能力、勤務実績等が明らかにされていない限り、労働委員会が裁量により同期、同学歴の職員の中位者と同等の格付をすることも適法であると解するのが相当である。労働組合法七条一号は、「その労働者を解雇し、その他これに対して不利益な取扱をすること」と規定しており、文言上損害の発生等が要件となる旨を規定していないから、同号違反を肯定するには、使用者が不当労働行為意思をもって不利益な取扱いをした事実(不利益な取扱いがされたというためには何らかの不利益の結果が生じたことを要するから、何ら不利益の結果が生じていないという場合には、不利益な取扱いをした事実自体が否定される。)の疎明(訴訟においては主張立証)を要するが、それをもって足り、その不利益な取扱いによって生じた実害の具体的な内容・程度は不当労働行為の成立要件そのものではないと解するのが相当である。労働組合法が、労働委員会の発令する救済命令という方法で不当労働行為によって生じた状態を是正することとしているのは、正常な集団的労使関係秩序の迅速な回復、確保を図るとともに、使用者の多様な不当労働行為に対してあらかじめその是正措置の内容を具体的に特定しておくことが困難、かつ、不適当であるため、労使関係について専門的知識経験を有する労働委員会に対し、その裁量により、個々の事案に応じた適切な是正措置を決定し、これを命ずる権限をゆだねる趣旨に出たものと解され、このような趣旨に徴して考えると、労働組合法は、不利益な取扱いによって生じた実害の具体的な内容・程度を要件としては規定せず、使用者が不当労働行為意思をもって不利益な取扱いをした事実を認定することができれば、労働委員会が、合理的な是正措置を決定するために必要な事実を職権で調査し、不当労働行為に関する事実とともにその事実を総合考慮し、裁量により、個々の事案に応じた適切な是正措置を決定することができる旨規定しているものと解するのが相当である。したがって、例えば、昇格差別の場合に、使用者が救済対象者と同期、同学歴の職員の能力、勤務実績等を疎明して救済対象者が相当劣っていることを示す等、昇格に関する具体的事情を疎明し、社内における処遇のバランス等に留意することが相当であることが判明したときには、労働委員会がこれを参酌せずに是正措置を決定すれば、裁量権行使の限界を逸脱したものとして違法となることがあり得る。しかしながら、使用者がそのような具体的事情を疎明しようとしないために、労働委員会には使用者の指摘するような実態があるのか否かが分からない場合には、労働委員会は、判明しているそれ以外の事情を検討して救済措置の内容を決定することができるものと解するのが相当である。例えば、昇格に関し不当労働行為を行った使用者が、是正のため必要な、比較の対象となる同期、同学歴の職員の能力、勤務実績

等を開示せず、資料が得られない場合には、労働委員会は、そのために救済措置の内容につき、例えば最も遅く昇格した者の待遇を基準にしなければならないという制約を受けるのではなく、諸般の事情を総合考慮して中位者と同等の処遇を行うよう命ずることができる。

3  以上を前提に、前記補助参加人ら三名について検討する。

(一) 補助参加人Jについて

四、3、(二)、(1)のとおり、補助参加人Jの過誤事例等に関する原告の主張はいずれも理由がなく、原告が人事考課上殊更に低く評価し、補助参加人Jを不当に低く格付けしたことに基づいて考えると、被告が、補助参加人Jについて同期中位者と少なくとも同等の格付をされるべきであったとして救済措置を執ることもその裁量権の範囲内であると解するのが相当である。

本件命令は、補助参加人Jについて、同期中位者を基準に、昭和五九年度から昭和六二年度の各四月一日における職位及び給与の是正を命じている。昭和五九年度分(調査役に任用し、三等級六五号俸に格付けして是正すること)については、第四、一、1のとおり取消しを免れないが、その余の年度分については適法であるということができる(本件命令は、不可分一体のものとして右の救済措置を命じているものではなく、昭和五九年度における調査役の職位及び給与の是正が取り消されるとすれば、昭和六〇年度に調査役に任用させることとするが、給与の是正については命令内容に変更を来さないこととする趣旨であると解するのが相当である。)。なお、昭和六〇年度分は三等級七四号俸に、昭和六一年度分は同等級八二号俸に、昭和六二年度分は同等級九一号俸に、それぞれ格付けするとの是正内容であるが、これは、右各年度における同期中位者の格付(特三等級六三号俸(乙九四四)、同等級七一号俸(乙九四五)、同等級八〇号俸(乙九四六))の給与月額を上回る直近の三等級の号俸に当たるから、救済措置として許される範囲を何ら逸脱するものではないと解される。

よって、本件命令のうち、補助参加人Jに関する部分は、昭和五九年度に関する部分を除き違法な点はないから、この点に関する原告の請求は理由がない。

(二) 補助参加人Gについて

本件命令は、補助参加人Gについて昭和五九年度から昭和六二年度の各四月一日における職位及び給与の是正を命じているが、昭和五九年度分については取消しを免れず、その余の年度分については適法であることは(一)と同様である。

本件命令は、補助参加人Gにつき、昭和六〇年度分は、職位を調査役に是正した上で三等級三三号俸に、昭和六一年度分は同等級四二号俸に、昭和六二年度分は同等級五三号俸に、それぞれ格付けするとの是正内容であるが、これは、右各年度における同期中位者の格付と同一であるものと認められ(乙九四四ないし九四六)、救済措置として相当である。

よって、本件命令のうち、補助参加人Gに関する部分は、昭和五九年度に関する部分を除き違法な点はないから、この点に関する原告の請求は理由がない。

(三) 補助参加人Lについて

本件命令は、補助参加人Lについて昭和五九年度から昭和六二年度の各四月一日における給与の是正を命じているが、昭和五九年度分については取消しを免れず、その余の年度分については適法であることは(一)と同様である。

本件命令は、補助参加人Lにつき、昭和六〇年度分は四等級二一号俸に、昭和六一年度分は同等級二九号俸に、昭和六二年度分は同等級三八号俸に、それぞれ格付けするとの是正内容であるが、これは、右各年度における同期中位者の格付と同一であるものと認められ(乙九四四ないし九四六)、救済措置として相当である。

よって、本件命令のうち、補助参加人Lに関する部分は、昭和五九年度に関する部分を除き違法な点はないから、この点に関する原告の請求は理由がない。

第五  結論

以上認定・判断したとおり、本件命令は、主文1項のうち、被申立人が、申立人J、同G及び同Lに対して、昭和六〇年度から六二年度の各年四月一日における職位及び給与(申立人Lについては給与のみ)につき、別表「賃金等是正一覧」のとおり是正し、既支給額との差額を支払わなければならないと命じた部分、同2項のうち、被申立人が、申立人J、同G及び同Lに対する右差額の支払が完了するまでの間、年五分の割合による金員を支払わなければならないと命じた部分並びに同3項及び同4項については適法であるから、この取消しを求める限度で原告の請求を棄却すべきであるが、本件命令中その余の部分については違法であり、原告の請求は理由があるから、本件命令中の該当部分を取り消すこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官髙世三郎 裁判官鈴木正紀 裁判官吉崎佳弥)

別表

同期同学歴者等級別分布表

1 表上のマーク、記号は以下のことを示す。

☆ 申立人

○ 申立人と同期向学歴の者1名を示す。

◎ 申立人と同一号俸の者

○ 申立人と同期同学歴の者の内中位の者(★は申立人も中位であることを示す。)

A~ 特殊な事情のある者並びに全国活会及び発展会のメンバーである。

2 「中位」は、各年度において対象人数を二分し(端数は切り上げ)上位からカウントしたものである。

3 表中の数字は、上から順に、各年度の年度当初における同期の中での「最上位の者の等級号俸」、「中位

の者の号棒」、「申立人の号俸」、「最低者の等級号俸」、「同期の者の人数紙で、( )は女性を除いた場

合」を示す。

4 昭和60年度以降、旧3等級は特3等級の課長と3等級の調査役に、旧4等級は特4等級の副調査役(表では

「副調」とする場合がある。)と主任(呼称)に各々分化した。

なお、ここでの「職位」は、それぞれ「相当職」を含む。

②33年大卒組(A)、④40年大卒組(R)、⑥45年大卒組(N)、⑧31年高卒組(B)、⑨32年高卒組(I)、⑩34年高卒組

(Q、S)、⑪40年高卒組(C)、⑬35年高卒<36年入庫>組(D)と36年高卒組(H)、⑮42年高卒組(P)<省略>

別表<一部省略>

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